【第8話 月と星】
――2018年12月22日(土) 7:15 美織の
冬の光がカーテンの隙間から部屋に柔らかく白い帯を作る。
床から這い出てきた冷気は、まだ夢の中に居る私の腕を掴んでくる。
「……あとごふん…。」
真っ白な指を払うかのように、お布団の神様と抱擁し直すと、隣で眠る美織が目を覚ます。
「うーさむっ…おはよぉ…サラっ」
おはよぉ……
声には出さないが確かに返した、はず。
(今日は、私の方が早く起きた。うん。)
「ハーブティー、淹れよっか」
起き上がると、寝室のドアを開ける。
(…まあ、起きるのは私が先だったし…)
咲蘭は再びお布団の神様と抱擁するのだった。
――いい加減に起きないとなとリビングへの扉を開くと。
いつものようにマグカップが、微かな湯気をあげ、
白いローテーブルの上にふたつ、私の起床を待っている。
「ん。おはよお…咲蘭っ」
ニコリと笑ってマグカップと一緒に迎えてくれる。
(ああ…普通の幸せってこんな色なのか)
朝食を済ますと、
美織が何かを企んだかのような笑顔で私を見る。
「えへへー、そういえばぁーっ…じゃじゃんっ!」
一眼レフを手に取り出した。
「今日から二人の写真、増やそうよ。まだちゃんと撮ってなかったし! スマホで何枚かだけじゃんっ」
咲蘭は一瞬息をのむ。
――あの日から、レンズの向こうに立つことを避けてきた。
父の笑顔とシャッター音が、胸の奥で鈍い痛みが響くから。
でも目の前の美織は、自然な笑顔で待っていてくれて…
その瞳に触れた瞬間、閉ざしていた小さな扉が、ゆっくりと開く音がする。
(まさか……こんな日が来るなんて……)
思わず、目の奥が熱くなる。
緊張と期待が、胸の中で静かに溶け合った。
「……うん、お願い…する。」
咲蘭は静かにうなずく。
手が少し震えても、自然に笑顔が返る。
シャッターが落ちる。
その瞬間、部屋の空気が少しだけ澄んだ気がした。
カシャ――
柔らかな光が、咲蘭の頬を走る小さな流れ星を捉える。
「可愛いよっ……」
わざわざ私の耳元まで来て、ぽそりとつぶやく美織に、咲蘭の胸は熱くなる。
「…っ! 恥っず!化粧してからにしてよっ…」
――精一杯の言い訳で、振り返って背中を見せることしか出来なかった。
「……ねえ、これ……見て?」
美織が、背後からそっと声をかけてくる。
モニターを覗き込ませるように、肩を寄せてくる。
「……どう? 緊張してるよねっ……可愛いよ」
可愛いと言われた瞬間、
自分の頬の熱が伝わってしまわないか、咲蘭は息を止めた。
画面の中の自分は、
少し強張りながらも、どこか柔らかく笑っている。
(……あっ)
こんな顔――
出来るんだ……私。
「……もう一枚、撮ってもい?」
今度は少しだけ、遠慮がちに。
美織の声が、先ほどより低くなる。
咲蘭は一瞬だけ迷ってから、視線を逸らしたまま頷いた。
「ね……今度は、変な顔…しないでよね…」
美織はクスッと笑いながら、カメラを構える…。
黒いレンズがこちらを覗いている…。
「んー…それは無理かも」
――こんな冗談も、言えるようになったよ…美織。
「あはは、おいおいっ…頼むよ被写体くん…っ」
――美織、ありがとっ。
再び、シャッターが落ちる。
――カシャッ…。
「……あ、あのさ…今度は、私が撮る…よ」
咲蘭がそう言うと、
美織は一瞬だけ、きょとんと目を瞬かせた。
「え、私?」
「うん。……私にも、美織撮らせてよ…」
美織からカメラを受け取ると、
無機質な手触りから、手のひらに柔らかな温度を感じた。
ファインダーを覗いた瞬間、
息を呑む。
真っ直ぐで、品のある――
月の様な美しさ。
ファインダー越しの美織は飾られていないのに、
まるで満月の夜にしか咲かない花のような…。
今、この距離、この時間でなければ、
決して開かない気がした。
その花はそこに咲いているだけで空気の密度を変える。
「……えっ…そんなに見る?」
美織が、クスクスと笑いながら少しだけ視線を逸らす。
さっきまでの余裕のある声より、ほんの少し上ずっている。
「……見るよ、じっとしていてね…被写体ちゃんっ」
そう答えたら、
美織は困ったように笑って、腕を組み、顎に手を当てた。
「……なんか、落ち着かないなぁ…」
その言葉に、胸の奥がきゅっと鳴る。
――カシャ
シャッターが降りると、時が止まる。
その一瞬しか咲かない花に、一生の時間を与える。
美織には、ほんのわずかの隙がある。
手が届かないはずの月が、
少しの背伸びで手が届くところまで降りてくる。
「……動かないでって言ったのにぃ…」
ムスッとした顔をして見せると
「緊張するんだってば」
美織が頬を染めて訴えかけてくる。
その姿が可憐で、吸い込まれそうになる。
(あ…この表情だ…)
私はもう一度レンズを向ける。
「……それ、私の台詞でもある…からっ」
震えないように、息を整える。
――カシャッ…。
その瞬間、
美織がほんの少しだけ目を伏せた。
「――ああ!!もう!!変な顔!!」
撮れた画像を見てふたりで肩を揺らして笑う。
「ね!もう一回、リベンジっ…おねがいっ」
美織は静かに頷くと、ファインダー越しに目が合う。
――カシャ。
音が響いたあと、美織が、ゆっくりと目を伏せる。
「……今の、どんな顔?」
「…んと…内緒。」
そう答えると、美織は腰に手を当てて、小さく笑った。
「えーっ、ずるいなぁ…」
その言葉に心が踊る。
少しだけ、間があって。
吐息に色付けられた言葉だった。
「……でもさぁ?」
美織が、声を落とす。
「咲蘭に撮られるの、なんか……嬉しいんだよね」
――思いがけない言葉に胸の奥が熱くなる。
「ちゃんと写ってなかったり、変な顔でも……私は嫌じゃない…かなっ。」
その“嫌じゃない”が、私にはとても甘く聞こえた。
レンズを下ろしたとき、私たちは、まだ同じ距離のままだった。
手が届かない距離でもなくて、
離れているわけでもない距離。
「……ね、美織。」
今度は、私のほうが小さく言う。
「また……撮っていい?」
美織は、一瞬だけ驚いた顔をしてから、すぐに、いつもの笑顔になる。
「仕方ないなあ…っ」
そう言って、ほんの少しだけ、私のほうに近づいた。
この距離でしか、
今しか咲かない花を抱えているかのように。
――2018年12月24日(月) 10:22 美織のアパート
玄関を出た瞬間、冷気が頬を刺した。
「うーーーっ…さむっ……!」
私はこの冷たい風が苦手だ…。
ああ…お部屋が恋しい…。
「だから言ったじゃん、
マフラー貸したのに…要らないって言うから…」
美織は自分のマフラーを咲蘭の首に巻く。
「ね、こうした方がいいでしょ?」
美織の体温を感じるあたたかさに包まれる。
――あと、安心する香りがする。
「…うーー。……いいの?」「いーのいーのっ!
今日はクリスマスなんだからっ、頼むよ主役君っ。」
ぽんっと背を叩かれる。
背筋がピンと伸びた気がする。
――ケーキ屋は、思ったより混んでいた。ショーケースの前で、咲蘭は値札を見て言葉を失う。
「……え、高くない?」
目が霞んで0が一個多く見えたのかもしれない。
「え? そう?」
美織は首をかしげてから、楽しそうに笑った。
「ご褒美ご褒美。年末だし、ねっ?」
「……ご褒美って、なんの?」
目を細めて値札とにらめっこする。
ほんの少しだけ、明日からの生活が陰ってしまいそうで…肩が震えた気がする。
「生き延びたご褒ぉ美っ!」
それ以上、何も要らない。
そんな覚悟が出来ているような力強い言葉だった。
結局、苺が綺麗に並んだ小さめのホールを選ぶ。
「……あと、これ1つ。」
星型のプレートチョコをこっそり美織が付ける。
私は慎重に箱を受け取った。
震える手は確かに、幸せの宝箱を捕らえて離さなかった。
帰り道、街は煌めきが散らばっていて
ずっと私の目には明るすぎて見れなかった。
――イルミネーションも、カップルも、全部遠かった。
でも今は、美織が隣にいてくれている。
ふと、美織の方に目をやる。
整った鼻筋、長く綺麗な睫毛、にこやかに笑う口角。
その全てが綺麗で、上品で…憧れる。
部屋に戻ると、コートを脱いで、
ケーキをテーブルに置く。
「ううーーっ、緊張した!揺らさないか心配だったー!!」
美織は笑う、普段そんなおっきい声ださないじゃんっ。
咲蘭は食器を運ぶ。
美織はカモミールティーを淹れながら言う。
「ねね、二人で撮ろっか?クリスマスだよっ?」「確かにっ…」
カメラのシャッター音が、柔らかく部屋に落ちる。苺の赤とカモミールの甘い香り。
咲蘭の、少し照れた顔。
「被写体さんっ、笑ってくださーい。」「いや、美織。それ言ってる人も写るんだよ…。」
ふたりはクスクスと笑う。
「あ、そだ…っ。」
美織がケーキの入っていた箱の底に手を入れると、小さな薄いケースが出てきた。
「じゃじゃーーんっ!星型のチョコーっ。」
「おおおっ…かわいいっ!」
私は思わず小さく拍手した。
「ね、半分こしよっか…」
ふたりで分けると、半分になっても星型のままに思える
ケーキは甘くて、爽やかな苺が際立っていた。
「今日は楽しかったね、咲蘭。」
ケーキを頬張りながらにこやかに笑ってみせる美織。
その笑顔に、咲蘭は一瞬だけ視線を落とした。
――リビングの引き出しの奥。そこにあるものの重さを、思い出す。
胸の奥が張り詰めていく…。
片付けが終わると、咲蘭は小さく息を吸った。
「……あのさ…美織」「んー?なあにー?」
重い引き出しを開け、二人の未来が詰まった薄い長方形の箱を取り出す。
「これ…その…クリス…マス…」
震える手と硬くなった表情。
どんな言葉を待ってるか想像がつく。
もう一度咲蘭の目を見つめる。
「クリスマス…プレゼントっ、
その…美織に…あげたくてっ。」
詰まる言葉を無理やり押し出していく。
胸が締め付けられるように疼く。
美織は、箱を受け取ると
目を伏せて、胸の奥から振り絞るように感謝を述べた…
「……ありがとっ…」
その一言が聞きたくて、
辛いことがあっても今この時のために全て準備した。
だけど…、返すべき言葉が見つからない。「……」
――これで、何かが変わってしまったらどうしよう。
そんな雑念が脳裏に過ぎる。
固まっている私をそっと抱きしめる美織。
私を抱きしめる腕も微かに震えていた。
美織は私の頬に手を添えて、そっと額を寄せてきた。
「ねっ、開けていい?」
――箱を開けると、小さな星と月のネックレス。
「わ、私が星でっ!その、美織が月…。」
(うまく説明できないっ…練習したのに…)
「そ…その、試着した時…本当に綺麗で、
このネックレスをしてる美織と…一緒にいたくて…」
顔が見れずに俯いてしまう。
あんなに、憧れた美織がすぐそばに居るのに…
不安と、焦りがうねりを上げて胸に沈んでいく
私の心臓のペースを早めてくる。
美織の唇が揺れる。
「咲蘭が…辛い思いをしてまで…私のためにっ」
話す度に、美織の肩が揺れる。
「一生…大事にする。」
美織は微かに笑顔を浮かべて私を見つめてくれた。
その目元には星々が煌めきを抱えていた。
――それだけで、十分だった。
二人の幸せな時間は明日に向かっていく。
このシングルベッドの上で肩を寄せあって、
数多の夜を越えてきた…、そんな今夜もふたりは掛けた月を星が埋めるかのように重なって眠る。
「ね…咲蘭ぁ…こっち向いて欲しい…」
「ん…っ、どしたの?美お…」――振り向いた瞬間、唇が触れた。短くて、静かで、確かなキス。
「ずっと…一緒に…いてよっ」
美織は咲蘭の胸元で丸くなる。
その身体は震えていて、誰かが支えてあげないと
崩れてしまいそうな…そんな気がした。
「私は…美織に感謝してる…
私に居場所をくれた美織に…」
もうどこにも行かないよ。
ここに居させてよ。
私は強く美織を抱き寄せた。
星は、また月に掬われた。
月もまた、星に温もりをもらった。
咲蘭が眠りにつくまで美織は、
その小さく儚い胸に額を寄せていた。
(私は…月と同じで…輝きを放つ存在の近くで、その光を反射しているだけだよ…)
幸せな二人の時間に、密かに影が伸びていた…。
星の光は、いずれ届かなくなるものだ、
輝きを失ってから長い時間を経てやがて消える。
めちゃくちゃ長くなっちゃった…
でも削りたくない部分なのでそのまま残しました!




