第11話 王妃の独白
凍てついた夜空に白々とした月が浮かぶ時間になっても、アデラインの執務は片付かなかった。執務机に齧り付き、山積みの書類に淡々と目を通して判を押す。
暖炉の薪が爆ぜる音だけでなく、紙がこすれるささやかな物音すらもはっきりと響くほどの静寂に満ちた執務室。その静けさは、規則正しいノックの音によって破られた。王妃付きの女官が女官長の来訪を告げてくる。
入室の許可を出すと、きびきびとした動作でアデラインの前に立ったブライユ伯爵夫人が深く腰を折った。
「お忙しいところ恐縮ですが、確認していただきたい内容がございます」
「構わないわ。何?」
直轄地に纏わる報告書に目を落としたまま、女官長である夫人の報告に耳を傾ける。
先ほど、今後の予定に関する手順でレティシアから意見があったのだとか。彼女と交わしたやりとりを一通り話し終えてから、夫人が一枚の紙を差し出した。
「明日のレティシア様のご予定は、こちらで間違いございませんか?」
予定表にさっと目を通して、頷く。
「問題ないわ。今後も可能な限り双方の要求を呑むよう、皆に徹底させてちょうだいね」
この先モニカがレティシアに小細工を弄するだろうが、一貫して見て見ぬふりを。何か頼まれた場合も、レティシアの命に関わるような危険な行為でない限りは意に沿うよう、命じた。それから、レティシアから頼み事をされた際も忠実に従いなさい、とも。
アデラインがおっとりと微笑めば、紙を受け取った夫人は何事かを言いあぐねるように唇を動かす。進言すべきか迷っているのだと気づいたアデラインは、やんわりと促した。
「何か、引っかかることがあるのかしら? 遠慮など不要だわ。話してちょうだい」
「モニカ嬢の要求が夜会の準備に支障をきたすようなものであっても、我々は従わねばならないのでしょうか?」
もちろん、想定しておくべき事態だった。レティシアを貶めたいのなら、公務での失態は痛烈な一撃になる。付け込まない手はない。
そしてアデラインは、困ったことがあったら女官や侍女を頼りにしてちょうだいねとモニカに吹き込んでおいた。それほど鈍い令嬢ではなさそうだから、レティシアを蹴落とすために宮女を利用してもいいですよ、という仄めかしだと気づけたはず。
育ちのいい令嬢がどんな思いつきをするのかはわからないが、いずれ宮女たちは卑劣な嫌がらせの片棒を担がされることになる。
矜持の高い夫人のことだから、ふた回り近く年下の小娘にいいように使われるのが不服なのだろう。察した上で、アデラインは悠然と微笑んだ。
「もちろんよ。後先を考慮せず、モニカ嬢に従いなさい。彼女の要求は私の命令に等しいと思ってね」
「かしこまりました」
それでも夫人は従順にこうべを垂れる。アデラインの威光は絶大だ。
アデラインにとって舅に当たる先代の国王は、好色家で美しい女性に目がない困った男だった。それでも長年の伝統には抗えず、側室が持てないことに不平をこぼしながらも未婚時代に侍らかしていた令嬢たちの中で、一番容姿の美しい女と結婚した。王太子妃には賢明な女性を、という周囲の助言に聞く耳を持つことなく。
結果、ルクシーレは傾きかけた。
国王も王妃も政の才が皆無だったからだ。現在アデラインの夫が他国に赴いているのだって、直轄領で余生をのんびりと過ごしている先代のせいだ。彼が国王の時、アイネクラインに借りを作ってしまったがためにルクシーレの立場が弱く、年末という無理な要求を呑まざるを得なくなった。そのくらい無能な人なのだ。
政治というものをまったく理解していない国王夫妻は置物状態。代わって貴族たちが議会の主導権を握ろうと派閥争いが激化し、目も当てられない方向に向かいかけた王国を救ったのが、当時王太子の婚約者であったアデラインだ。根回しに根回しを重ねて先代を退位に追い込み、夫と共に腐敗した国内を建て直した。
先代王妃がろくでなしだったから、学生時代から才女として名を馳せていたアデラインの有り難みというのは骨身に染みるのか。女官長を筆頭に宮女も官吏も例外なく、王宮に仕える者たちはアデラインの忠実な僕だった。
一人きりになると、アデラインは書類を机に戻して凝った肩をほぐした。うん、と伸びをしながら呟く。
「おおよそ、クラウスの読み通りといったところかしら」
宰相の先見の明に感嘆しつつ。アデラインは社交場以外では肌身離さず身につけているロケットペンダントに手を伸ばした。ぱちりと音を立ててシルバーの蓋を開けると、古びた肖像画が姿を現す。
描かれているのは愛しい旦那様でも、愛息でもない。
おっとりとした顔立ちをした、二十歳ほどの美しい女性だ。セレスティア・アルトリウス。学生時代、アデラインがたった一人心を許せた、無二の親友。
「見た目はセレスにそっくりだけれど、中身はクラウスに似てしまったのねぇ。いいのか悪いのか、悩ましいところだわ……」
すっかり笑顔を見せなくなった、息子の大切な婚約者。ウィル様、ウィル様と愛くるしい笑顔を浮かべて雛鳥のように彼の後を追いかけていたレティシアは、今ではすっかり他人に甘えることをしなくなった。今回の問題にも一人で立ち向かう気でいるようだ。
亡きセレスティアの忘れ形見に、アデラインもクラウスも並々ならぬ想いを抱いている。
王国の名門エーデルワイス伯爵家の出であるセレスティアは、生まれつき身体が弱かった。将来身籠ることがあった場合、出産は命に関わる。年頃になって医者からそう忠告された彼女は、その類稀なる美貌で社交界を騒がせながらも結婚相手としては敬遠されていた。子を産めない貴族の女に価値などないからだ。
知っていて、クラウスはセレスティアに求婚した。可憐な容貌だけでなく心根まで清らかで太陽みたいに眩しい彼女に、どうしようもないほどに惹かれてしまったのだ。セレスティアを深く愛していたクラウスは自身の血を引く子供は諦め、養子を取る方針を示していた。
だが、セレスティアはクラウスの血を継ぐことに強いこだわりを持っていた。正当な公爵家の後継ぎを残したかったというだけでなく。おそらくは、アデラインのためでもあったのだろう。
学生時代、いつか二人とも子宝に恵まれて。二人の子供が結婚するような未来が訪れたら素敵だわ、なんて戯言をアデラインが口にしてしまったから。その時はまだ、セレスティアの出産が命に関わるなんて知らなかったのだ。知っていたら絶対に口にしなかったのにと、悔やみ続けた失言。
夫婦のあいだでどんな話し合いが行われたのか、アデラインは知らない。だが、セレスティアが身籠った以上、クラウスが折れたことは間違いなく。セレスティアはレティシアを産んでほどなくして息を引き取った。彼女の死を誘発させた要因は明白だった。
待望の子供が女児であった時、セレスティアは何を思ったのだろう。そして、愛しい妻を奪った娘にクラウスはどんな想いで接しているのか。年々セレスティアに似ていくレティシアは、クラウスにとって複雑極まりない存在だろう。
「……クラウスとランドール伯。父親としてまともなのは、どちらなのかしらね」
ペンダントの蓋をそっと閉じて、アデラインは嘆息した。




