【第17話 美織であろうとする時間】
――2020年4月10日 8:07 美織のアパート
スマートフォンが机の上で音を立てて震える。
通知は母からの着信。
私は、指を止めて少し考えた。
ため息を一つ、画面をそっと伏せた。
じわじわと張り詰めた空気が部屋の空白を埋める。
無視したという自覚は薄い。
ただ、「今は、…いいや」と判断しただけだった。
電話が繋がっても、
父が代わりに確認していた事を母が直接聞くだけ。
心配の仮面を被った確認作業だろう…。
私は母との適切な距離を推し量るかのように、
そのスマートフォンの赤い丸の通知を眺めていた。
――
三年目の大学が始まっても、オンライン授業が中心になる。
――未曾有の感染症、世界的蔓延。
私達の生活は一変した。
画面越しに行われる“授業”、学生は画面の向こうに居るだけ。
キャンパスもそこにはあるのに、
地図上にも、建物としても確かにある。
概念だけの存在となってしまった。
……まるで、あの家にいた時の私かのように。
就職活動。
企業のページや、合説のサイトが止まったまま。
履歴書を出す宛先も、まだ霧の向こうにある。
背後からはひたひたと、湿った足音が背中越しに聞こえてくる。
誰かが口にすると、空に浮くその実体のない単語が、
音だけで漂っていた。
就職活動が顔を見せた時に、父の仕事が脳裏をよぎる。
あの人の仕事についての話は、直接聞いたことがない。
子供の頃も。何をしている人なのか分からなかった。
忙しくて、静かで、家にいてもどこか遠い人。
でも今なら、少しだけ分かる気がする。
判断と責任を、日常として処理し続ける世界。
理解したからといって、近づいた気はしない。
私はまだ父の背中をまっすぐ見たに過ぎない。
――同じ頃。
美織の父、白川司はビルの喫煙所にいた。
昼休憩の短い時間。
スーツのポケットから煙草を取り出し、火をつける。
間もなく、喫煙所も規制することになるだろうな…。
と空を見上げて煙の行き先を目で追う。
隣に立ったのは、人事部の人間だった。
「白川さん…煙草辞めたんじゃなかったでしたっけ?」
「はは…家庭の事情でね、気が付いたら吸っていたよ。」
司の言葉にはいつもの落ち着きの色がなかった。
「お嬢さん…美織さんも、もう大学三年でしたよね」
司は、軽く頷いた。
「ええ、そうですね。子の成長というのは早いもので。」
それ以上は言わない。
人事部の人間は私の顔色を伺うかのように覗き込む。
「確か…教育学部ですよね。
で、進路は?やはり教職ですか?」
鼻で笑いながら答える。
「本人に任せていますよ。」
形式的なやり取り。
冗談も、感情も挟まらない。
「もし、うちを受けるなら――。」
司は、煙を一度吐いてから答えた。
「正規ルートで、ですね。
口利きは要りませんよ。」
それは、譲れない線だった。
娘のためであり、会社のためでもある。
守るという行為は、彼にとって、線を引くことだった。
感情を語る必要はない。
立場と判断だけで、十分だ。
「承知しました。まあ、でもこんなご時世ですからね。」
――
オンライン授業が終わると、ハーブティーを淹れる。
無理に落ち着かせようとしてる事は分かっていた。
私は漠然と父と同じ業界の企業ページを眺める。
進路はまだ決めきれていない。
画面を伏せたまま、ハーブティーが少し冷めていく。
動かなくなった世界の中で、
私はまだ、何も選べていない。
それでも時間は、平等に進んでいく。
立ち止まったままでも、
決断を先送りにしても、
朝は来て、日付は更新される。
まだ、大丈夫だと思っていた。
何かが壊れる気配には、
ただ、気付かないふりをしていただけだった――。




