【第10話 芽吹く猛毒の花】
――2019年1月5日(土)10:25 美織のアパート
(…サラ、元気にしてるかな…)
美織は、最寄り駅に着く。
たった一週間ほどでもどこか懐かしい雰囲気を肌に感じる。
正面改札を出て、エスカレーターで地上に上がる。
飲食店やカフェが並んでいて、芽吹を待つ桜並木の遊歩道になっている。
――二人で毎日のように歩いたっけ。
程なく、緑豊かな住宅街に差し掛かり、
私のアパートが見えた。
一週間ぶりに見る自宅の玄関がこれほど煌めいて見えたことがあったかな…。
昂る胸を一撫でして、玄関の鍵を回す。
まだ開けてない扉の奥から勢いよく足音が近づいてくる。
――ガチャッ…。
扉が内側から開く。
瞬く星の閃光が、美織の胸に刺さる。
「美織っ!」
大粒の涙を抱え、咲蘭が飛び込んでくる。
その体温、湿った髪の匂い、震える背中、吐息、泣き声。
すべてが私を、”この場所”に縛りつける。
「ただいまっ…寂しかった?」
美織はその体を受け止め、鼓動に合わせて背中を優しく叩く。
「寂しかった…、会いたかった…ッ…美織ッ!」
抱き寄せた胸の重みと、指先に伝わる震え、呼吸の乱れ。
私の全てが、この子の存在に絡め取られている。
「…んっ…ただいまぁ…咲蘭っ…。」
顔を髪に埋め、甘い匂いに浸る。
(…この匂いも、体温も、声も…全部、好きだな…)
手のひらで背中を撫でるたび、指先に震えが伝わる。
それが心地よくもあり、抗えない束縛の音を奏でる…
「美織、離れたくないよ…」
小さく漏れた声に、胸が強く締め付けられた。
湿った心に咲蘭の存在が浸透して、深く吸い込まれていく。
――もう離れようと思っても離れられないことを、私は知っている。
部屋は想像以上にきれいに保たれていたが、
クリスマスの香りは微かに散りばめられていた。
そのままになったクリスマスの装飾や置物、
カモミールティーが枯れたマグカップの底、乱れたクッションの形や、私のカーディガン。
まるで色がない写真かのように、時が止まって見えた。
「移動、疲れちゃった…座ろっか。」
美織は優しく微笑みかける。
「…ねえ…寂しかった。」
「はいはい、分かりましたよっ。もうここに居ますよ。」
私の言葉の一つ一つが咲蘭を生かしているような気がした。
「ね、隣…座ってよ。」
ソファの空いたスペースを優しく叩いて招く。
「美織…っ」
泣き止む気配のない咲蘭の頬に両手を添えて、瞳を覗きこむ。
吸い込まれそうな藍色の瞳の奥、そこにある小さな不安や期待まで、そっと抱き止めるように見つめた。
「…かわいいねぇ…咲蘭ぁ…」
この言葉が、咲蘭を支配する。
咲蘭の中に、あの子しか知らない私が刻まれて、彼女の一部になっていく気がする。
――2019年1月7日(月)13:00 登校前
今日から学校、
2部の授業を入れてる日なので早めに学校へ向かう。
街路樹が影を落とす歩道を、咲蘭はゆっくりと歩いていた。
(そろそろ…働かないとな、生活費入れたいし。)
卒業後のことを考える。
……何よりもお金だ、この生活を続けたい…。
ふと、商店街のガラスに映る自分を見る。
――髪、伸びたな…。
ブリーチヘアの根元からは、
生まれ持った髪色が顔を出していてリタッチの時期を予感させる。
(美織は、この髪色が好きだって…言ってくれてたもんな。)
歩く度に肩を撫でる金色の髪が、
少し重たく感じ、どこか安心感もある。
髪色自由なんて職場あるのかな…。
黒染めだけはしたくないな…。
――2019年1月7日(月)22:30 帰宅
あー…やっぱ2部取るとしんどいよなー…だるおも…
街はすっかりお正月もクリスマスも忘れたように、
灰色の冬の景色と同化していて、どこか寂しさがある。
玄関の前に着くと、
美織に貰ったスペアキーを取り出してドアの鍵を回す。
深夜の空虚な夜空に一瞬だけ存在を主張する音。
私の居場所はここだ。
「……ただいまっ」
ダウンライトだけが照らす薄暗い通路に呼びかけた。
ドアの開く音がする。
ドアの奥からはオレンジ色の灯りと、カモミールの香り。
私を迎えに来る聞き覚えのある足音…。
「おかえりっ、寒かったね。」
美織はそっと私の手をとる。
えへへっと砕けた笑顔を私にくれる。
――この笑顔が、私の居場所だ。
「ご飯食べた?」
「うん、パン食べた。」
そっかそっかと笑いかけてくれる美織。
手に伝わる美織の体温、
長く艶のある髪、甘い香りと吐息。
――そのすべてが、胸の奥で甘い毒のように絡まっていく。
それが心地よくて、離れられない。
離れる理由が見つからないほどに育っていく毒の花、
芽吹く瞬間を胸に刻んだ。
――2019年1月中旬
……新生活にも、そこそこ慣れてきた。
朝、行ってらっしゃいの為に起きて。
授業のコマまで寝たり、バイト探したり…
昼過ぎに登校して、夜に帰る。
特別なことはない。
ただ一人の毎日が二人のものになった。
――それだけ。
――2019年2月3日 日曜日の午後
「髪、伸びたよねー。」
美織は私の髪に触れながら言う。
根元の黒色が、目立ち始めている。
「みっともないかな……」
んー?と言いながら、
ただ黒くなった根元の髪を撫でる美織。
否定も、肯定も、されない。
昔は金髪にすることで、大人になった気分だった。
でも…もう金髪でいる理由なんて一つしかないのに。
「あっ、ねね!!」
美織は目を輝かせて前のめりになった。
「そろそろだよね…っ、誕生日っ!」
「……覚えてたんだ。」
髪色の事かと思っていた…。
それは私が決めるより、
美織が決めてもらった方が私は安心する…。
「ふふふっ私は意外と記憶力がいいのだっ。」
腰に手を当てて、少し前屈みになる美織。
「よーしじゃあ、18歳のお祝いに美容室行こう!私とっ」
…そうして私の髪色は決まらないまま行く場所だけが決まった。
――どうしよう、黒髪にするって言って嫌われちゃったら…。
――2019年2月9日 土曜日
美織と二人で新宿で遊ぶ。
百貨店でコスメを眺め、
発色や粉質に感心しながら、値札に目が戻る。
好きだけど、安くはない。
その事実だけが、ずっと頭の片隅にあった。
昼食を済ませて、
歌舞伎町の大型のバラエティストアに足を運ぶ。
やはりコスパに勝るものはない。
店を出たとき。
ピンク色のトラックが視界を横切った。
車載スピーカーから明るい声が響く。
「――――高収入!!」
異常なほどに明るいトーンで、
さも楽しい仕事かのような宣伝をしている。
胸の奥が音を立てて縮んだ。
美織の手を握る力がほんの少し強くなる。
(……もうあんな思いはしたくないし…いまは、やめよ。)
美織の声だけを聞くことに意識した。
――2019年2月10日 日曜日 8:15 近くのパン屋
薄黄色の冬の光が街全体をやわらかく照らす。
朝の静けさが残っている遊歩道を歩く。
平日の朝と違ってゆったりと流れる時間は、
この時この場所にいる人間にしか味わえない。
「やっぱり、日曜の朝はここのパンって感じっ」
んーっと背伸びをしながら声を漏らしたあと、
私は、えへへー。とおどけた振りをして咲蘭の手を取った。
「…だよねっ」
咲蘭は私を見上げるように顔を少し上げて微笑む。
その笑顔を見るだけで、
無意識に胸の奥が締め付けられる。
店内に入ると、パンの甘い香りと温かい空気が二人を包む。
咲蘭は手に取ったクロワッサンを少し頬張る。
「…こぼれないように気をつけてねっ」
咲蘭は口いっぱいにしながら小さく頷いた。
こういう、日常の些細な仕草も愛おしくすら感じる。
――私の中の咲蘭が絡みついてくる。
私が縛り付けている感覚はあった。
でも…私も同じくらい咲蘭に絡め取られている感覚。
二人の間に芽吹く猛毒の花は、散る時を待つ。
二人並んで座るテーブルからは、冬の街並みが白く光る。
私はそっと咲蘭の髪を撫でた。
撫でる度、咲蘭の小さな反応が返る。
――笑いも、困惑も、戸惑いも、すべて自分の掌にある。
心の奥で静かに喜び、そして焦燥を覚えた。
私の感情とは裏腹に、
柔らかく差し込む冬の光と、
パンを頬張る咲蘭の甘い吐息が心地よい。
芽吹いたものが、毒だと分かっていても。
この静かな儀式を、手放す理由はなかった。




