【第3話 回る約束の日々】
――2018年11月17日(土) 10:12 美織のアパート・キッチン
甘い卵焼きの皿が空になって、
咲蘭はまだ箸を持ったまま、俯いていた。
美織が立ち上がり、皿を流しへ運びながら、
軽めの声で言った。
「今日は土曜日だし、ゆっくりでいいよ。
でも……咲蘭の服、私のパジャマだけじゃ厳しいよね。
午後から一緒に買い物行こ?」
咲蘭はびくっと顔を上げる。
「……お金、ない」
小さく、恥ずかしそうにこぼす声。
美織は振り返って、満面の笑みを向けた。
「いいのいいの、私が出すってば。
だってほら、“同棲記念”みたいな? ……ふふっ」
「ど、同棲……?」
咲蘭の顔が一瞬で赤く染まる。
美織は嬉しそうに目を細め、わざとらしく軽口を乗せた。
「頼りにしてるよ、彼氏くん? ……なんてね、冗談冗談。
そんな可愛い顔しないでよ、ほんと可愛いんだから」
どこか“距離ここで固定ね”とでも言いたげな、
軽い茶化しが混ざる。
「でも、さ……ここはもう“咲蘭んち”なんだから。
遠慮しないで?」
“咲蘭”という正しい名前を呼んでいるのに、
その響きのどこかに“サラ”の気配が混ざっている気がして、
咲蘭は一拍だけ戸惑った。
(……今、なんか……変な、感じした)
でも言葉にできず、俯いたまま静かに頷いた。
(……こんな簡単に、“家”って言ってくれんのか)
――2018年11月17日 10:47 美織のアパート・リビング
身支度の途中で、美織がふと思い出したように言った。
「そういえば……あの制服、学校どこ?」
咲蘭は少し黙って、控えめに呟いた。
「……定時制……」
「あ、夜間なんだ。じゃあ昨日は学校帰り?」
咲蘭は横に首を振る。
「……授業はあった。けど、アポとったから…サボった」
美織は「え」と小さく漏らす。
咲蘭の声は、だんだん細く、影を落としていく。
「3万……手に入れられたら、しばらく持つかなって……
思った。でも……5万になって……なくなっちゃって……」
最後の笑いは、自嘲とも諦めともつかない乾いた音だった。
美織の瞳がわずかに揺れた瞬間、
咲蘭をそっと抱き寄せた。
「はいはい、大丈夫、大丈夫……ほら、こっち向いて」
背中をゆっくり撫でながら、
離さないように包み込む腕は、妙に強い。
咲蘭の肩は小さく震えていた。
「よし。
……じゃあ普段着、ちゃんと買いに行こっか。
いつまでもダウンで隠すわけにいかないしね?」
――2018年11月17日 14:30 渋谷109・PARCO
美織が手に取るのは、
くすみピンク、ミルクティーベージュ、ラベンダーグレー。
咲蘭が普段なら絶対選ばない「可愛い色」ばかり。
試着室で淡いピンクのニットワンピースを着せられ、
咲蘭は鏡からそっと目をそらした。
(……完全に、着せ替え人形……だよな。
持ち主が気分で服変えるみたいな……そんな感じだ)
「……こんなの、似合わない」
カーテンが開いて、
美織は真剣な表情で首を振った。
「ううん。似合う。
咲蘭はこういう色が、一番かわいい。
……私、ずっとこういうの着せたかったんだよ?」
まるで“最初からこの答えに決まってた”みたいに、
確信を持った声。
咲蘭の頬が熱くなる。
結局買ったのは、
● くすみピンクのふわふわニットワンピース
● オフホワイトのモヘアカーディガン
● ミルクティー色のリブハイネック
● 淡いパステルの下着一式
袋を抱えて歩きながら、咲蘭はぽつりと言った。
「……私、こういう色……昔は好きだった」
美織はくるっと振り返り、
嬉しそうに笑った。
「だよね!
咲蘭には可愛いのが似合うって、最初から思ってた!」
――同日 22:46 アパート・リビング
カモミールティーを淹れながら、
咲蘭が静かに言う。
「……月曜から、また昼間出る」
美織の手が止まる。
「学校は夜間、だよね?」
「……うん。でも……生活費……自分で稼ぐ」
美織はマグを置き、
咲蘭を真正面から見た。
覚悟が揺れているのが分かり、
口をつぐむ。
代わりに、ゆっくり、確かめるように。
「……どうやって、稼ぐの?」
咲蘭は目を伏せ、
そして少しだけ顔を上げた。
「決めた。
……体、売る…しか」
“しか”の一言が、
自分の価値をそこにしか置いていないことを物語っていた。
美織の指がマグを強く握り、
沈黙が落ちる。
咲蘭が続けた。
「あの夜は……アイツが飲めば増やすって言ったから……
酔わされて……仕方なかった……から……
だから今度は……ちゃんとルール決めて……
マシなとこ選ぶ……」
美織は唇を噛み、
数秒ののち、静かに息を吐く。
「……わかった」
その声は保護者のようで、
咲蘭は驚いて顔を上げた。
震えていたけれど、確かに言った。
「止めないよ。
咲蘭が、自分で決めたことだから。
でも、一つだけ約束して。
無理はしない。
……“サラ”が帰ってくる場所は、“ここ”だから」
“ここ”にだけ妙に力がこもっていて、
その響きは優しさより先に
“帰る場所は私が決める”という微かな主張を帯びていた。
けれど咲蘭には、温かい励ましにしか聞こえなかった。
咲蘭の目は潤み、震えていた。
「……ん」
美織は立ち上がり、
後ろから咲蘭を強く抱きしめる。
「私も覚悟決めたよ。
咲蘭が帰ってくるまで、ちゃんと待ってる。
おかえりって、私が言ってあげるから」
咲蘭はその腕を、かすかに握り返した。
「……ただいま、って言えるように……頑張る」
――2018年11月19日(月) 23:03 アパート玄関
美織は、玄関の方をそっと見つめていた。
七割は本気の心配、残り三割は――もし“サラ”が戻ってこなかったら、という言いようのない不安の視線だった。
帰ってくることは分かっている。
定時制も終わって、時間もいつも通り。
それでも、
まだ一晩しか経験していない世界に咲蘭を行かせた初日は、どうしても怖かった。
シナモロールのぬいぐるみを胸に抱きしめながら、
小さく息を飲んで鍵の音を待っていた。
カチャッ――
鍵が回る音が静寂を終わらせた。
ドアが開き、
暗い玄関でも映えるように“盛った”メイクの咲蘭が戻ってくる。
上まぶたにはラメのアイシャドウ、
下まぶたは涙袋がぷっくり強調されていて、
暗所でも可愛さが浮くように計算された色味。
そして肌には、
汗とタバコと男の匂いを吸って重たくなったファンデ。
夜の空気をまとったような“大人の匂い”が、
咲蘭の年齢を現実より上に見せていた。
「おかえりっ、“サラ”っ」
美織は張り詰めていた呼吸を、
少しゆるめるように笑って迎えた。
咲蘭は疲れていた。
でも美織のその表情に触れた瞬間、胸がゆるむ。
「……ただいまぁ……美織ぃ……」
初日にしては、少し甘えすぎる声。
本人も気づけないほどの“猫撫で”が滲む。
美織はその甘い声だけに気づいて、
気づかないふりをした。
ケトルに水を入れながら、背中だけで声を届ける。
「今日もハーブティー、一緒に飲も?
よく眠れるからさぁ……」
それは、
この部屋で生きていくための小さな儀式。
咲蘭は脱衣場へ向かった。
鏡の前でクレンジングを肌に馴染ませると、
濃い夜のメイクがゆっくり乳化していく。
ただ落ちていくのではない。
その“乳化”の中には、
肌に宿った男の気配までもが混ざり合って、溶けて消えていく感覚がある。
(……今日は大丈夫……
“陶器みたい”な肌に、戻れた……)
そう思った瞬間、
自分で“陶器”と表現した肌が
ただ白くて綺麗なものじゃなくて、
誰かに扱われる“モノ”にも見えた自分に
ふと、ひっそりと気づいた。
(……なんか…おもしろ……)
リビングに戻ると、
美織がマグを二つ並べて、
帰還を確かめるような眼差しで待っていた。
咲蘭はそっと座り、
くすみピンクのカーディガンの袖を軽く引っ張って、
マグを両手で包む。
美織は、それを見て
隠せない“安堵”と“少しの独占”を混ぜた声音で言う。
「……帰ってきてくれて、嬉しいっ」
咲蘭は、その“嬉しい”に
素直に愛を感じてしまう。
「……うん……ありがと……」
カモミールの甘い香りと、美織の優しさ。
咲蘭はそれらを深く吸い込みながら思った。
(……あったかい……ウチは……)
笑みが自然とこぼれる。
――同日 24:31 アパート・シングルベッド
カモミールの香りは薄れて、
部屋はカーテンから漏れる東京の冷たい明かりだけが照らしている。
咲蘭がドライヤーを止めて、ふわっとした髪のままベッドに入ると、
美織は昨日までと同じように、
“帰ってくる猫”のための隙間を作って待ってくれていた。
「そろそろ寝よっか」
いつもの優しい声。
遠慮も躊躇もなく、ただまっすぐ。
咲蘭が頷いて布団に滑り込むと、
美織がすぐに手を伸ばしてくる。
「……サラぁ? 手、貸して?」
自然と指が絡む。
冷たい咲蘭の手を、美織が包み込んで、
「……冷たいねーぇ」
小さな子どもに言うみたいな、少し笑った声。
咲蘭の指がわずかに震えた。
美織はその震えを確かめるように、ぎゅっと握り返す。
そして、咲蘭の背中に顔を寄せ、
まだ少し湿った金髪にそっと鼻を埋める。
「……はぁぁっ……」
その一息が、恍惚の色を帯びて落ちていく。
ハーブティとは違う、もっと深い、
身体の奥に降りてくる香りを吸い込むみたいに。
「この匂い……好きだなぁ……」
咲蘭の心臓が小さく跳ねた。
「……変態…」
小声で返すと、
「ごーめんごめん。でもね……やめなぁい。」
甘さの奥に意志があるような、淡い決意を含んだ声音。
耳元がくすぐったくて、
咲蘭の背中に電流が走るように感じた。
美織は満足したように額を咲蘭の肩へそっと預け、
そのまま囁く。
「……おやすみっ、サラっ」
「……おやすみぃ、美織ぃ…」
絡まった指は離れなくて、
でも痛くない重なり方でぴたりと続いていた。
咲蘭は目を閉じる。
(あったかいな……ウチは……)
父さんがいた頃みたいに、
安心しきった眠りへ落ちていった。
美織は咲蘭の寝息が聞こえても、
ずっと手を離さなかった。
もう離さないって、
静かに決めているみたいに――。




