【第14話前編 真夏の夜、微睡む月】
――2019年7月25日 7:22 美織のアパート
夏の朝の光が、カーテンの隙間からゆるやかに差し込んでいた。
湿った空気が、まだ眠りの残る部屋にとどまっている。
エアコンは切れていた。
昨夜の熱が、シーツに薄く残っている。
咲蘭はベッドの中で、体を丸めている。
その隣で、美織が静かに身を起こし、スマートフォンを手に取った。
しばらく画面を眺めてから、ふっと表情を緩める。
「ねえ…、咲蘭ぁ?」
寝息に混じる呼吸を確かめるように、顔を覗き込んで。
耳元で囁くように小さな声で、
(今日からぁ…、夏休みなんだよっ)
一拍遅れて、まぶたが開いた。
寝起きのままの瞳が、その言葉を理解した瞬間、はっきりと輝く。
「……え!マジ!?」
上半身を起こし、美織の腕を掴む。
「ねー!それって、毎日いるってこと?」
最近は、帰りが遅い夜が続いていた。
朝帰りで、顔を合わせない日もあった。
だからその一言が、胸の奥にまっすぐ落ちた。
美織はクスクスと笑いながら、私の乱れた髪を指で梳く。
「学校ないから。しばらく、ずっと一緒ぉーっ…」
私の頬が、じわっと熱を帯びる。
「……やったっ!」
声を落として、美織の首に腕を回し抱きついた。
体温が、直接伝わってくる。
私は、美織の背中を撫でながら、
「起きたら一緒にお茶のもうよ、喉からからかもっ…」
その言葉に、美織はすぐ頷いた。
――昨夜は特に暑い夜だった。
二人でベッドを抜け出し、キッチンへ向かう。
昨夜作った水出しカモミールティーをティーポットから注ぐ。
カランと音を立てて解ける氷が涼しさをくれる。
少しだけ、前の暮らしに近い香りがする。
完全には戻っていないけれど、ちゃんと甘い。
夏休みが始まってからの日々は、
気づけば、仕事と生活が自然に混ざり合っていた。
――2019年8月8日(美織の誕生日)
13:15 渋谷
…今日は、私の誕生日だ。
改札を抜けた瞬間、街の熱気が肌にまとわりついた。
人の体温と混ざる湿気で息が少し重くなる。
「う、うわあ……暑うっ…」
思わず漏れた咲蘭の声。
「ねっ、今日は絶対一番暑い日だと思うー。」
隣を歩く美織が肩をすくめて笑った。
でも、背筋は真っ直ぐで、歩幅も迷いがない。
その言い方が断定的で、少し格好いい。
咲蘭は人混みを理由に、
美織の腕に自分の腕を巻きつけた。
なお、ほどく気は最初からない。
「ねー、渋谷久しぶりじゃない?」
絡めた腕の隙間から、ちらりと美織の横顔を見上げる。
美織は前を見たまま答える。
「まあー…お互い忙しかったしね…」
私と違って、美織は人を避ける動きも自然で、
外から見たら完全に“できる女”だ。
パンツスタイルが良く似合う。
「……今日は、私に付き合ってもらうからねーっ」
美織は私に向かってそういうと、
絡まった私を引っ張って歩く。
「あー…人が多いなー…」と
くっつく為の言い訳を呟くのだった。
とある店の棚の前で、美織は足を止めた。
「――わ、かわいい…」
吐息のような声が耳に届く。
その声は、聞こえないくらい小さかったが、何かを主張していた。
すぐには手を伸ばさない。
値札を見て、全体を見て、もう一度だけ考える。
目は輝き、手を伸ばす前の小さな躊躇さえ愛おしい。
咲蘭は、その横顔を見上げてから、
何も言わず一歩前に出た。
「ねえ…これ? …待ってて。」
棚からそれを取ると、レジに向かう。
美織が一瞬だけ目を見開く。
「え、ちょ…待っ――」
戻ってきた咲蘭の手には、小さな紙袋。
「――ほい。」
差し出されたそれを見て、
美織がわざとらしく眉を上げる。
「……今日さ? 私の誕生日なんだけど…?」
その声には、照れ隠しのような響きがある。
本当は、私から祝いの言葉を言ってほしいのだろう。
でも、直接ねだるのは恥ずかしい――
だから、ちょっと意地悪く言ってみせているのだ。
この顔はそうだ…。
…美織のそばに居る私を侮るなよ…ふふっ…
美織と目が合うと、微かに唇が震えるのが見えた。
私は肩をすくめて答える。
「知ってるよ。」
――そんな、格好つける咲蘭も、
耳を真っ赤にして照れを隠しをしていた。
予想外に短く返ってきた返事に
紙袋を受け取って胸に抱きしめた。
「……ありがとっ。すごい嬉しい。」
下手くそだけど…こういう所が不器用で可愛い。
「ん。おめでとう、美織っ」
そう言うと、咲蘭は私の腕に絡み直した。
もう、しょうがないなあ…と思わされるその仕草と、
表情一つ一つに、歪んだ感情が少しだけ顔を出す。
――あの子の仕事帰りに漂う、タバコの匂いがする。
――2019年8月8日 18:20 渋谷・レストラン
夕方、予約していた店へ向かう。
窓際の席、街を見下ろす位置。
写真を撮るときさえも、美織の所作は崩れない。
相変わらず、氷の女王である。
私と違って口元にソースは付いたりしない。
美織は知っていたかのように、ティシューを差し出した。
「…ほーら、口元。」
クスクス笑う美織の顔が、
店内の間接照明でぼんやり照らされ、私の胸の中が暖かくなる。
「んーっ」
拭けとばかりに、私は頬を突き出すと、
仕方ないなあ…という表情で拭いてくれる美織。
その手の温もり、目の奥の笑み、甘さが胸に広がる。
「咲蘭ぁ、今日さ?」
口元を拭きながら、美織が低い声で呼ぶ。
「――今日、休みって言ってくれて嬉しかったんだぁ。」
その声が、とても柔らかくて、耳の奥がじんわり熱くなる。
「前からさ、言ってたから。8日の前後は絶対休む!!…ってね。」
咲蘭がそう返すと、美織が横目で見る。
「店長、渋ってなかった?」
「渋ってたよ。
でも、譲れない日だって言ったら諦めてたよ。」
しょんぼりする店長の顔を思い出して、クスっと笑いながら答えた。
美織は少し目を細め、柔らかく笑う。
「……仕事、最近どう?」
しばらく黙ってから、私は答えた。
「まあしんどいかな。でも、その分ちゃんと貰ってるし。」
「そっか…頑張れっ」
「でも、今日は、私の日だから」
この言葉には、力が入っていた気がする。
「ん。分かってますよっ…お嬢様っ。」
――美織っぽく返事した。
――2019年8月8日 20:33 美織のアパート
帰り道、ケーキの箱を片手に、
咲蘭は、また私の腕に巻きついて歩く。
家に戻ると、ケーキの箱を開けて、
ロウソクを一本だけ立てた。
「えっ、一本でいいの?」
ソファに腰を下ろしながら、咲蘭が聞く。
「…私は、欲張らない派なんですー。」
――私には咲蘭が居れば十分だから…。
肩を並べて座って食べる。
――口元のクリームにすら嫉妬する。
酸素を失ったロウソクからビターな香りが立ち込める室内で
互いの体に触れたまま、離れることはなかった。
私は咲蘭の頬に指先を添え、
湿度と体温を確かめるように唇を重ねる。
「…今日は、絶対に…私だけの時間だから」
その声は明確に毒を含んでいた。
咲蘭は目を伏せる。
私の中の、独占欲の果実は完全に熟れていた。
この夜は甘く、でも私の思いは静かに咲蘭を縛る。
熱帯夜は、今年一番だった。
――でも、だれにも触れることなく、私たちだけの夜に溶けていった。
部屋中に甘い蜜の香りが満ちていく。
エアコンが、熱を帯びた夜の吐息を外へ流す。
眠りは浅く、夢も濃くなる。




