【第14話後編 濁る三番星】
――2019年9月上旬 美織のアパート
エアコンは切れたまま。
窓から差し込む光より先に、室内の温度が身体を包む。
夏の残りを匂わせる湿気が、逃げ場を失ったように寝返りを打つ背中にしがみつく。
寝具は肌にまとわりつき、
汗ばんだ感触が朝の現実を教えてくれる。
咲蘭はゆっくり目を開ける。
「……あつー…。」
隣で美織も目覚め、体温と湿った空気を互いに感じ取るようにそっと起き上がる。
「おはよ…、暑いね…。」
眠気を帯びた掠れ声は、朝の湿気に溶け込む。
咲蘭は手で顔を仰ぎ、キッチンへ向かう。
昨夜仕込んでおいた水出しカモミールティーをグラスに二杯注ぎ、美織に差し出す。
ひんやりした液体が喉を滑り落ち、まだ少し重い頭に静かに温度差を作る。
互いの存在を確認するように、軽く体を伸ばして一息つく。
動き出したエアコンが吐く生ぬるい風を含んだ、9月の朝。
光はまだ柔らかかったが、温度と湿度の方が先に朝の実感を告げていた。
「はぁー、今日からまた美織は学校か…。」
朝食を作る美織の背中につぶやいた。
美織は軽く笑みを浮かべながら調理を続ける。
「あ、そだ…美織。
さっき店長にさ、連絡したんだけど…今日から私、
勤務少し早めて、帰りも早くしてもらうつもり。」
美織は手を止めて振り返る。
「えっ?どうしてっ、平気なの?」
私は顎に手を当てて、少し間を置いた。
頭の中がまとまらないまま答えた。
「夢もあるけど…。
一番は美織と一緒にいたいから。
そのために働いてんだし…。その…。」
言い終わると、少し顔が熱くなるのを感じた。
美織は少し言葉を詰まらせ、目元が潤む。
「……そっか、嬉しい…。」
咲蘭は小さく頷くと、
にっこり笑ってグラスをテーブルに置く。
「だっ、だからさ、これから…毎朝見送りするっ!」
その宣言に、美織も思わず笑う。
短いけれど、確かな信頼と温かさがそこにあった。
朝食をふたりで取りながら、ゆったりとした時間を噛み締めた。
学校へ向かう美織を見送り、咲蘭は少しだけ体を伸ばす。
日常の小さなリズムの中で、互いの存在を改めて確認する時間。
「今頃…友達とかと喋ってんのかなぁ…。」
夜の勤務に備えて、
少し早めに上がれるよう調整してもらった今日の予定。
突然早めてもらったため、慌てて準備をする。
待機室に着くと、店長が驚いた顔で迎える。
咲蘭は軽く笑い、雑に塗った化粧を整える。
仕事を始めた時に買ったアイシャドウは、少しずつ底が見えてきた。
身入りもよく、慣れてきた仕事を辞める理由は今の所見つからない。
店長から声がかかる。
フリーのお客様だった。
ここでちゃんと対応出来れば明日のリピーター。
その気持ちでドアを開けた。
「こんにちはー、ルナでーすぅ。」
ドアを開けると、上品な佇まいをしたお客様がお待ちだった。
既にベッドに腰掛けていたので、隣にそっと腰を下ろす。
薄暗い照明でも映えるメイクは得意だ。
“かわいいね”も慣れた。
私の髪を撫でるお客様の手を取ると。
深呼吸してから、にこりと笑って見せて…。
目を見つめながら、“ありがとぉっ”と呟き、引き寄せる。
仕事が始まる瞬間だけはなかなか慣れない。
待機室でメイクを直していると、
ドアからノックの音と店長の声。
「お疲れ様ぁルナちゃん。最近いいね、調子。」
軽い口調で、端末を見せられる。
「あーそうそう、見てほら、三番目。
すっかりルナちゃん売れっ子だよ。」
何故か店長が得意気で、こういう所が憎めない。
私は、そうなんだぁと気のない返事を思わずしてしまう。
順位は興味がない。ただそれだけ。
「無理はさせられないけどさ。
ルナちゃん、今の位置…正直、逃したくないんだよねェ」
少し間を置いて、思い出したように店長は続ける。
「そういえば、恒例のクリスマスのイベントなんだけど…」
咲蘭の手が止まる。
「24日と25日、出られそう?」
「……あ、えっと。
クリスマスは、予定がありまして…」
無意識に答えてしまった。
まだ予定も立ててなかったが、
美織との時間の為にやっている仕事だしな…。
「えー? 彼氏ぃ?売上欲しいなぁ…ダメ?」
からかうような声。
色んな女の子を泣かせてきたに違いない。
「じゃあ25日だけ! サンタ衣装新調したんだよ。
その日は料金上げる予定だし、ルナだけ内緒でバックも上げるからっ」
「……ちょっと、考えさせてください。」
迫る気迫に、苦笑いで返すしか無かった…。
――その夜、美織が帰宅を待っていてくれた。
「おかえりっ、咲蘭っ」
クスクス笑う美織は、どこか嬉しそうで、
私の胸もじんわり温まる。
隣に腰をかけて、今日言われたクリスマスの事を話す。
美織は少し考えてから、柔らかく笑った。
「んーっと、せめてイブは…一緒に、いたい…かなっ。」
眉をひそめながらも笑顔で答える美織。
「……うん、私もそう思ってる。」
――内心安堵した。
もしここで、気を遣われていたら…。
そう思うと、何かが壊れてしまいそうだった。
「あ、25日は、頑張りたまえっ。」
ぽん、と咲蘭の背中を叩く。
立ち上がり、振り返る。
腰に手を当てて前かがみになって一言。
「三番星どのっ」
冗談めかした声。
クスクス笑う美織。
でも、その目はまっすぐだった。
美織はベッドへ向かい、私はそばに座りつつ、
軽く手を添えてその存在を感じる。
「行ってらっしゃい」
「おかえり」が交わされる。
――何でもないけど、大切な日常。
――2019年10月上旬 美織のアパート
咲蘭は窓から差し込む柔らかい秋の光を浴びながら、通帳をめくる。
「ふぅ…ほんとに頑張ったな…」
初年度分の学費も生活費も、これで安心だ。
不足しても最悪、土日だけ夜職に出れば補える。
そう思うと、自然と肩の力が抜ける。
自分だけの力で、専門学校の入学費用を工面するのは簡単ではなかったけど、
自立できた誇らしさでほんのり胸が熱くなる。
9月から早めの出勤をしていて、予約もそれに合わせるように埋まっていった。
今夜も待機室で、化粧を直す。
長めに引いたアイライナーが今日は綺麗に描けた。
締め色に使った赤いアイシャドウもめちゃくちゃ可愛い。
このメイクは、私のスイッチでもある。
今日も予約でいっぱいだ…。
「ルナちゃん、車回したよ。今日もよろしく…。」
店長から声がかかる。
私はコートの袖に腕を通し、仕事用のバッグを持ってドアを出る。
ドアの外は、東京の匂い。
もう、私を構成するひとつの要素。
夢のため……、美織との未来のため…。
――本当にこれでよかったのか。
私が、私の姿を見ると、胸がざわついた。
白い霧のように舞う何かが胸の奥で立ち止まる。
その霧は濁った痕跡だけを残して、秋の空に静かに溶けた。




