【第19話 承認と線の外側で】
――2020年4月某日 夜 美織のアパート
洗い物を終えて一息ついたタイミングだった。
ほんのりと香るハーブティーが作る柔らかな空気を、
スマホの着信音が揺らした。
画面に表示された名前を見て、少しだけ指が戸惑う。
父だ。
出る前に、テーブルの縁に指先を置く。
「……もしもし」
鼓動の音が耳の奥に流れてくる。
『――美織か』
いつもと変わらない声。
それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
『最近どうだ? 授業は、やっぱりオンラインなのか?』
父の声はどこか暖かく、胸の底にある滞留物を攫ってくれる。
一息だけ、小さくため息をつく。
「……うん。ほとんど、ね。」
父は声色を変えずに続ける。
『そうか。この状況だ。
就職のことも、考えにくいだろうな…。』
慰めでも励ましでもなかった。
ただ、言葉には暖かく漏れる橙色の微かな光を感じる。
でもきっとこう答えると、ガッカリするだろうな…。
「……正直、まだ何も決めきれてない。」
私のスマホは、言葉を飲み込んだまま沈黙する。
まるで、私を疑うかのように。
『――だろうな』
短く返される。
否定も、追及もなかった。
「でも…なんとなくアタリは付けてるよ…?」
言い訳のような言葉しか出なかった。
『そうか…。
お前の人生だ、悔いのないようにな。』
――父は、私の奥に線を引いてくれた。
それは、優しさというより責任に近かった。
あの日以来、父はこの距離感を崩さないまま、
もう取り戻せない時間に、責任という名の贖罪を静かに置こうとしていた。
……向かい合おうとする父に、
咲蘭の事を黙っているのも、申し訳なく感じる。
「あ、あのね…父さん。」
目線は自然と咲蘭へ落ちていく。
咲蘭は何も言わないまま、
会話が途切れない位置に立っていた。
少しの沈黙のあと、美織は言った。
「…今、私……ひとりの女の子と一緒に住んでるっ。」
音を失った空気が、逃げ場をなくしていた。
スマホの奥で、父が状況を整理しているのだろう。
『――それは、いつからだ?』
否定の言葉ではなかった。
だが、言葉と空気が一段冷たく感じた。
「その…一年、くらい前…から。」
伝えようとするほど、詰まる言葉。
『……そうか。』
一言、それだけだった。
「――黙ってて、ごめん…。」
すぐに返ってきた言葉は、意外なほど淡々としていた。
『一年一緒にいるなら、
それはもうお前の生活の一部だろう。』
美織は、思わず目を伏せる。
認められた、という感覚とも少し違う。
許可ではなく、評論に近い判断だった。
「新宿で…弱ってて……放っておけなかった。」
震える声で、取り繕うように重ねる。
「声を掛けないと…ここから離してあげないと…
消えちゃうような気がして。」
『人を見捨てなかった。それは悪いことじゃない。』
一拍置いて、続く。
『ただし、守り続ける必要はない。
その子にも、その子の人生がある。分かるな?』
この瞬間私は、一歩分背を押された気がした。
『その子、今も近くにいるのか?』
詰めるでもなく、あくまで確認のような言葉。
「……いる」
『スピーカーにできるか?』
私の返事に被せてくる、父も思うところがあるはず。
美織は一拍置いて、画面を見る。
スピーカーに切り替えるボタンを押す指が震えていた。
「……咲蘭」
咲蘭はまっすぐ私を見ていた。
私の知らない咲蘭だった。
とても冷静で鋭い目線が私の胸を刺す。
同時に脳裏にあの名前がチラついた。
ルナ――。
その表情は、夜を生き、
大人と対等な立場を作り出してきた顔だった。
最初に空を切ったのは咲蘭の鼻にかかるような柔らかい声だった。
「初めましてっ、美織さんのお父さんですか?
星崎…咲蘭と申します。」
こんな話し方をするんだ。
……ルナは。
『突然ですまないね。
初めまして。美織の父です。』
「はい、いつも美織さんにお世話になってます。」
『咲蘭さんと言ったかな?
体調と、生活だけは無理をしないように。
困ったことがあれば、美織に相談するといいから。』
この場に私だけ取り残されるような感覚。
“知らないあの子”と、“変わろうとする父”が会話する。
胸の奥に、感じたことの無い違和感が充満した。
「ありがとうございます。
その、美織さんを…責めないで…下さい。」
……私が守られている。
『責めるつもりはない。正しい事をしたと思う。
親としてはとても心配だが…、
君もしっかりしているようで安心したよ。』
……耳が遠くなるみたいに、言葉の輪郭だけが残る。
『美織を、頼んだよ。
今度は会って話をしよう。』
……私の立っている場所だけ、音と時間が止まる。
「はい、是非…私もそうしたいです。」
……守っていたはずの子が、
自分より先に“社会の顔”を持っていた。
――通話が終わる。
しばらく、部屋には重い静けさが降りていた。
カモミールの甘い香りだけを残して。
「…ふぅー……危なー、怒られなかったね。」
咲蘭が、クスクスと笑っていた。
髪を耳にかける仕草、一段低くなる声色。
私の知っている咲蘭達だった。
私は足元を見る。
昨日までいた居場所のような白い床は、フローリングの色に変わっている。
「ごめんね、急にこんなことになってっ。」
唇を軽く噛んで、咲蘭への想いを胸にしまう。
手にも自然と力が入るのがわかるくらいに硬直した。
ふと、咲蘭に無言で抱きしめられる。
「んーん、紹介してくれてありがと。
私もどこか安心したよ。」
……違う。この咲蘭はサラじゃなくて、夜の顔。
私を安心させるための、何かが降りている。
「いつか…さ、話さなきゃいけない気がしてたし…。
ずっとって思ってたけど…」
言葉を選ぶように話す咲蘭は、
どこかに行ってしまいそうな横顔をしていた。
「でもさ…っ、今は一緒に居ていいって、事だよねっ」
確認でも、約束でもなかった。
私は、ただうなずくことしかできなかった。
その瞬間、
“守ってあげている側”だと思っていた自分の足場が、
静かに崩れた。
父からも怒られなかった。
守られる場所からは一歩外に出され、
守っていたはずの咲蘭は一歩外に出る。
私に出来たのは、スマートフォンを伏せることだけだった。
世界はまだ止まったままだけど、
自分の立ち位置だけは、少しだけ動いた気がした。




