第5話 二人の決まり事 前編
第6話までは二人の過去話となっております。第7話以降が短編の続きとなる、学園でのエピソードです。
来月十一歳の誕生日を迎えるウィリアムには、可愛らしい婚約者がいる。
政略的な婚約ではあるものの、二人の仲は周囲の大人たちが微笑ましそうに見守るくらい良好なもの。
会うたびにウィルさま、ウィルさま、と嬉しそうにあとをついてくる婚約者を、一人っ子のウィリアムは妹がいたらこんな感じなのかなと微笑ましく思っていた。
将来夫婦になるというのは、いまいちピンとこないけれど。王太子として目まぐるしい毎日を送るウィリアムにとって、二週間に一度の婚約者との時間は癒しだった。おそらく、彼女にとっても。
そんな天使のように愛くるしい婚約者――レティシアの様子が、この日はおかしかった。
宮女を伴って王宮の庭園に顔を見せたレティシアは、出迎えたウィリアムの前で挨拶の言葉を口にし、お辞儀する。その時点で異変に気づいたウィリアムは、眉をひそめた。
絹糸のような銀髪を揺らし、スカートをつまんで膝を折る一連の動作は板についていて、まだ七歳なのに見惚れるくらい優雅なもの。それはいつも通りなのだけれど。
普段のレティシアなら、まず勢いよくウィリアムに飛びついてくる。非公式な場だからこその彼女の甘えをウィリアムが形だけ窘めて、それからきちんと挨拶を交わす。それが二人のいつものやり取りなのだ。
それに、レティシアの表情だって。愛らしい顔に無邪気な微笑みを湛えて挨拶を口にする彼女が、今日は神妙な面持ち。粛々とした挨拶は、何から何までレティシアらしくなかった。
頭一つ分ほど下にある彼女の顔を、ウィリアムはじっと見つめる。
「どうしたの?」
え、と瞠られた紫苑の瞳を覗きこんで、違和感をそのまま口にする。
「今日はなんだか、いつもと違うね。よそよそしい感じがする」
「婚約者といえども節度を守るべきだと、気づいたのです」
レティシアは物凄く頭がいい。抜群の記憶力とスポンジみたいな吸収力を持つ彼女は、すでに十二、三歳くらいの教養がある。同年代の貴族の子供なら読み書きが完璧になったくらいだろうに。
自然と言葉選びも七歳らしからぬ大人びたものになるのだが、同じ年頃の令嬢と比較しても小柄な部類に入るレティシアは年齢以上に幼げだから、人によってはちぐはぐに映るかもしれない。
「挨拶はそうかもしれないけど、いつもの元気はどうしたの? 具合が悪い……わけじゃない、よね?」
柔らかそうな頰は血色がいいし、無理をしているといった様子は見られない。それでも念のために確認すると、レティシアが慌てて言う。
「わたくしは、元気いっぱいです」
真面目な顔で主張するレティシアだけれど、信憑性はまったくない。いつもの彼女はもっとにこにこ笑って話す、溌剌とした子なのだから。
「何があったか、僕には内緒なの?」
追及の手を緩めないでいると、愛らしい顔は困ったように曇った。レティシアにこんな顔をさせてしまうのは不本意だけれど、ウィリアムは聞いておくべきことだと直感していた。
スカートの前で指を組み合わせ、まごついていたレティシアは、ウィリアムが引かないと悟ったのか観念したように口を開く。
「お父様が……」
「うん」
「これからは、いかなる時でも無表情を意識しなさいって。おまえは考えていることがすぐ顔に出るから、将来のために今のうちから徹底しておけと……」
無表情というには顔色の変化ははっきりしてはいたが。それでも、いつもの彼女に比べれば、確かに表情は乏しいほうか。
腑に落ちたウィリアムは、厳しい公爵の顔を思い浮かべる。
レティシアの父クラウスは、王国の宰相だ。ずば抜けた政治手腕を持つクラウスは切れ者で、国王から絶対的な信頼を寄せられている。
レティシアの美貌は彼女を産んですぐに亡くなった母親譲りだが、明晰な頭脳は紛うことなき父親の血。
常に威圧的な空気を放っているクラウスは、ウィリアムの前ですらにこりともしない。ウィリアムの周りには良くも悪くもわかりやすい、おべっかばかりの大人が多いのだけれど、クラウスは仮面をつけているみたいにいつだって表情が変わらない。何を考えているのか、まったく読み取れない人だった。
彼は、レティシアにもあんな風になることを求めているのか。
ウィリアムに何かあった際、政の中心となるのは王妃だから、言わんとすることはわからないでもないけれど。
だからといって、レティシアらしさを無理やり押し込めて理想を押し付けるのは、違う気がする。母親のいないレティシアにとって、公爵の教えがすべてなのに。
というか、まだ七歳の子供に笑うな、怒るな、泣くな、なんて酷な要求だ。レティシアは素直な子だからどうにか実践しようとするだろうし、というかその結果が今日なのだけれど。
実父の期待に一生懸命応えようとしているレティシアを見るたびに、ウィリアムはやるせない想いを抱えることになるのだ。