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<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

エプロンと杏の木(R15)

作者: kaoru
掲載日:2025/11/14

「命はとらないであげる。二度と彼の前に現れないで」


お嬢様はそう言い捨て、侍女を引き連れて去った。

昨日まではミラもあんなふうに侍女としてお側に控えていた。

これまでも理不尽なことは多かった。

けれど、ミラの両親はそれぞれ再婚し新しい家族を得て、もう帰る家はない。

働けることに感謝して、精一杯尽くしてきた。


なのに。


押さえつけられ、妙な薬を飲まされてから、体中がねじ切られるように痛い。

きっと毒だ。

ミラは、床に丸まって呻いた。

そのままげえげえ吐いていると嫌そうな男たちに大きな麻袋に詰め込まれた。


お嬢様の婚約者に話しかけられれば邪険にできるはずがない。

なのに、お嬢様は私が誘惑したという。

愛人におさまるつもりだろうと責めた。

反論は聞いてもらえなかった。

20歳までこの5年間で得た信頼などなかったのだ。


荷馬車はひどく揺れて、長く走った。

いつの間にか意識は朦朧としていた。


「袋から出すか?」

「吐いてたぜ、きたねえからそのまま捨てろよ」


そんな声のあと、ミラは放り出された。

ここがどこかわからなかったが、きっと死に場所になるんだろう。

お嬢様は命はとらないといったが、結果的に死んでも気にしないだろう。


ああ、雨まで降り始めた。


土の匂いが濃くなり、ミラの目に涙が滲んだ。

馬車の音は遠ざかり、雷鳴が近づいてくる。


雨脚は激しさを増し冷たい水がミラの肌にも滲みてくる。

こんなところでひとりで死ぬのだ。


だれもミラを気に掛けない。

それが悲しかった。



***


ベルンは急いでいた。


雨が降り出しそうだったからだ。


10日に一度の買い出しを終え、森の家に戻るところだった。

前方から荷馬車が来るのがみえて、慌てて馬を端によせる。

それが当然とばかりに荷馬車は過ぎて行った。

荷は載せていない。

ここは町はずれで、この先は森しかない。


「何しに来たんだか」


かかわらずにすんでよかった。

再び馬を走らせながらベルンはおもった。

雷鳴に怯える馬をなだめ急ぐ。

大粒の雨が強くうちつけてくる。


まぶしい閃光が何かを照らしだした。


「くそっ」


やはり厄介ごとかよ。

だけど、放っておいたら死ぬものを見捨てることはできなかった。



息はあるが意識のない女性をなんとか馬に乗せ、家にたどり着いたときにはもう夜だった。

雨はあのあとすぐにやんだが、すっかり濡れてしまった。

春先とはいえ冷え切った体は重い。

薪ストーブに火を入れ、部屋を暖める。


「なんなんだ、こいつ」


ベルンは困惑していた。

濡れたドレスを脱がせたら、男だった。


なんだそれ。


怖くて触れられない下着も女物だ。

美しい黒髪はよく手入れされていて、上品な化粧もしている。

顔だけ見れば気後れするような美人だ。


状況からみてあの荷馬車が捨てていったに違いない。


「へんなもの拾っちまったなあ」


だけど、あのまま置いておけばすぐに死んだだろう。

いったい何をしたんだろう。

男なのにメイドや侍女に化けていたのがバレたのか?


「それなら袋詰めで森に捨てられてもしかたない、のか?」


悩みながらもベルンは彼?に毛布を掛けた。




馬を拭き、自分も着替えて暖炉の前でほっと一息つく。

春先とはいえ、夜は冷える。

燃える薪の匂いが心地いい。


ベルンの家は森の中とはいえ、しっかりした一軒家だ。


魔の森と呼ばれてはいるが、その恵みは大きい。

腕のいい猟師だった祖父が祖母のために気合を入れて建てた二階建ての家だ。

といっても、ベルンひとりには一階部分だけでちょうどいい。


「二階の部屋、片付けておくか」


見たところ外傷もないが、女装男はまだ眠っている。

ベルンは硬くなったパンをスープにつけて食べた。


薪ストーブの火が消えた。


ベルンは少し考え、ランプに火を入れテーブルの上に置いた。

水差しとコップも。

明かりをつけっぱなしなんてもったいないが、もし夜中に目が覚めたら心細いだろう。


そんなふうに思ってしまうほどには、ベルンはお人好しだった。



空がやっと白みはじめたころだった。

少し黴臭い二階のベッドで目覚めたベルンは急いで一階に降りた。

そこには美しい女性が、所在なさげに椅子に掛けていた。


脱がせたドレスは乾かすため暖炉のそばに置いていた。

それを見つけて着たようだ。


ランプを残しておいてよかった。


背中の半ばに届く豊かな黒髪とグレイの瞳、白い頬に艶のある唇。

崖の斜面に咲いた白い百合のようだ。


男だけど。


と、ベルンは思った。


「あの、ここは?」


「俺はベルン。猟師だ。昨日、森のそばで倒れているのをみつけた」


不安そうな様子にベルンはなるべく落ち着いた声で答えた。


「雨に濡れていたから靴と服は勝手に脱がした。でもそれだけだ、何もしていない」


男あいてに、必死に言い訳している自分が滑稽だ。

気まずい沈黙が下りた。


「ええと、あんたは?」


耐えられなくなったベルンは再び口を開いた。

だけど、返ってきたのは予想もしない言葉だった。


「わかりません。自分の名前も、なにもかも」


潤んだグレイの瞳に、ベルンは胸がしめつけられた。

うっかり子持ちの母鹿を撃ってしまったときのような胸苦しさだった。


「事情はわからないか、しばらくうちで休むといい」


気がつけばそんなことを言っていた。


助けると決めてしまえば、息苦しさは消えた。

べつに問題ない。

行き倒れの男を泊めるだけだ。

そう自分を納得させながらも、ベルンはどこか浮ついていた。

犯罪者かもしれない、という危惧はまったく思い浮かばなかった。


***


「ミラ」


ミラ、というのは身につけていたドレスの胸元のリボンに刺繍されていた名だ。


「今日は大物狙いだから遅くなる。先に休んでくれ」


ベルンは言った。

重そうな猟銃を軽々と背負い、鉈と解体用の小刀を下げている。

上背があるのに威圧感を感じないのは、優しげな顔立ちのおかげだろうか。

くすんだ金髪に青い瞳はこの地方には珍しくない。

だけどミラにはとびきり美しく見える。


助けられた欲目ではない、と思う。


「はい。お気をつけていってらっしゃいませ」


大仰すぎると言いたげな苦笑を残して、ベルンは出かけて行った。


馬の足音が遠ざかるのを聞いて、扉の鍵を閉める。

外に出てはいけない、とベルンに言われていた。


ここまでは馬の通る道があり、林と言っていい程度だ。

だが少し奥に入れば昼も暗い。

魔の森の名は大げさじゃないんだ。

そう話したときのベルンの落ち着いた声を思い出してミラは温かい気持ちになった。


ここに来てもうひと月が経っていた。


自分が何者かわからないのは心細いことだった。

それでも穏やかに暮らしていられるのはベルンのおかげだった。


不審な荷馬車が去っていったあとに倒れていたとベルンは教えてくれた。

なにか不始末をして追い出されたのだろうか。

その時に着ていたという侍女風のドレスに違和感はない。


むしろ、自分の体を見たときにミラは悲鳴をあげた。


借りている二階の寝室に、飛び込んできたベルンにもう一度叫んで蹲った。


ベルンはすまない、と謝ってすぐに扉を閉めた。

心配して駆けつけてくれたのに、ひどい態度だった。


だけど恥ずかしさが勝った。

男のくせに、とベルンが言わなかったことに救われた。


自分が男だという気はまったくしなかった。

平らな胸はともかく股間のものが怖かった。


ベルンの少ない衣類を借りるのは申し訳なかった。

けれど自分が男だという現実を目にして、なおドレスを纏うことはできなかった。

ミラはシャツの袖を何度も折った。

ズボンのすそはベルンによって思い切りよく切られていた。

ぶかぶかのウエストをむりやり絞ってなんとか身なりを整えたミラをみて、ベルンは困ったように眉を下げた。


「似合ってる」


困りながらもベルンがなんとか紡いだ言葉はありふれたものだった。

サイズの合わない借り着に似合うも何もない。

ベルンのズボンもダメにしてしまった。


だけどミラは微笑んだ。


「ありがとうございます」


慰めようと褒めようという気持ちが嬉しかった。

こんなふうに優しくしてくれる人はいなかった。

なにも思い出せないのに、ミラはそう感じた。


ベルンの優しさにつけこむのは心苦しかったが、行くあてもない。

誰かに憎まれている自分がいることで迷惑をかけるのは恐ろしかった。

そのうえ、薪割りも料理も水汲みさえまともにできない。


「私はいったい何をして生きていたんでしょう」


その非力さはミラを落ち込ませた。

手紙の代筆や髪を巻くことなら得意だったことをミラは覚えていなかった。


火をおこすこと、かまどで料理をすること、井戸で水を汲むこと。

ベルンはひとつひとつミラに教えた。

それはここにいてもいいのだと言われているようだった。



ベルンの帰りは遅かった。


ミラは教えられたとおりに薄いパンケーキと、肉と芋、野菜の入った煮込みを作った。

先に食べるように言われていたけれど、待っていたかった。

外はもう暗い。

少し肌寒いけれど、薪ストーブをつけるほどでもない。


厚いカーテンを開けるとよく晴れた夜空に細い月が浮かんでいた。


外で音がした。

ミラはびくりと身を固くして、気配をうかがった。


音は馬房に向かうようだ。


ベルンが戻ったのだ。


しばらくして鍵を開ける音がした。


***


男だとわかっている。

豊かな胸も柔らかそうな尻もない。

だが力仕事に縁のない細い手足はミラをより幼くみせていた。

それでだろうか、守ってやりたいという思いがとめどなく湧いてくる。


ミラは使用人がいるような良い育ちだとわかる。

庶民なら当たり前にできる家事さえ知らなかった。


だけど、懸命に覚えようとしていた。

追い出されまいと、役に立とうと必死なのだろう。


「ながくひとり暮らしだったから、ミラが来てくれて楽しい」


だから、そんなに頑張らなくていい、という言葉をベルンは飲み込んだ。

ミラの努力を否定してはいけないと思い直したのだ。


ミラはベルンの古着を着ていてさえどこか上品だった。

話し方も所作も礼儀作法を学んだ淑女のようだ。


男だけど。


そしてそれが問題だった。


もしミラが女性なら、それこそ貴族の侍女でも務まる。

商家のメイドや、いや働かずとも妾としても結婚相手としても引く手あまただろう。

あるいはもっと男らしい男なら、仕事を探すのは容易だ。

狩りを教えることもできただろう。


だけど、ミラはどちらにも当てはまらなかった。


「お気をつけていってらっしゃいませ」


ミラは美しい笑みを浮かべて頭を下げた。

束ねた黒髪が白い首筋に映えた。

良家の奥方が夫を送り出すみたいだ、とベルンは思ってこっそり顔を赤くした。


そして腹をくくった。


ミラはミラじゃないか。

女だったらとか男らしければなんて、無意味なことだ。


ミラはミラのまま、うちにいればいい。


ベルンは馬に向かって言った。


「狩りのあと街に寄るぞ。頑張ってくれよ」



大きな雄鹿と肥えたウサギを仕留め、ベルンは狩りを切り上げた。

苦労して森をでて、そこからは簡易の荷車に乗せ町へ運ぶ。

ウサギの肉と鹿の肉の一部は自宅用で、それ以外は売った。

いつもの食料や銃弾を買うともう夕暮れだ。


だけど、今日はまだ買うものがあった。

買い出しのたびに少しづつミラの着替えを買い足している。


でも今日は。


「これを買う」

「おやまあ、ベルン!いつのまに?」

「そんなんじゃない」


ベルンはぶっきらぼうに女主人に金を払った。



森の家に帰りついたころにはもう真っ暗だった。

家からの明かりは漏れていない。

ミラはもう眠ったのだろうとベルンは思った。

馬房に戻した馬を拭いてやり、水とエサを確認する。


「よくがんばってくれたな」


馬は面倒くさそうにブフンと鼻を鳴らした。

どうってことないと言わんばかりだった。


ベルンはミラを起こさないよう静かにドアをあけた。


「おかえりなさいませ」


暗がりから声がかけられて、ベルンはとびあがりそうになった。

椅子から立ちあがったミラのシルエットがランプをつける。

やわらかく小さな明かりがふたりを照らした。


「湯を沸かします」


「いや、水でいいし、自分で用意するよ」


ベルンは慌てて言った。

手足を洗うのに湯を使うなんて贅沢なことだった。


「では料理を温めておきます」


「ミラ、食べていないのか?」


「……いえ」


食べてないな。


歯切れの悪いミラにベルンは察した。


「先に食事をして休んでくれと言ったのに」


「すみません」


「責めてるんじゃないんだ、その、明日にでも着てみてくれ」


ベルンは町で買ったものをミラに押し付けた。



タイル張りで排水溝があるというだけの浴室で汗を流す。

ベルンの教えた煮込み料理の匂いが漂ってくる。

手間が少なく栄養がとれるというだけが取り柄のはずなのに、それはすごく美味そうだった。


***


ミラは温まった鍋からよそった皿をテーブルに置いた。

ベルンは体を洗っている。

祖父母が亡くなってからはひとり暮らしだというけれど、ベルンはきれい好きだ。


夕食を並べ終え、さっき渡された包みを開いてみる。

これまでも、新しい下着、シャツ、ズボン、サンダル。

男物だが、ベルンのより小さめでミラでもちょうどよさそうなものを買ってきてくれた。


ミラは目を見張った。


それは可愛らしいエプロンだった。

白く胸元と裾にはフリルがあしらわれている。


ベルンがどんな顔でこれを選んだのか想像すると、ミラは頬が緩むのを抑えられなかった。

可笑しくて笑っているはずなのに、なぜか涙が流れていた。


「ミラ?」


ゆるい生成りのシャツとくたくたのズボンに着替えたベルンが立っていた。


「その、好みじゃなかったか?安物ですまん」


オロオロと尋ねるベルンにミラは首を振った。


「ありがとうございます。このエプロン、とても可愛い」


「ああ、きっとミラに似合うと思ったんだ」


「私に?」

こんな自分でも得体の知れない男に?


ベルンは照れくさそうに頭をかいた。


「ミラは、きれいで可愛いから」


「ベルン」


ミラは、自分が恋をしていることを自覚した。

きっとずっと前から。



ランプの明かりの元、ふたりで遅い夕食をとった。

ミラはさっそくエプロンをつけていた。


ときおりベルンがちらりと視線をあげてミラをみた。

そのたびにミラは笑みを返した。

スプーンを口に運びながらもミラはずっとベルンをみつめていたのだ。


ベルンは目が合うたびに眩しそうに目を細めて、残り少ない煮込み料理に視線を落とした。

ミラを憎からず思っているのは明らかだった。


引け目はたくさんある。

だけど、死んでいるはずだったのだ。

この幸福な日々もいつ終わるかわからない。


だから、後悔したくない。

ミラはエプロンの胸元のフリルを撫でた。


***


ベルンは満ち足りた気持ちでベッドに入った。


ミラはエプロンを喜んでくれた。

ふたりで食事をして、一緒に皿を洗った。

ミラは町を、他人を恐れている。

自分を殺そうとしたものがいても、記憶のないミラは気づけないのだ。


「ずっとここにいればいい」


ふたりぶんの食い扶持ぐらいなんとでもなる。

ミラの喜びそうな美しい茶器も買おう。

こんなに張り合いがあるのは祖父母を看取って以来だった。


ベルンの眠りを妨げたのは、氷のように冷たい手だった。


「ミ、ミラ?」


ガタガタ震える冷たい体がベッドに滑り込んでくる。


「どうしたんだ?こんなに冷えて!」


大慌てでベルンはミラを抱きしめた。


「体を洗っていました」


「こんな夜中に?せめて湯を沸かせ」


ミラはベルンの古着のシャツだけを身にまとっていた。


腕のなかのミラの震えがおさまったことに安堵したベルンは、ぴったり身を寄せあっている状況に困り始めた。


二十代半ばのベルンにとって、微かに良い香りのする人肌が密着するのは刺激的にすぎた。

むき出しの脚が絡まる。


「ミラ、この体勢はちょっとまずい。暖炉に火を入れるから」


「お慕いしています」


ミラはベルンの言葉を遮った。


「奥様を迎えられる時には出て行くと誓います。だから今は」


吐息が触れるほどの距離だった。


ベルンは驚いたけれど、迷わなかった。

すでに自分の気持ちは見定めていた。

だけど、行くあてのないミラに迫るようなことはしないと決めていた。

でも、ミラが同じ気持ちだというのなら。


「ミラと、ずっと共に暮らしたい」


ベルンはミラの頬に手を添え、唇をあわせた。



「ベルン」


ミラが甘えるように呼んだ。


さっきまで氷のようだったミラの体は温かい。

下着もなく、本当にシャツ一枚しか身につけていなかった。

正しいやりかたはわからなかったが、小さく声をあげたミラは可愛らしかった。



ベルンは自分を恥じた。

もっとゆっくり優しくするべきだったのに。

怖かっただろう、嫌われてしまっただろうか。

こんなに心配しているのに、体は勝手に動いた。

母を傷つけた男と同じだ。



「ミラ、辛いか?」

「いいえ、嬉しい」


辛くないはずはない、だけど、ミラは嬉しいと言ってくれる。


「……愛してる」


「私も、お慕いしています」



「ミラ、愛してる」

口説き文句を知らないベルンが愚直に繰り返す言葉はミラをよろこばせた。

「ああ、ベルン」

ミラが顔をむけキスを強請る。


誰にも認められなくとも、ふたりは結ばれた。


ベルンもミラも、それで十分だった。


***



「いってらっしゃいませ」

「ああ、いってくる」


ベルンはいっそう狩りに力を入れた。


町に来た時は、弾薬と食料だけでなく、布や刺繍糸、甘味なども買って行く。

ミラの好きな杏の苗も。

エプロンを売った雑貨屋の女店主は、嫁が来たのだと訳知り顔で言いふらした。


「たまには嫁さん連れて来てやれよ」

「殺されそうになっていたのを助けたんだ。怖がって人に会いたがらない」

「そりゃあ、大変だな。でも子どもができたらそうもいってられないだろ」

「子どもは産めない体だ」


気のいい肉屋はぐっと言葉に詰まった。


ベルンはちょっと微笑んだ。

「でも、落ち着いたら買い物ぐらいは一緒に来れるかもな」


「ああ!そのときはサービスしてやるよ!」

ホッとしたように肉屋は持ち込んだ鹿肉の買い取り金を手渡した。


「これを頼む」


ミラはハンカチやクッションカバーに刺繍をして、雑貨屋に売っている。

評判は上々で女主人はホクホク顔だ。


「ミラちゃんの刺繍はすごいねえ。字もきれいだし、これなら貴族様の侍女だって」

雑貨屋の女店主は気まずそうに口をつぐんだ。


ベルンの祖父は腕のいい猟師で祖母は町でも有名な美人だった。

その一人娘がベルンの母親だ。

稼ぎのいい祖父は町の教会ではなく、領都の女学校に母を送り出した。

ベルンの母はそこで知り合った良家の子女に誘われ、貴族家で侍女になった。

魔の森の猟師の娘にとっては夢みたいな話だった。


だけど、夢は無残に破れた。

弄ばれ傷ついたベルンの母は息子を産んですぐに死んだ。

それは町のみんなが知っている。

ベルンが町に長居しないのは、同情されるのが嫌だからだ。


袋に詰められて捨てられたミラをみて、顔も知らない母と重なった。

見捨てることなんて、できなかった。


「ミラは静かに暮らすことを望んでる。詮索は無しで頼む」


「もちろんさ。あんたに家族ができてよかったとおもってるんだよ」



半年ほどして、領主の娘の不祥事が明らかになった。

貴重な魔女の薬をいやがらせに使ったこともあったという。

被害者は名乗り出れば見舞金を貰えるらしい。


ベルンは肩を竦めて見なかったことにした。


ミラは、ずっとうちで暮せばいいのだ。



冬のある日、ベルンはミラを町に連れて行った。

厚いコートを着込んだミラの上品な美しさは人目をひいた。

ミラはベルンに隠れるようにして、早く帰りたそうにしていた。

ふたりの仲睦まじい様子はベルンを案じる人たちを安心させた。



何十年かして、ミラが死んだ。

黒髪は真っ白になっていたけれど、その上品な美しさは老いても変わらなかった。

ミラはベルンの祖父母と母の隣に埋葬された。

ベルンは墓の隅に小屋を建て、墓守を名乗った。


ふたりの家は若い猟師の一家に譲られた。


やがて町は大きくなり、魔の森は多少切り開かれた。

そして森の家の周りにも家が建った。


今は森の家ではなく、杏の家と呼ばれている。


たくさんの杏の実がなり、たっぷりのジャムになり、住人をよろこばせている。


ミラのために杏の苗を植えたのがベルンであることも、彼らの幸福な人生も、もう知る者はいない。


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