【第27話 掠れる体温、光の残骸】
――2021年 7月初頭
夏の朝、光よりも先に外で舞う熱が
私を目覚めさせた。
美織が遅く帰る日が増えてから、
私はいつも先に目が覚めるようになっていた。
カーテンの隙間から漏れる陽射しが、
ベッドの上で眠る美織の顔を照らす。
「んー……おはよ…起きてたんだ…咲蘭」
美織が目を擦りながら起き上がる。
フラフラとした動きで手を伸ばし、
サイドテーブルに置いてあるメガネを掴む。
「おはよ。」と声をかけると振り返る美織。
フレームが少しズレていて、そういう所が可愛い。
顔はこちらの方に向けている。
でも、視線はスマホだった。
「今日も…やることいっぱいだなぁ…
ゴメンね、咲蘭。」
独り言のように呟きながら、
美織はスマホを手に取り、画面を確認する。
――私はここにいるのに。
おはよう、って声をかけたつもりなのに、
美織の目線はもう、
今日やるべきことに向かっていた。
洗面所に向かう美織の背中を見送る。
何も変わらない朝のはずなのに、
今までの“いつも”とは、
何かが少しずつズレていく感覚だけが残った。
――
専門学校の実習中にスマホに通知が入る。
『今日も遅くなりそう。ごめんね。』
美織からのメッセージ。
短くて、事務的で、文面はいつもと同じだった。
――今日はシナモンのスタンプは無かった。
『大丈夫、気にしないで。』
そう返信して、スマホを握りしめる。
寂しいなんて言えない。
美織は頑張ってる。
私が寂しいなんて言ったら、美織を困らせるだけだ。
スマホと私の間にある空間を見つめていると、
別の通知が入る。
『咲蘭っち、今日インライやるんだけど、
一緒にやろ?ゲストで出てよ!』
絵梨奈からだった。
画面を見つめたまま、指が止まる。
あの光の海に、飛び込むということ――
何百人もの視線が、私を見るかもしれない。
知らない誰かの言葉が、私に向けられるかも…
正直怖い。
――でも、このまま一人でいるのも、同じ。
『……絵梨奈が居るなら…うん、出るよ。』
実習中の雑音が一瞬遠くなる。
指先が震える。
送信ボタンの上を、指が何度も泳いだ。
押すまでの時間が、少し長かった。
――
夕方、絵梨奈の家に向かう。
インターホンを押すと、すぐにドアが開いた。
「咲蘭っち、来た来たー!」
絵梨奈が明るく手を振る。
その笑顔は、いつも眩しい。
部屋に入ると、スマホが三脚に固定されていて、
リングライトが、柔らかい光を放っている。
「今日さ、質問コーナーやるから、
咲蘭っちも一緒に答えてよ。」
「え、そうなの…
ぶっちゃけちょっと怖いんだよね。」
声が少し震えた。
絵梨奈が私を見て、優しく微笑みかける。
「大丈夫だってぇー、みんな優しいから。ねっ。」
じゃあそろそろ始めるかーと、
トントン拍子に準備が進む。
私はまだ、こっちの世界に居て
状況も掴めていないのに。
唐突に配信が始まる――
「はーい、みんなこんばんは!
エマだよー元気ー?てか暑いねー。」
絵梨奈が画面の向こうにいる人へ手を振っている。
すると、コメント欄が一気に流れ始める。
『エマちゃんこんばんは!』
『待ってた〜』
『今日も可愛い』
「え!可愛いありがとー!
今日はね、ゲスト呼んだよ。紹介するね。」
絵梨奈がカメラと視線を私に向ける。
スマホの黒い目玉と光る輪郭が私を覗いた。
「あ、わっ、その…
えっと……初めまして。ルナです――」
声が上ずった。
耳が熱い…なんだこの久々の感覚っ…。
コメント欄から、光が溢れ出す。
『え!!ルナちゃんだ!!』
『緊張してて草』
『初々しい』
『エマちゃんとルナちゃん尊い』
『ビジュ良、イケメン連れてそー』
――その一言は、予想はしていたけど、
実際見ると結構痛かった。
「あはは…みんなすご…。」
私は前髪を触って、軽く笑って紛らわせた。
「ルナっちさ、めっちゃ緊張してるでしょ?」
絵梨奈が咲蘭の硬くなった笑顔に気づいて話を振る。
「……い、いや、当たり前じゃん。」
素直に答えると、またコメント欄が流れる。
『正直で好き』
『ルナちゃん応援する』
『もっと喋って〜』
――少しも落ち着けない。
ずっと私の中で高いテンポで音が鳴っている。
絵梨奈が質問を拾っていく。
「えっとね、『ふたりの好きな食べ物は?』だって。」
絵梨奈が私に振る。
一瞬、言葉が止まる。
「……卵焼き、かな。」
その言葉が出た瞬間、
胸の奥が少し温かくなった。
美織が初めて作ってくれた、甘い卵焼き。
あの日の朝の光と、美織の笑顔。
「……卵焼き、いいよね。」
絵梨奈の声のトーンが、一瞬だけ柔らかくなった。
でもすぐに、いつもの明るさに戻る。
「私も好きー。ってことで次ー!」
そう言って、次の質問に移る。
コメント欄が流れる。
『卵焼き可愛い』
『ルナちゃんの好きなもの知れて嬉しい』
『今度作ってあげたい』
『ルナちゃんもっと見たい』
画面越しの何百人もの「好き」という言葉。
それは、私を満たしてくれるはずなのに、
胸の奥には、何も残らなかった。
――
深夜、美織が帰ってくる。
玄関のドアが開く音。
「ただいまっ…」
疲れた声。
でも、リビングに入ってきた美織は、
背筋を伸ばして、いつもの笑顔を作っていた。
「おかえり、美織。」
「お疲れさまっ、咲蘭。」
私はカモミールティーを淹れる。
美織の好きな、甘い香りのするお茶。
「ありがとう。」
美織はティーカップを受け取り、
一口飲んで、微笑む。
「美味しい…。」
その笑顔は、いつもと変わらない。
でも、美織はすぐにパソコンを開いた。
「ちょっとだけ、作業するね。」
「うん…。」
ティーカップは、私たちの間に置かれたまま。
湯気が立ち上り、ゆっくりと消えていく。
私はソファに座り、スマホを開く。
通知が止まらない。
絵梨奈のインライを見た人たちが、
私の個人アカウントに流れてきている。
『今日のルナちゃん最高だった』
『卵焼き作ってあげたい』
『また配信出てね』
『ルナちゃんフォローした』
画面の中の言葉は、優しくて、温かい。
でも、目の前の美織は、
パソコンの画面を見つめたまま、
私を見ていなかった。
二人の間には甘い香りだけが取り残されていた。
――
消灯後、ベッドに入る。
布団が温まる前に、美織はすぐに眠りについた。
疲れていたんだろう…
美織の寝顔は、月のように美しく、儚くて愛おしい。
指で頬をなぞって、軽く唇を寄せる。
――おやすみの代わりの挨拶をした。
私は暗闇で、スマホを握りしめている。
胸の中には、ライブ配信の余韻と、
何百人もの「好き」という言葉。
私は、スマホを胸の上に置いて
月明かりに照らされる美織の顔を眺める。
目の前にいるはずなのに、手が届かない位置にいる。
美織の寝息に寄り添うように目を瞑る。
まぶたの裏には、
あの時のコメントが、星のように流れていた。
――もう一度、スマホを手に取って画面を点ける。
画面の向こうの何百人は、
『愛してる』って簡単に言ってくれるのに。
一番そばにいる美織の『声』だけが、
どうしても聞こえてこない――
私は、画面の奥の人に返事をしながら、
美織の寝息だけを聞いていた。
布団の上で、スマホが不規則に息をつく。
通知が届くたびに、画面から漏れる光が、瞬いていて、
夏の星座の一等星のように居場所を伝えていた。
その淡い瞬きは、私の胸元を微かに照らすだけで、
隣で眠る彼女の背中を揺らすことさえできなかった。
いつの間にか、私も眠りに落ちていた。
スマホは、胸の上に置かれたままだった。




