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【第2話 2人の決意】

東京の夜は、残酷だ。

でも、捨てたもんじゃない…かもっ…


――2018年11月16日 25:17 美織のアパート


鼻の奥がヒリヒリして、喉が掠れていく。

息を吐くたびに、胸の奥がじんわり熱を帯びる。


もう多分、泣く力なんて残っていない。

今日は、ただただ酷く疲れた…そんな夜だった。


美織は耳元で、そっと囁く。

「もう寝よっか…明日、起きたらご飯食べよ? ね…」


軋んだ髪を優しく撫でられる。

その指先の温かさに、咲蘭は少しだけ目を閉じる。


「土曜でしょー? 朝ごはん食べよ?」

まるで母のような、甘く柔らかい音色だった…


定時制高校に入って、家を追い出されてからは、

女の子の家に転がり込むなんて初めてだった。


今までの居場所は…

ネットカフェか、声をかけてきた男の家…

タバコと汗の混ざったホテルの部屋…


“安心して眠れる場所”なんて、記憶のどこにもなかった。


――カーテンの隙間から、街灯の淡い光。

終電が終わった街で、風が木々を揺らす音が響いている。


美織は壁側に体を寄せ、布団を半分だけ開けていた。


「……狭いけどさ……おいでよ…ね…」


その声は、東京で初めて聞いた”おかえりなさい”みたいな優しさだった…


ふわりと部屋に漂ったのは、風呂上がりのシャンプーの甘い香り。

目を閉じて吸い込む。

――でも、まだ遠い匂いだ。

胸の奥がざわつく。

こんな“普通のこと”に触れる自分が、まだここにいないみたいで…


思わず肩をすくめる。

居心地の悪さが、胸の奥で小さく疼いた。


「い…いいよ…床で寝る…から…」


羨ましいなんて…そんなの絶対に認めたくなくて。

だから、またいらない虚勢を貼ってしまった。


「はいはい、遠慮しないでっ」

美織は布団の空いたスペースを1回、2回と優しく叩く。


叩くたび、残された美織の香りがほんのり漂う気がして、

余計に居心地が悪くなる…


「えー、せっかくなんだから…ね?」


俯いて立ちすくむ私の手を引こうと、

美織がそっと近づいてくる。


その“距離の詰め方”が、どうしてか胸に刺さる。


(どこまでお人好しなんだよ…ほんと…)


咲蘭は観念した。

「分かった…分かったよ…行くから…」


「いいでしょうっ!」

どこか得意げな美織の顔が、ふと可愛く見えてしまった…


(もう…疲れたわ…)

息を吐くと、夜の空気が胸に染み込む。

少しだけ、安心できる気がした…かも。


――2018年11月17日 08:03 シングルベッド

長い金曜日が明けて、淡い光を漏らしていたカーテンは

冬の冷たい空気と混じりながら、静かに部屋を照らしていた。


(……美織……もう起きてるんだ…)


寝室の扉の向こうから、器の触れ合う小さな音が聞こえる。

その気配だけで胸が少しほぐれた。

――よかった。ここに、まだ居てくれてる。


扉をそっと開けると、知った甘い声が耳を撫でていった。


「おはよっ! よく眠れた?」


「……うす……」


返す言葉を探して、結局いちばん不器用な音になってしまう。


美織がクスクス笑って、

「良かったねっ」

とだけ言い残してキッチンに戻った。


「その……昨日は――」


お礼を言おうと、背中に向けて声を伸ばした瞬間。


「咲蘭は卵焼き、甘いの? しょっぱいの?」


まるで、言えずに飲み込んだ私の気持ちを

ふわっと受け止めて、別の形に変えてくれるみたいに。

わざと“どうでもいい話”を差し出してくる。


「……甘いの。」


一言だけ告げると、美織は嬉しそうに

「りょーかいっ」

とだけ言って、卵を溶き始めた。


「ねえ……なんで、そんな優しくしてくれんの……」


掠れた喉を震わせて出たのは、

ありがとうにも届かない弱い声だった。


(ありがとうすら言えないのかよ……私)


握りしめた掌には、爪の跡だけが痛々しく残った。


「んー……なんでだろうねっ」


思いもしない言葉が返ってきた。


「ほっとけないんだよねぇ……うん、うん」


その“間”が、じんわり胸に染みていく。

本当に、しみじみってこういう時間を言うんだと思った。


――2018年11月17日 08:27 美織のアパート・キッチン・テーブル


美織がフライパンを片手にぱっと振り返る。


「さ、座って座って!」


あどけなさの残る笑顔に、

不慣れな姉のような柔らかさが混じる。


「じゃーん♪ 美織ちゃん特製卵焼きでーす…」


ふわり、と甘い香りが漂った。

砂糖の甘さ、子供っぽい優しさ。


咲蘭はテーブルに座ったまま、

ぼんやりとその香りを嗅ぐ。


(……ここの匂い、全部甘いな…)


カモミールも、シャンプーも、

目の前の卵焼きも……


甘すぎて、胸の奥がざらつく。

こんな甘い匂いの中でご飯を食べるなんて、

自分にはまだ似合わない――

そう、どこかで思っていた。


美織は得意げに皿を置き、向かいに座る。


「どう? 甘めにしたけど…」


フフッと、くすぐるような笑い。

泣き明かしたしわくちゃの私の顔を、

柔らかく照らした。


咲蘭は箸を取り、一口。


……甘い。

砂糖と卵が、舌の上でゆっくり溶けていく。


「……うま…」


それだけ口にしたら、

美織の顔がぱっと輝いた。


「やったー!」


まだあどけない笑顔。

でも、どこか幼くなく、確かな存在感がある。


咲蘭は、

その笑顔を見ながら、

胸の奥がまたざらついた。


(甘すぎる……でも、嫌じゃない……)


突然…美織が箸を置き、

真正面を見据える。


「……昨日さ、どうしたの?

 あんなところで、ひとりで……」


その言葉の重さに、

さっきまでの柔らかさが凍りついたようで。

美織の切れ長の瞳は、鋭さを増して、

私の胸の奥まで突き刺さしえぐった。


甘い香りが残るテーブルの上で、

時間だけが、重く、鈍く、流れる。


咲蘭は、卵焼きを喉に詰まらせながら、

ゆっくりと口を開いた。


――2018年11月17日 08:31 美織のアパート・キッチン・テーブル


卵焼きの甘い匂いが、静かに部屋を満たしている。


美織は向かいに座って、咲蘭の顔をまっすぐ見ていた。


「……昨日さ、どうしたの?

 あんなところで、ひとりで……」


その声は、いつもの優しさのままだった。

でも、視線は違った……。


咲蘭は箸を握ったまま、顔を伏せる。


沈黙が続く。

…3秒、…5秒、…10秒と。

重く鈍い時間が続く。


私とはまるで違う世界で生きている美織に

私の泥まみれの人生を話すことが恥ずかしかった…。


「……話し…たくない。」


いつもの鼻にかかる声は出ない、掠れた声だった。


美織は目を逸らさない。


(ああ…逃げられそうもないな…)


咲蘭は息を大きく吸って、

ゆっくりと口を開いた。


「その……5万で体売って、

 金だけ取られて逃げられた…」


最初は虫の鳴くような小さかった声が、

だんだん震えながら、堰を切ったように溢れていく。


・13歳で両親が離婚

・かつて母だった人の話

・父が払ってくれたから行ける通信制高校と

・それを理由に家を追い出されたこと

・ネットカフェとラブホと公園のベンチ

・何人目かわからない男たち

・結局、いつも捨てられてきた


17歳で背負える重さではなかった。

咲蘭の細く脆い肩には、美織が思う何十倍もの錘が乗っていた。


「……私、もう帰るところないんだ」

咲蘭が涙を浮かべながら声をふるわせて言った。


視界には甘い卵焼きと、乱雑になった箸。


テーブルに、ぽたり、と星が落ちた。


美織は、箸を落とした。

カラン、と小さな音。


「……えっ……」


美織の声が、震えてる。

美織の瞳が、初めて揺れた。


――その瞬間、美織の中で何かが壊れた音がした。


『――美織ちゃんは恵まれてるよねぇ』

『立派なお父さんが居て、美織ちゃんもしっかりしていて』


いつも、そうだ…耳障りな言葉ばかり…

私の事なんて誰も分からないだろうな…。


・“ご立派な”父さんとの写真

・一人暮らしだけど、仕送りもちゃんとある

・大学もちゃんと通えてる


だけどさ…

親の決めた事を決められた通りにするしかない人生だった。


“父さんと写真を撮るため”に着た浴衣…

“父さんの為に友達もつくらず”打ち込んだ受験勉強…

“いいお嫁さんになれよ”と父さんが通わせた料理教室…

“ピアノができると優遇あるからな”と通ったピアノ教室…


“父さんを喜ばせるために”作った笑顔…


私は笑顔が得意だ…喜んでくれるから…


私には選ぶことも遊ぶことも…

逃げることも出来なかった…


“自由がない”って、勝手にそう思ってた……

だけど……違った……


目の前の女の子は

“本当の意味”で何も持っていなかった。


私は自分の手のひらを見た。

汗ばんで震えていた……。


「……ごめん」


初めて、美織が泣いた。


「ごめん……私、その…知らなくて……」


咲蘭は顔を上げた。


私の涙を見て、咲蘭は目を見開いた。


「なんで……美織が泣くの……?」


私は首を振って、

涙を拭いながら、

でも確かに笑った。


「……だって、私ッ! 自由がないって思ってた…!

 だけど、キミの…咲蘭の隣にいたら、

 私がッ…どれだけ恵まれてたかっ…思い知らされた」


咲蘭は言葉を失ったように私を見つめていた。


いても立っても居られなかった。


立ち上がりテーブルの角を回って、

音を立てて割れそうな陶器の隣に座り直した。


そして、そっと手を重ねる。


「……決めたッ!」


大粒の涙を流して、はっきりと言った。


「さらは…ここに帰ってきていいんだから……ねっ」


その瞬間、咲蘭の中で、

12歳から止まってた時間が、

また音を立てて動き出した。


美織が口を開く…

「昨日さ…交番、行かなかったじゃん…あれって……」


咲蘭は息を飲んだ

「行けなかったんだよね…お母さんが呼ばれるから」


空気が、音を立てずに重く沈む。


「怒られるかもしれないとか、

 失望されるとか、

 知らない人の前で“娘として”扱われるのが……

 怖かったんでしょ?」


咲蘭の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。


考えたくなかった記憶が、

勝手に蘇る。


――交番の待合椅子。

――迎えに来る母の、露骨なため息。

――“あんたが施設なんか入ったら私が笑われんでしょ”

――“迷惑かけんなよ”

――迎えに来るくせに、救いじゃない帰り道。


胸が締め付けられ、

声が出ない。


咲蘭の沈黙に、

美織の表情が、わずかに揺れた。


咲蘭は、小さく首を振る。


「……行けない。

 行ったら……来るから。

 あの人が……」


「来る……?」


「……迎えに。

 絶対来る。

 来て、怒る。

 “迷惑かけるな”って。

 “恥かかせるな”って。

 また……私のこと……」


声が砕けた。


言葉にした瞬間、

ずっと隠してた傷が露わになってしまったみたいで、

呼吸が乱れた。


美織は、

咲蘭の途切れ途切れの言葉を聞くたびに

眉をひそめ、

胸を押さえるみたいに小さく震えた。


「……そっか……

 だから、“助けて”って言えなかったんだ……」


美織は唇を噛み、

でも怒りでも同情でもなく、

ただ悔しさで目を潤ませていた。


「咲蘭……」


声が震えていた。


「……もう、そんな思いはさせない。

 交番に行かなくていい。

 “あの人”を呼ばなくていい。

 ここ……ここに来ればいい。

 来て……頼って……家にして……」


咲蘭の視界が滲む。

冷めた甘い卵焼きが、やけに切なくみえた。


「……マジ……?」


「うん。

 ほんとだよ。

 ここは“キミがいるべき場所”だから」


その言葉で、

咲蘭の中の“昨日までの世界”が、

音を立てて崩れていった。


美織は、そっと彼女の手を包んだ。


「大丈夫。もう、そんな思いさせないから」

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