第23話 王太子の懇願
女官長であるダリア・ブライユが王太子から呼び出しを受けた時、時刻は二十二時三十分を回ろうとしていた。こんな時間にウィリアムから呼び出されたことなど過去に一度もなく、何事かと慌てて彼の私室へ駆けつけたダリアは二度、瞬きした。
「恐れながら、殿下。もう一度おっしゃっていただけますか?」
冗談かと思って用件を聞き直すダリアへ向けて、ソファに座ったウィリアムが柔らかく微笑んだ。
「レティの公務の進捗状況を教えてください」
緊急を要する用件かと思っていたものだから、拍子抜けしてしまう。なぜそんなことが気になるのか。不審に思いつつも、ダリアは生真面目な表情を崩すことなく答える。
「残っている作業は招待状の準備だけでございます。予定よりも早く進んでおりますゆえ、ゆとりを持って終えることができるのではないかと」
「でしたら、明日一日と明後日の午前中、彼女の時間を僕に譲っていただくことはできませんか?」
「……と、おっしゃいますと?」
ウィリアムがちらりと視線を動かした。彼の眼差しの先にある光景に、ダリアはぎょっとした。テーブルの上に書類が山積みになっていたからだ。
「情けない話ですが、僕に割り当てられた書類がたまりにたまっているんです。このままだと期限を守れそうにないので、彼女の手を借りることができたら助かるなぁ、と」
くらりと眩暈がした。
「殿下……」
「面目ありません……。一昨日までずっと社交で飛び回っていたでしょう? そのせいか、イマイチ集中力が……」
弱ったように眉根を寄せるウィリアムが主張する通り、一昨日まで彼はほとんど王宮におらず、ひっきりなしに社交場に顔を出していた。それが急に執務室で書類の山を崩さねばならなくなったのだから、執務が捗らない気持ちはわからないでもない。
国王が不在なものだから、ウィリアムの仕事量も増えている。例年より処理せねばならない書類が多いのは事実だが、だからといってここまでためこんでしまうのはいかがなものか。
ウィリアムは幼い頃から手のかからない、臣下にとって自慢の王太子だった。教育係は一人の例外もなく彼の優秀さを誇っているし、臣下の誰もが清廉潔白な心根を好ましく思っている。任された執務だって、これまではきちんと期限内にこなしていたのに。
「もちろん、母上と同じようにレティでも問題なく決裁できる書類だけを任せますから」
あのアウトリウス公爵が徹底した英才教育を施したと聞くから、レティシアが書類をいくらか引き受けることは可能だろう。婚約者である彼女が王太子に代わって決裁するのも、ルクシーレでは認められている行為。だが。
「……恐れながら、申し上げます」
ダリアはきっぱりと告げた。
「婚約者が優秀な女性であるのは、素晴らしいことでございます。ですが、だからといってその優秀さに甘え、仕事を疎かにするのはいかがなものかと」
レティシアを頼ればなんとかなるだろう、なんて考えは諌めるべきだ。今後も同じことがずるずると続いては困る。人間というのは、簡単に堕落するのだから。
柔らかな金髪を揺らして、ウィリアムが首を傾げた。
「女官長のおっしゃることは尤もですが……レティを招いたのは、母上の公務の負担を軽減するためですよね? 母上が許されて僕は許されないというのは、納得がいかないです」
「そのような……っ」
詭弁を弄さないでくだいませ、と突っぱねる前に、ウィリアムが畳み掛けてくる。
「今回は非常事態ということで、僕の甘えも大目に見てくれませんか?」
じっと見上げてくる、透き通った瞳。
十八年の間、ウィリアムは手の掛からない王太子だった。その彼がここまで懇願してくるのだから、怠慢でもなんでもなく、本当に仕事量が膨大でどうにもならないのかもしれない。
許していいものかどうか、ダリアは迷った。
「このような形でレティを頼るのは今回だけだと約束します。今後、任された仕事は自分の力だけで捌けるよう、精進しますから」
「……明日一日、と殿下はおっしゃいました。王妃教育のためだけに足を運んでくださるエイヴリル伯爵夫人への配慮が足りていないように思えます」
「夫人には後日、僕がきちんとお詫びします」
王宮に出入りしている貴婦人は皆、ウィリアムを可愛がっている。伯爵夫人の機嫌が傾くことはないだろう。予定変更に問題があるかといえば、特にないのだ。ウィリアムが今後も執務を疎かにすることさえなければ。
「……わかりました。伯爵夫人にはモニカ嬢の教育に専念していただきましょう。明日の朝、レティシア様に予定の変更をお伝えします」
「ありがとうございます」
ホッと胸を撫で下ろすウィリアムを見て、一抹の不安が過った。
自分より優秀な妻を疎んじる男というのは少なくない。仕事においては、特に。レティシアの頭の良さはここ数日でよくわかった。彼女はアデラインとは別系統の才女だ。
王妃が優秀過ぎると、嫉妬で不和が生じる恐れもある。頼りにしている内はまだ可愛いものなのかもしれない。劣等感から疎ましく思うようになる事態に比べれば。
――いいえ、と。
ダリアは自身の考えを打ち消した。そんな不安を抱くのは不敬だとすぐに気づいたからだ。
世の中にはそういう男女もいるけれど。ウィリアムはそんな器の小さい王子ではないはずだ。王国の宝とも褒めそやされる彼だから、きっとレティシアの才覚を大切にできるはずだった。
「……あ、そうだ。レティを僕の執務室に招くのは目立つので、執務はこの部屋で手伝ってもらおうと思います。その際、ドレスは締め付けの少ないものが望ましいと伝えてください」
「かしこまりました」
長時間拘束することになるから、楽に臨めるようにという配慮だろうか。
婚約者に甘えるのは一度きりにしてくださいねと念押しして、ダリアは部屋をあとにした。
 




