【第4話 揺らぐ約束の影】
――2018年11月20日(火) 23:15 美織のアパート・リビング
カモミールの湯気が、ふわりと部屋に広がる。
甘い香りが、夜の冷たい空気を優しく溶かしていく。
美織はマグを両手に持ち、咲蘭の隣に腰を下ろした。
毎晩の儀式。
帰ってきた咲蘭の疲れた顔を、そっと見つめる時間。
「んっ!……今日も、お疲れさまあっ」
美織の声はいつも通り柔らかく、優しい。
でも、今日は少しだけ、視線が揺れていた。
咲蘭はマグを受け取り、軽く息を吐く。
「……うん。ありがと……美織っ」
メイクを落とした素顔は、どこか幼く見えた……。
ただ、目の下の薄いクマが、今日の“シゴト”の重さを物語っていた。
(…サラ…無理、してないよね……?)
問い詰めたい衝動を抑えながら、自然と強ばる美織の掌には、いつもより深い爪の跡が残る。
咲蘭は一口飲んで、ふっと目を細める。
「……甘い。落ち着く……」
その笑顔に、私の胸が少しだけ温かくなる。
夜だけ重なる、この時間がたまらなく愛おしい。
まるで、恋人、みたいに……。
一方で咲蘭の胸の奥では、今日までの“美織への恩返し”が静かに積み重なっている。
(美織ばかりに、迷惑かけられない……もっと、稼がないと)
咲蘭の視線が、机の上の美織のマグカップに落ちる。
少し欠けたカップの縁。
あのお気に入りのシナモロールのカップだ……。
(新しいの、買ってあげたいな……)
――2018年11月21日(水) 14:18 新宿歌舞伎町
昼間の街は、夜のネオンとは違う顔を見せる。
咲蘭はスマホを握り、待ち合わせの男を待っていた。
短時間、効率よく。
美織が大学にいる間に、済ませる。
(今日も、ちゃんとルール守って……)
程なく、男が現れる。
普通のサラリーマン風。
「うおぉ…ルナちゃん、めっちゃ可愛いじゃん!!」
男の顔を見た瞬間、鼻の下がだらりと伸びているのがわかった。
――マジキモい、でも“金”のため。
咲蘭は微かに笑って腕を組む。
「こんにちはぁ、はじめましてぇ…今日はぁ、よろしくお願いしますぅ」
慣れた猫撫で声。怖さや不安じゃない。金のための演技。
でも、声に混ざる“危ない甘美”が、空気をひそかに震わせる。
タバコと汗の匂いが混じる部屋の奥まで、その感覚は届く。
決して手の届かないもの。触れようとすれば壊れそうな、17歳の少女の“価値”の片鱗。
胸がざわつく。瞼の裏にふわっと浮かぶのは、美織の優しい笑顔。
そして、空間に漂うのは――
獣の息遣い、汗の匂い、惨めで生臭い執着、みっともなく残る熱気。
触れることはできない。でも、確かに感じる。
この部屋に、確かに存在する“危うい甘美”。
(これくらいしかできないけど…少しくらい、恩返しになればな……)
――同日 23:45 アパート・シングルベッド
布団の中で、美織は毎夜と同じように咲蘭の手を優しく包む。
疲れを映した冷たい指先を温めるように……。
「……サラ、足…大丈夫…?」
咲蘭の肩が跳ね上がる。
「……え、なんで……?」
美織は目を伏せる。
帰宅したサラの足取りが少しおかしく見えた。
微熱っぽい頰の赤みも。
「……なんとなく……。無理、してないよね?」
咲蘭は慌てて笑う。
「……大丈夫だよ。美織のおかげで、毎日元気だから……」
その言葉に、美織の心が少しだけ締め付けられる。
(私がそうさせてる……? いや、違う…咲蘭《あの子》が決めたんだ)
手をぎゅっと握り返す。
「……おやすみ、サラぁ……」
「……おやすみ、美織っ」
絡まった指が、離れない。
美織は咲蘭の髪の香りを、そっと吸い込む。
この匂いが愛おしく、離したくないと思ってしまう。
――2018年11月27日(火) 18:05 大学帰りの駅前
美織はスマホを耳に当て、静かに話す。
周囲の人混みを避け、壁に寄りかかるようにして……
「……はい。成績や単位は問題なく、ご心配には及びません。」
声は普段の柔らかさとは大きく違い、人工物から鳴る音のような言葉遣い。
美織の父・司の圧迫感ある声が、電話越しに鼓膜に響く。
「はい、予定通り。進路についても、計画通りに進めており、問題ありません。……ええ、父様の通りに……。」
美織の瞳が曇る。
手のひらが少し冷たくなるのを、自分でも感じた。
スマホを握る指に力が入る。
この会話は、いつも同じ。
成果の報告と、期待の確認。
私の身を案ずる優しさだとか、寂しさを共有するものではない。
電話を切った瞬間、大きな溜息が周囲を染める。
その時……背後から声が。
「……美…織?」
聞きなれた鼻にかかる声の主は咲蘭だった。
偶然、駅で出会ってしまった。
美織の顔が、一瞬固まる。
「……サラ……!? どうして……?」
咲蘭は首を傾げ、さっきの会話を思い出す。
…不自然な言葉遣い。
まるで、ドラマで見たような、部下が上司に報告するみたいな声。
「……あの、電話って……お父さん?」
美織は慌てて笑う。
「……あー、うんっ、そう。」
取り繕うように、いつもの柔らかい美織に戻ろうとする。
でも、咲蘭の胸に違和感が残る。
(……美織…ひょっとして…)
その夜、美織はベッドで咲蘭を抱きしめる。
いつもより、少しだけ強く。
(…サラは、自由でいいな……)
羨望と、恐怖が混ざる夜。
東京の夜は、残酷だ。
――2018年12月1日(土) 22:30 アパート・リビング 2人掛けの白いソファ
週末の夜。
美織は大学で使ったマグカップを洗っている。
欠けた縁を指でそっとなぞる仕草を見て、咲蘭の胸がわずかに揺れた。
(新しいマグカップ、買ってあげたい……クリスマスだし、あと何か……)
スマホでプレゼントを探す。
美織……アクセサリーって付けてないよな……そういや……。
咲蘭は候補が浮かぶたび、心のままにスマホを指でなでる。
久々に“誰かのために時間を使う”感覚が戻ってきて、胸がほんのり浮き立つ。
……あーっ……月と星のデザイン可愛いーっ……
ネックレスかー……似合うよなあ……肌白いしシルバーがいいなあ。
あ、でもメガネのフレームって金色だったよなあ……。
画面とにらめっこしながら悩む時間は、静かに胸の奥を温めていく。
ソファの肘掛をつま先で軽く叩く癖さえ、咲蘭にとっては幸せの色をしていた。
ふと、画面の下に小さく書かれた値段が目に入る。
(……え、高っ!……マジ?……やべ、もっと稼がなきゃ)
決意が、静かに芽吹く。
大切な人への恩返しのために。
――2018年12月1日(土) 25:07 シングルベッド
美織は布団にもぐり込むと、咲蘭の膝に顔をうずめた。
「さむいよお……サラちゃぁん……うう……膝まくらあったくて幸せぇ……ううう……」
東京の冷たい夜風を“理由”に甘えるその姿は、
厳格な家庭に育つが故の孤独を、無意識にさらけ出していた。
咲蘭はそっと髪を撫でる。
指の間を黒絹の糸が流れるように、静かに、優しく。
吐息が触れ合うたび、小さな影さえ溶けていく。
まるで恋人みたいに……。
窓際へ入り込む夜の冷気を、ふたりの笑い声が溶かしていく。
子鳥みたいに柔らかい笑い。
夜の闇さえ温かく染める、幸せの色をした音色。
熱を帯びていく。
少しずつ、確実に……。
――2018年12月2日(日) 7:00 アパート・キッチン
咲蘭は母から連絡が来た。
「一度顔出せ。帰ってこい」
表向きの理由。
でも、咲蘭の胸に、別の計画が。
(この週末、実家に帰るってことにして……出稼ぎ)
自由に動ける。
新宿・池袋で、効率よくね。
クリスマスのため。
美織に言う。
「……今日、実家に帰る事になっちゃった。母に呼ばれて」
美織は心配そう咲蘭の目を見て静かに頷く。
「……無理、しないでねっ」
咲蘭は笑う。
(これで、プレゼント買える)
いつもよりもワントーン明るい笑顔だった気がする。
――2018年12月2日 23:50 アパート・玄関
出稼ぎから帰ってきた咲蘭。
少し痩せた気がする。
目の下にクマがあるような気がした。
美織は迎え、抱きしめる。
「……おかえり、サラ。無理、してない?」
咲蘭は笑う。
「……大丈夫だよ。美織のおかげで、元気だから」
胸の奥で、プレゼントのことを思う。
(きっと……似合うだろうなあ……ギリギリ足りる……)
美織は気づく。
壊れかけになった陶器を、愛でるように抱きしめる。
(サラは話してくれた……でも、私は隠してるの)
父の電話の余韻が、重く鼓膜に張り付いている。
正解を選び続ける為のレールから寸分でも外れることすら許されない。
美織の中に無自覚だが、確実に強くなる咲蘭の自由さへの、憧れ。
本当の意味の自由を持っていなかった彼女にあろうことか憧れを抱いているのだった。
二人は、互いの闇を隠すかのように黙って抱きしめる。
月が星の光を遮りながら、芽吹き始めたこの関係の花を歪に育て始めていることを、知らずに。
――2018年12月8日(土) 00:30 アパート・シングルベッド
布団の中で、手が絡まる……
震える手はもうそこにはない。
美織は咲蘭の髪に鼻を埋める。
「……んんんっ……サラぁ……好きだぁ、この匂いぃ……」
咲蘭の心臓が、高く跳ねる。
「……美織っ……私も……美織の匂いが好き……」
ね、こっち向いてよー
美織の甘い声がサラの耳と脳を撫でる。
向かい合うふたりの間には、
カモミールとシャンプーの甘い香りが織り混ざり、濃厚な媚薬のような余韻が広がる。
ねえ……サラ……
問いかけられる度に、咲蘭の瞳には
妖しく美しい艶を放つ美織のふっくらとした唇が焼き付いていく……。
歪に育つ百合の花も、その甘美な空間が覆ってしまう。
聖夜に忍び寄る薄く鈍い影の音が聞こえる……




