シミ
三題噺もどき―ろっぴゃくきゅうじゅう。
「――ぁ」
手に持ったコップを傾けた瞬間。
中身が太ももの上に零れ落ちた。
「――」
気づいた時には、すでにことが終わっていた。
たった一滴。
だがその一滴が、ジワリとシミとなって広がる。
―最悪だ。
「……」
中身が熱かったわけでもないが……。
よりにもよって、色の薄いパンツを履いている時に……。
色の濃ゆいコーヒーを溢した。麦茶とかならまだましだったのに……水だったら完璧だったのに。いや、そもそも溢すなという話だが。
「……」
パソコンを操作する右手に集中しすぎた。
仕事に集中していたことはいいことではあると思うが、それでもう片方の手の操作が疎かになったんじゃ、訳ない。
まぁ、でもパソコンに溢さなかったのはえらかったと思う。
だから、そもそも溢すなという話は、もう言わないでおこう。
「……」
どうしたものか。
どうしたもなにも、さっさと洗濯に出すなりなんなりしないと、このシミが取れない一生ものになってしまう。そんなのはごめんである。結構気に入っているのに、このパンツ。
基本的に黒一択のなかで、唯一と言っていいほどに珍しい色の気に入っているパンツなのに……それが使えなくなるのは勘弁したい。
「……」
そう思うのならさっさと動けばいいのにという話だ。
そう。さっさと動かないと。
アイツが来る……時計を見て気づいたが、それくらいの時間だ。
「――なにしてるんですか」
「……」
時すでに遅し。
なんでこういう時に限って、察しがいいのだろうコイツは、
そろそろかなぁと思っても大抵は呼びに来るまで時間があるのに、どうして今日に限って。
「……こぼしたんですか」
「……」
外の廊下の電気が、逆光のようになっているから、悪魔が来たように見える。
でもそのエプロンは、機嫌がいい時によく見るタイプのやつだ。
後ろ手にひもで結ばれ、猫の尾のようによく揺れている。
案外上げたあのエコバックを気に入ってくれているのか、それは珍しく派手なトランプの柄をしている。見ようによっては、不思議の国のアリスのようだ。
「……」
「……」
少々重たい空気が漂う。
沈黙がやけに痛々しい。
たかが溢しただけだと思うだろう……そうではないのだ。
そうだったらどれだけよかったか……。
「……さっさと脱いでください」
「……はい」
いあまぁ、実際は溢しただけだ。それだけだ。
それ以上の何物でもない。
だが、それだけの事を「その程度だ」と軽く受け取ることなかれ……それぐらい簡単になんとかなるとか口が裂けても言ってはいけない。
シミを落とすのだって簡単じゃないのだ。
「何か履いてリビングで待っててください」
「……分かった」
小さなシミのできてしまったパンツを受け取り、呆れながら廊下へと消えていく。
開け放たれた戸の向こう側、リビングのあたりから。
チーズケーキのいいにおいがしてきた。
今日の休憩のお供は、チーズケーキのようだ。今日はどんなチーズケーキを作ったのだろう。楽しみだ……食べられるかどうかわからないが。
「……あのパンツには絶対溢さないでくださいと言いましたよね」
「……はい」
「……落とすのが大変だって何回も言いましたよね」
「……はい(足が痺れてきた……)」
「聞いてますか」
「はい」
お題:チーズケーキ・トランプ・太もも