【第25話 届かない光、知らない顔】
暗い海の底でずっと浮遊しているような。
そんな時間を過ごした。
咲蘭は数時間前に星の海を知った。
私の知らない咲蘭が、
もう手の届かない所に行こうとしている。
その事実が私を眠りから遠ざけた。
一月の冷気は無情にも窓をくぐって寝室に降り注ぐ。
隣には、咲蘭がまだ丸くなって眠っていた。
布団から脚を出す。
床に触れた脚が、現実を知らせるかのように、
冷えた感覚を伝えてくる。
リビングに入ると、
ハーブティーのマグが二つ並んで残っていた。
カモミールの香りはもう消えていた――
洗面所に行くと、鏡が私の姿を映し出す。
眠れない夜に揉まれた乱れた髪が、影を落としていた。
寝室からドアの開く音。
リビングへ向かうと、
そこには青白い顔をした咲蘭が、
スマホを見つめて立ち止まっていた。
おはよう――と声を掛けようとした。
その声はきっと胸に届かないことを察して
喉の奥に押し込んだ。
「あ…美織。おはよ…。」
咲蘭から声をかけてくる。
私と同じであまり眠れていないはずだ。
昨晩はずっとスマホの光を浴びていた咲蘭。
一晩明けても浮かない表情が私の胸を刺す。
「咲蘭、おはよぉ…眠れた?」
私は答えを分かっていて聞いた。
「寝たよ。美織は?」
――分かってる。
「――眠れなかったかなっ。」
笑って見せて誤魔化すことしか出来なかった。
小さな沈黙が二人を包む。
咲蘭の視線は、スマホに落ちている。
「……ねえ、咲蘭。
昨日…声、かけられなくてごめんね。」
謝ることしか、今の私には出来なかった。
咲蘭は少し目を丸くして、首を横に振る。
「ううん、美織が謝るのおかしいよ。」
そう言って、少し困ったように笑う。
「あのさ…
絵梨奈がくれた動画…バズっちゃったみたいで…。」
――エリナ。
息が一瞬止まる。
聞いたことのない言葉だった。
咲蘭の口から出た、知らない誰かの名前。
私は、いつから咲蘭の話を聞いていなかったんだろう――
忙しさにかまけて、咲蘭との会話を後回しにしていた。
あろうことか咲蘭の優先順位を、自分で下げていた。
思わず唾を飲み込む。
「……そうなんだ。」
一拍遅れて返した。
咲蘭は少し嬉しそうに、
でもどこか戸惑いながら続ける。
「うん、まだ全然慣れなくて…
でも、絵梨奈が色々教えてくれる。」
――エリナ。
「……そっか。」
私は笑顔を作る。
「私、Instagram、やってないからなー。」
――また嘘をつく。
咲蘭は「そっか」と小さく笑って、
スマホを手の中で少し握りしめた。
時計を見ると、もう学校に行く時間が迫っていた。
「…準備、しよっか。」
私が言うと、咲蘭は頷く。
いつもなら漂うトーストの香りも、
食器の触れ合う音もない。
時間だけが、私たちを急かしていた。
玄関で靴を履く咲蘭を見送る。
「じゃあ、また夜にねっ…美織。」
「うん、また後でね。」
咲蘭が先に出て行く。
私は少し遅れて、ドアを閉めた。
駅までの道を一人で歩く。
冷たい朝の空気が、頬を撫でる。
スマホを取り出して、Instagramを開く。
検索欄に『エリナ』と入れる。
いくつかスクロールする。
それらしきリールを見つける。
華やかで、キラキラしていて、
まるで雑誌の中から飛び出してきたような女の子。
――絵梨奈。
リールが再生される。
画面の中で、咲蘭が誰かの顔にメイクをしている。
指先は丁寧で、真剣な表情。
いつも私が見ている咲蘭と同じ、でも少し違う。
――私の知らない咲蘭達がそこにいた。
コメント欄には、たくさんの言葉が並んでいる。
動画の最後に、文字が流れる。
今日はルナちゃんにメイクしてもらったよ。
『makeup by @sarah_makeup2』
私は、その名前をタップする。
画面が切り替わる。
そのアカウントには、
サラという名前で動画も投稿されていた。
私の家の壁紙と同じ色の背景で、
私の知っている咲蘭が無言で咲蘭の顔を彩っていた。
その動画にも、いいねやコメントがついていた。
『え、ルナちゃんビジュやば』
『エマちゃんから来たけど、ルナちゃんかわちい』
『ルナちゃんサラって名前なのかな可愛い!』
私はスマホを握る手に力を込める。
駅のホームに着くと、冷たい風が吹き抜けた。
周りの人は電車を待ち、会話をしている。
私だけが、画面の中に取り残されていた。




