【第12話 星の行方、夜の置場】
――2019年3月31日(日) 朝 星崎家・咲蘭の部屋
小さな朝日が、淡い光を部屋に落とす。
咲蘭は荷物をまとめながら、別室にいる母に向かって声をかける。
「もう、卒業するから。いままで色々とごめんね。
これからは迷惑かけずに一人で生きていくから…。名義も全部私にするし…。
必要なものは持っていくね。面倒見てくれてどうも。もう来ないと思う。じゃあお元気で、さようなら。」
当然のように母からの返事はなかった。
沈黙が部屋に残ったけど、それで十分だった。
咲蘭の胸には、過去を振り切る覚悟が満ちていた。
その日の夜、意を決して実家から持ってきた手帳を開く。
別れ離れになったときに父が教えてくれたメールアドレス――
ずっと使ってなかったけど、まだ生きてるかな。
メールを打つ。
「いままでありがとうございました。無事に卒業単位も取得しました。
春からは自分の夢のためにお金をためて美容専門学校に行きます。
パパに会いたいです。メール、また送っていいですか?」
送信ボタンを押した後、
スマホを握りしめたまま眠った。
――翌朝、通知音で目が覚める。
父から返信。
「ひょっとして咲蘭か?
おめでとう。ずっと後ろめたくて、心残りだったよ。
こちらから連絡できず、すまなかった。
このアドレス、まだ持っててくれたんだね、嬉しいよ。
愛してる、いつまでも。いつでも頼ってくれ。」
咲蘭は文面を何度も読み返す。
あのとき教えてもらったアドレスが、まだ繋がっていたこと。
ただの文字列なのに、胸の奥がじんわり熱くなる。
(生きてた……パパと、まだ繋がってた)
目尻に溜まったものを袖で拭って、咲蘭は小さく笑った。
パパ…卒業式の写真送るね。
――2019年3月 卒業式の日 学校の校庭
学友たちが家族と談笑する中、咲蘭の横に立つのは美織だけだった。
黒いダッフルコートに身を包んだ美織が、そっと手を握ってくれる。
「来てくれて……ありがとう、美織。本当に嬉しい。」
声が少し震えた。
美織は微笑んで、咲蘭の肩に頭を軽く寄せる。
「当たり前でしょ。咲蘭の大事な日なんだからっ。」
桜の花びらが散る中、二人の影が長く伸びる。
家族がいないはずの場所に、美織がいてくれること。
それだけで、世界が少し優しく見えた。
「ね、写真一緒に撮ろ?持ってきたよ一眼っ」
…カシャッ。
節目節目で残していく二人の写真はどれも
真剣な顔のものと、変な顔のものがあった。
それがたまらなく楽しくて、愛おしい。
帰り道、二人で少し遠回りをした。
コンビニでコーヒーを二人分買って、ベンチに並んで座った。
「卒業したての大人の咲蘭ちゃん。
これから、どうするの?」
美織はわざとらしく、でも気を使って聞いてくれた。
「うーん……ちゃんと稼ぐ…つもり。」咲蘭は笑って言ってみせた。
それ以上のことは、まだ言葉にできなかったし
美織もそれ以上、聞いてこなかった。
ただ、二人の間にはコーヒーの香りと心地よい沈黙が漂った。まだ心地よかった…、この時は…。
――2019年3月末 美織のアパート・深夜
ノートパソコンを開き、
美容専門学校のパンフレットを眺める。
メイクアップとヘアスタイリストの両方のコースがある学校だと…初年度の納入金、教材費、道具代――全部合わせて200万弱。
卒業までだと350万位は必要になりそう…。
普通のバイトじゃ、到底追いつかない。
美織に頼りたくない。父にも、これ以上甘えられない。
ふと、あのピンクのトラックのことを思い出す。
パパ活はもう怖い。個人は危険すぎる。
でも、店が間に入るなら。
…高級ホテヘルなら、短期間で。
というバナーに目がいく。
慎重に口コミを読み、
初心者でもバック率が高く、個室待機の店を選ぶ。
面接予約のメールを打つとき、指が少し震えたけど、
送信した瞬間、胸の奥で何かが静かに決まった。
これで、十分に貯められる。来年の入学が目標だっ。
そして夢も、美織との生活も、全部守れるはず。
――2019年4月上旬 面接当日 高級ホテヘル・事務所
エレベーターの鏡に映る自分。
金髪のレイヤーが照明に艶やかに光る。
シンプルなワンピース、普段の薄いメイク。
ドアを開けると、落ち着いた雰囲気の部屋。
女性の面接官が笑顔で迎える。
「お写真よりずっと可愛いね、絶対人気出そうですね。」
面接は短かった。
ルックス重視。経験なしでも即採用。
パパ活してたことも話すと、前のめりになって聞いてくれた。
源氏名は「ルナ」。
咲蘭は少し勇気を出して、口を開いた。
「実は……まとまったお金が必要で。短期間で貯めたいんです。」
女性面接官は優しく頷いて、すぐに答えてくれた。
「大丈夫。うちはバック率高いし、ルナちゃんみたいな子ならすぐ指名つくよ。
きっとすぐに貯まるから、安心して。」
その言葉に、咲蘭の胸が少し軽くなった。
契約書にサインするとき、ペンが少し重たかったけど、かわいい笑顔を作れた。
初出勤は次の週末。
――2019年4月 初出勤の土曜の夜
個室の控室で、リップを塗り直す。
ほかの女の子の気配は感じない。
でも甘い香水とタバコの匂いが、換気口からかすかに漂う。
最初の客は、穏やかな四十代の男性。
ホテルの部屋で、シャンパンが開く。
しっとりとした空気の中、
会話は短く、すぐにサービスへ。
体が触れる感触、知らない息遣い。
終わった後、別途でチップの封筒がそっと渡される。
店に内緒の分も頂いた。
その封筒は厚みがあり、想像の倍はあった。
閉店後、個室に戻って今日の売上げを確認。
男の店長がインターホンで声をかける。
「おお…ルナちゃん、初日でこの数字はすごいよ。逸材だねぇ…。」
初めて誰かに認められた気がして嬉しかった。
待機用の寮で、
シャワーを長めに浴びて、
知らない匂いと、仕事用のメイクを流す。
帰宅は深夜2時近く。
送迎の車から降りる。
アパートの鍵を開けると、美織の寝息だけ。
カモミールティーの匂いはしなかった。
ベッドに滑り込むと、
美織が無意識に腕を回して引き寄せる。
「……おかえり。」
寝ぼけた声。
「うん……ただいま。」
咲蘭は美織の胸に顔を埋めて、目を閉じた。
肌に残る感触が、じんわりと冷たい気がした。
(これで、夢に近づける)
胸の奥で小さな棘が、また一本刺さる。
――4月中旬 美織のアパート・夜
働き始めはちゃんと寝る前のハーブティーは飲めていた。
咲蘭が帰ってくると、私はお湯を沸かす。
カモミールのティーバッグをカップに入れて、湯気が立つのを二人で眺める。
「お疲れさまぁ…咲蘭ぁ。」「うん……ありがと…美織っ」
でも、ある日を境に、
毎週のように金曜日と土曜日の夜は、
咲蘭の帰宅が真夜中になる。
ずっと待っていても鍵が回る音はなかなか鳴らず。
湯を沸かす音がしない夜や、
カップすら出てこない夜もふえた。
私は何も言えなかった。
ただ、ふたりの部屋からあのやさしい香りが薄まっていくことだけを静かに、胸に刻まれていった。
――2019年7月 夏の夜
通帳を記帳すると、
3ヶ月ちょっとで、桁が二つ増えていた。
学費の目処は、もう十分に立ちそうだ。
店長の言葉を思い出す。
「ルナちゃんさ、もうトップクラスだよ。
出勤増やしてくれない?
平日ラストまで居てくれたらなぁ…。」
指名が埋まり、予約が取れなくなる日が増えた。
掲示板には予約が取れないことに不満を書き綴る人も増えていた。
――7月某日 深夜 美織のアパート
咲蘭は帰宅後にソファで眠ってしまっていた。
仕事帰りの服のまま、スマホを握って。
美織は毛布をかけようとして、ふと画面に目が留まった。
見慣れない名前。通知のすごい数。
――星井ルナ。
閉じようとした指が、止まる。
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写真に写る髪色
首から下の画像
(……私の知らない咲蘭だ…)
楽しいだとか、キラキラしてるとか…
そういうものではなかった。
これは、私の知らない場所で生きている咲蘭だった。
固定客とのやり取り。軽い冗談。親しげな言葉。
美織は、スマホをそっと伏せた。
責める資格はない。聞く勇気もない。
ただ、胸の奥に名前のつかない感情だけが残った。
その感情は、マグカップの中の冷えたカモミールティーと、なんだか似ていた気がする。




