57.新たな日常
アンに関わり事の真相を知っている者達には完全なる箝口令が敷かれた。
番であるアンの死は偽装され、アンと家族は新しい身分と家と仕事を用意され竜王とは全く関わりがないものとして過ごせる環境を手配された。
…もう竜王の番としてのアンはこの世に存在しない。
数日後には正式に竜王の番の死が公表された。その死因は婚姻の儀での不慮の事故とされ、詳細は一切告げられなかった。
婚姻の儀での番の悲劇を知っている人達は最初こそ様々なことを噂していたが、左目を失い独眼となって表れた竜王の姿を見てみな口を閉ざした。
『番を失った絶望からその目を潰した』竜王を前にして何も言えなかったのだ。人々は獣人にとってどれほど番が大切な存在か知っているから。
本来なら亡くなったといえ竜王の番なのだから、その肖像画を王宮に飾りその死を偲ぶのが普通だ。
しかし番の姿が晒されるのを竜王が望まなかった為、一枚の肖像画も飾られることはなかった。
遺影すらなく『幻の番』として国葬され、国民はその早すぎる死を悼んだのだった。
そしていつしか5年の月日が流れた。
番と片目を失った竜王は引き続き王として国を治めていたが、彼が笑う姿を目にすることはあれから二度となかった。
だが番を失った喪失感を埋めるかのように国政に取り組む竜王に人々は不満を持つこともなく、いつしか『幻の番』は人々の記憶から薄れていき、その存在が口に上ることも無くなっていた。
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我が家の朝は慌ただしい。それは妹のミンが早く起きないから、いつも学校に向かうのがギリギリになってしまうのだ。
今日もまたミンはいつものように寝坊して時間に追われ、私も巻き沿いを食っている。
「ほら、ミン!学校に遅れちゃうわ、急ぎなさい」
「ごめんなさーい。アンお姉ちゃん、もうちょっとだけ待って。ねっ、あと少しでこのパン食べ終わるから!」
そう言いながら一生懸命にパンを口いっぱいに頬張る妹はリスのようで、今日も元気で可愛い。
だから『仕方がないわね~』と言いながらも髪を結ってあげてミンの身支度を今日も手伝ってしまう。
だってミンはこんなに可愛いんだもの。
ふふ、この頬っぺたモグモグしているリスみたいだわ。
手が掛かる可愛い妹の髪に仕上げの香油を塗っていると横に座っている兄が口を出してくる。
「アン、ミンなんて置いて先に行っちゃえよ。甘やかしたらよくないぞ。ミンもいい加減にしろよ、もう15歳なんだから甘えるな」
兄が怒るような口調で言っているが、本気で怒ってなんかいない。
兄は口は悪いが近所でも評判の妹思いの優しい兄なのだ。
私にもミンにもなんだかんだと甘くて、結局は遅刻しそうになると『まったくお前達は成長しないなー』と言いながら仕事で使っている馬車で学校まで送ってくれている。
そのせいか周りからはシスコンと揶揄われまだ結婚相手が見つからない。
…トム兄よ、頑張れ。
優しい義姉さんを期待してるからね♪
そんな私達を見て笑っている両親は近所でも評判のおしどり夫婦だ。
父は薬師をしていて腕も良く、穏やかだけいざという時は頼りになる。母は美人だけれどおっちょこちょいでいつも大きな口を開けて明るく笑っている。
みんな私の自慢の家族だけれども、少し私に対してだけ心配性なところがある。
まぁ、仕方ないんだけどね…。
それには勿論ちゃんとした理由があった。
私は幼い頃から自他ともに認めるお転婆娘だった。
木に登っては落ち、犬と駆けっこしては盛大に転び痣を作る。まあそれだけなら良かったのだ…が、ある日16歳の私は買い物に出掛け馬車に轢かれそうになっている犬を助けようと無謀にも馬車の前に飛び出した。犬は自力で逃げたのに私はたった一人で盛大に轢かれたらしい。
‥‥馬鹿である。
たまたま通り掛かった王宮に勤める医師が助けてくれ命は助かったけど、その代わり首には酷い怪我を負い、目覚めた時には10年間の記憶をきれいさっぱり失っていた。…嘘ではない本当になにも覚えていなかったのだ。
 




