第26話 課題
部屋の外が騒がしくなったのは、十三時を過ぎ、そろそろ一度レティシアを起こしたほうがいいかなぁとウィリアムが悩み始めていた時だった。
話し声に気づいたウィリアムは、目を通していた書類を机に置いて立ち上がる。扉一枚を隔てた廊下で、何事かを言い争っているみたいだ。漏れ聞こえてくる話し声に、ウィリアムは眉をひそめた。
見張りの兵には、事前に誰も部屋に通さないで欲しいと伝えてあったからだ。内容までは聞き取れないが。訪ね人が用件を伝えているだけにしては、やけに会話が長いような――。
「ん、……?」
レティシアが身じろぐ気配がした。大きな瞳を眠たげにこすった彼女は、のろのろと半身を起こす。くぐもった話し声で、目を覚ましてしまったみたいだ。
ちょっと様子を見てくるね、とウィリアムが微笑みかける前に。急に扉が開いて、二人はぎょっとした。
部屋主である王太子の許可なく押しかけてくる人物なんて、王宮に一人しかいない。
「王妃様……っ」
息を呑んだレティシアが慌てて毛布を跳ね除け、立ち上がる。乱れた髪を手で梳いた彼女が背筋をピンと伸ばした。
ゆったりとした動作で部屋に入ってきたアデラインがあら、と目を丸くする。王妃の背後で見張りの兵がオロオロとしていた。どうやら、ウィリアムの命を守るべく、彼と王妃が揉めていたらしい。恐縮そうな顔の臣下に大丈夫ですよと微笑んだウィリアムが下がって構わないと伝えれば、重々しく扉が閉まった。
レティシアを見つめていたアデラインが小首を傾げる。
「レティちゃんは休憩中だったかしら?」
おっとりとした笑みと共に発せられた声音に、咎める響きはなかった。だが、レティシアはそうは受け取らなかったのだろう。薄い肩が小さく跳ねたことに気づいたウィリアムは、割って入った。
「レティが疲れているように見えたので、僕が強引に休ませたんですよ。母上が組んだ予定は無茶が過ぎます。過労で倒れてもおかしくありません」
「無茶?」
「ウィル様。わたくしが、自分で」
レティシアがやんわりと口を挟んだ。緩やかに首を横に振った彼女の意図を汲んで、ウィリアムは引き下がった。
「王妃様」
「なあに?」
レティシアが申し訳なさそうに言う。
「不甲斐ないお話なのですが、今のわたくしでは公務と王妃教育の両立は難しく……このままでは、公務に支障をきたしてしまうと思うのです。ですので、今後の王妃教育の予定を調整していただくことはできないでしょうか?」
答えは、すぐに返ってきた。
「もちろん、構わないわよ?」
「え?」
ぱちくりと目を瞬かせるレティシアに、アデラインがおっとりと言う。
「レティちゃんが倒れたら元も子もないもの。そういうことなら、明日からの王妃教育は取りやめましょう」
あっさりとしたアデラインの返答に、レティシアは不安を覚えたらしい。愛らしい顔が曇りを帯びた。気づいた王妃が瞳をすがめる。
「なにか、気がかりなことがあるのかしら?」
「……がっかりしていませんか?」
その言葉で。アデラインの表情がはっきりと変わった。息子であるウィリアムですら普段から読み取ることの難しい王妃の心情が、この時だけは容易に察せた。
深い青の瞳に浮かんだのは、苦渋だった。
「公務も王妃教育も両立できると、王妃様がわたくしに期待してくださっていたのであれば……わたくしの申し出は王妃様を失望させてしまうものなのでは――」
「違うわ」
きっぱりと、王妃はかぶりを振った。
「そうではないの。私がレティちゃんに王妃教育を受けて欲しかったのは、そういった意図ではないと明言しておきます。あなたはよくやってくれているわ」
戸惑うように目を瞬かせたレティシアを、アデラインがそっと抱き締めた。
「無理をさせてしまってごめんなさい。ここまでレティちゃんは本当によく頑張ってくれたわ。十分よくやってくれたから、今後は公務に集中してちょうだい。ウィル」
身を離したアデラインがウィリアムを振り返る。
「執務がたまっているなんて、嘘なのでしょう? 午後からいらっしゃるエイヴリル伯爵夫人のお相手は、あなたに任せるわ」
「夫人にはモニカ嬢の教育を任せると、女官長が……、あ――」
言っていて、気づく。昨夜はレティシアを休ませることで頭がいっぱいで気が回らなかったが。よくよく考えてみれば、それはちょっと不味い。
「モニカ嬢のために教育係を招き、王妃教育を施すだなんて彼女は王家にとって特別なのかも――そんな噂が王宮内で流れるのは、あなたも望まないでしょう?」
「わかりました。伯爵夫人のお相手は僕が務めます」
レティシアがじっとこちらを見てくる。彼女が何を気にしているかは察しがついたから、ウィリアムはクスリと笑んだ。
「エイヴリル伯爵夫人は昔、僕の語学の先生だったんだ。博識な上に物腰の柔らかい素敵な方だから、久しぶりに話ができて嬉しいよ」
「……他の教育係の方々には、どうお詫びを――」
「気にしなくて大丈夫よ。元より、急にこちらから断るかもしれないと伝えてあるの。それでも構わないと引き受けてくれた方たちだから、変に拗れる心配はないわ」
――急に断るかもしれない。
つまり、この状況をアデラインは想定していたということ。純粋に公務と王妃教育の両立が厳しいとみたのか、それともモニカの嫌がらせまで含めてなのか。レティシアにかかる負担を考えれば、後者に思えるけれど。
「王妃様」
レティシアも同じことを考えていたのだろうか。大きな翡翠の瞳には深慮の色が滲んでいた。
「わたくしが呼ばれたのは、公務のためではないのでしょうか?」
窺うような視線を正面から受け止めて、アデラインが頬に手を当てた。
「公務は……そうねぇ。優先度は、三番目くらいかしら」
「「三番目……」」
ウィリアムとレティシアは顔を見合わせた。
「では、わたくしは一体なんのために……?」
アデラインがにっこりと微笑む。
「それについては、ウィルに聞くといいわ」
「え?」
弾かれたようにレティシアが見上げてくるが、ウィリアムは戸惑った視線を返すことしかできない。王妃の真意を推し量ることなんて、ウィリアムにはできていない。何も聞かされていないから、汲み取りようがないというか。
「レティちゃんの疑問を解消するのが、ウィルの課題よ」
それ以上の疑問も反論も受け付けませんと言わんばかりに、言いたいことだけを告げてアデラインは部屋から出ていった。




