第10話 レティシアの考え
呆気に取られて閉口するレティシアの隣で、ドロシーが憤慨した。
「なんなんですか、あの方!? 王妃様がお嬢様を嫌っているだなんて、ありえません! 荒唐無稽な作り話でお嬢様と殿下の仲を引き裂こうという魂胆が透けて見えますっ」
憤りを露わにする彼女は、毛を逆撫でた猫のよう。
「王妃様に報告しましょう! モニカ様の態度は度が過ぎています。お嬢様は殿下の正式な婚約者なのですから、抗議は正当な権利ですわっ」
我慢ならない様子でドロシーはそう言うけれど。
荒唐無稽。本当にそうなのだろうかと、レティシアは疑問を抱いた。広い部屋をぐるりと見渡す。
レティシア好みの恋愛小説が並んだ本棚。年頃の令嬢が好みそうな陶器の人形がいくつも収まったキャビネット。白を基調とした家具の中にあってよく映える、空色のカーテン。ウィリアムの瞳を連想させる、綺麗な薄花色。
忙しない日々の合間を縫って、わざわざアデラインが用意してくれた部屋。彼女の心遣いが垣間見えるのは、今回だけじゃない。幼い頃はウィリアムとの面会で王宮を訪れるたびに、王妃が珍しい絵本を用意してくれた。友人の娘であるレティシアを、昔から特別気にかけてくれていたのだ。そんなだから、彼女に嫌われているというのはピンとこなかった。
――だが。
「……アデライン様にご相談する前に、確かめなくてはいけないことがあるわ。ヘレネを待ちましょう」
思うところがあったから、ドロシーの進言を退ける。レティシアが首を横に振れば、それ以上の不平を彼女はこぼさなかった。
ぬるくなった紅茶を入れ直してもらい、メリルから貰った小説を手に取る。夕食までは特に予定がないから、ヘレネを待つあいだ気兼ねなく物語に没頭できる。
恋愛よりも謎解きに重きが置かれた小説にのめり込み、半分ほどページを消化したところで。部屋の扉を叩く音に、レティシアの意識は現実に引き戻された。夕日の差し込む室内には、いつの間にかランプの明かりが灯っている。
入室を促すと、ヘレネが顔を見せた。形式的なお辞儀をする彼女に会釈して、レティシアはさっそく用件を告げた。
「本日のお茶会の開始時刻のことで、モニカ様と諍いが生じてしまったのです。モニカ様が時刻の変更を伝達に来た際、ヘレネも同席していたでしょう? 彼女がわたくしに伝えてくださった時刻は、記憶にありますか?」
凛としたハシバミ色の瞳を見上げる。答えはすぐに返ってきた。ヘレネは緩やかにかぶりを振る。
「申し訳ございませんが、私は覚えていません」
思い出そうとする素振りすら見せずに、きっぱりと。部屋の隅に控えているドロシーがえ、と呟くのが聞こえた。レティシアは少しだけ考えてから首を傾げる。
「『お茶会が十五時でしたら、作業は十四時に切り上げましょうか?』」
諳んじたのは、あの時ヘレネが口にした言葉。一言一句、間違っていないはずだった。
「あなたはそう、提案してくださったでしょう? それも覚えていませんか?」
レティシアはじっとヘレネの顔色を窺った。利発そうな瞳が僅かに瞠られたように見えたが、彼女はやっぱり首を横に振る。
「記憶にありません」
視界の端でドロシーがぎょっとしている。午前中の出来事とはいえ、まったく記憶していないというのはおかしな話だ。
ヘレネの回答から、レティシアは一つの答えを得た。
「わかりました。明日からの公務の補佐も、よろしくお願いしますね。忙しいのにこんなことで呼び出してしまってごめんなさい」
「…………」
下がって構いませんよと促したのに、ヘレネはなぜかその場から動かなかった。用件はもう済んだのだけれど。物言いたげな顔で佇む彼女に、レティシアはかくりと首を捻る。
「どうされましたか?」
「……いえ。明日からもレティシア様の公務が滞りなく進むよう、誠心誠意お仕えいたします」
「ありがとうございます」
扉が閉まると、レティシアは人差し指を頬に当てた。
「すべてがモニカ様の作り話、というわけではなさそうですね……」
少なくとも、王妃が見て見ぬふりをするというのは事実のようだ。
ヘレネの覚えていないという発言は、明らかに嘘だった。もし本当に記憶していなくとも、もう少し思い出す努力をしてくれるはず。レティシアの目には、事前にそう答えることを決めていたように映った。
国に仕える立場にある女官がモニカを庇う必要などないから、十中八九、王妃の命令だろう。
「……このために、アデライン様はヘレネを呼び出していたのかしら?」
なるほど、と。納得するレティシアとは対照的に。
「こんなの、あんまりですっ!」
ドロシーが不満を爆発させた。
「公務をお嬢様に押し付けるだけ押し付けて、裏ではモニカ様の卑劣な行いを支持なさるだなんて! 王妃様がそのような方だとは――」
「ドロシー」
三つ年上の侍女を、レティシアは厳しい目で見つめる。
「アルトリウスは王家の忠臣です。公爵家の侍女であるあなたも、同様の立場にあります。王妃様を貶めるような発言は許されないわ。控えなさい」
「でも……」
納得いかなさそうな顔でドロシーがお仕着せのエプロンをぎゅっと握る。心配そうに瞳を揺らしていた彼女がハッと目を見開いた。
「あ、そうです! お嬢様、殿下にご相談されては――」
「却下です」
にっこりと微笑んで一刀両断する。ドロシーには申し訳ないけれど。忙しいのはウィリアムも同じ。余計な心配をかけたくない。
レティシアを苛め抜く。モニカのこの宣言にどう対応するのが正解なのか。
少し考えてから、レティシアはベルを鳴らして侍女を呼び出した。応じた侍女に女官長を呼んで欲しいと伝えれば、程なくしてブライユ伯爵夫人が姿を見せた。
四十歳の女官長は長身痩躯をピンと伸ばした、鋭利な雰囲気の女性だ。相対する者を萎縮させるような見た目通りの厳しい人で、王宮に勤める侍女と女官は常に彼女に怯えているのだとか。
王妃の腹心とも囁かれる夫人を、レティシアはまっすぐに見つめる。
「明日からわたくしの一日の予定は口頭ではなく、女官長自らが書面にまとめ、サインをした上で直接手渡して下さい。急な予定変更が生じた場合も同様の手順でわたくしに寄越してくださいますか?」
言った言わないの水掛け論は二度とごめんだった。こうしておけば、レティシアが予定をすっぽかすなんて事態は防げる。
「かしこまりました。宮女に徹底させます」
「それから、今後の公務と妃教育の詳細な予定をすべて教えていただきたいのです。いつまでに用意できますか?」
公務も妃教育も、当日の朝に何をするか伝えてもらっていたけれど。こうなってしまった以上は、事前に把握しておくべきだった。
「……明日の夕刻までには、書面でご用意できるかと」
「それで構いません。お願いしますね」
かしこまりました、と恭しくお辞儀をして女官長が部屋を出ていく。
さて。
明日、女官長がレティシアのお願いを実行してくれるかどうかで今後の対策が変わってくる。女官長が従ってくれるのであれば、アデラインが命じたのはあくまでモニカの動向を黙認することであって、宮女が加担してレティシアに嫌がらせをしてくる、なんて事態を心配する必要はなくなる。まぁ、その心配は不要だとは思うけれど。
「……やっぱり、あの方がお嬢様より王太子妃にふさわしいようには見えません。それなのに……なぜ王妃様は、あの方を王太子妃に据えようとなさるのでしょうか……」
「モニカ様を王太子妃に据える気は、王妃様にはないと思うわ」
え、とドロシーが目を丸くする。
モニカは王太子妃になるのは私だと言っていたけれど。そこに関しては、レティシアは苦笑いしてしまう。
レティシアが用済みだというのなら、婚約解消を進めればいいだけ。国王不在とはいえ、クラウスが視野に入れているのだからアデラインが独断で進めても問題ない。婚約者の立場から逃げ出したくなるようレティシアを苛めてやろう、なんて回りくどい手順を踏む必要はない。なによりも。
「清廉潔白、品行方正な殿下の伴侶に、卑劣な女性を選ぶアデライン様ではないわ」
手段を選ばないやり方は評価されるかもしれない。だがそれはあくまで、事が露呈しなければの話。女官がモニカを庇うのは王妃の命令とみて間違いない。モニカの言動からも推察できるが、王妃はすでに真相を見破っている。そんな稚拙なやり方しかできない令嬢が、ウィリアムにふさわしいはずがない。
レティシアの学園での失態に失望しているというのなら尚更、より完璧な令嬢を婚約者に選びたいはず。
アデラインの真意はわからないけれど。レティシアの取るべき姿勢は、一つだけ。
「王妃様の真意がなんであれ、モニカ様の苛めとやらでわたくしの評価が下がらなければ、問題ありません」
心配そうなドロシーに、にっこりと微笑みかける。
付け入る隙を与えなければ、レティシアを婚約者の座から引き摺り落とすことはできない。
レティシアは本棚から分厚い歴史書を三冊抜き取って、テーブルにどん、と置いた。妃教育の時間に教本代わりで用いるものだと聞いている。
侍女見習いとしての仕事があるモニカがレティシアに割ける時間というのは、限られてくる。最も警戒すべきなのは、共に過ごす妃教育の時間だ。彼女がどうやってレティシアに恥をかかせるつもりか。予測して対策を立てておかなくてはならない。その第一歩として、本に悪戯をされても大丈夫なように内容をすべて暗記してしまおう。
拳ほどの厚さがある本を前に気合を入れたところで。コンコン、と控えめなノックの後に侍女が顔を覗かせた。
「レティシア様。殿下が、お時間があるようでしたら中庭を散策しないかと仰せです。いかがされますか?」
「え……」
この時分、王宮の中庭ではプリネラが見頃を迎える。可憐な小ぶりの花びらが連なった色とりどりの花々は、それはそれは綺麗で見応えがあるのだけれど。
小首を傾げる侍女と、分厚い学術書を何度も見比べて。
「……っ、立て込んでいるので、またの機会にとお伝えください」
断腸の思いで、レティシアはそう答えた。王宮に滞在する間、ウィリアムと二人きりでまったり過ごせる時間なんてこの先二度と訪れないかもしれないのに。
「ウィル様のお誘いをわたくしに断らせるとは……。この罪は重いんですからっ」
一生根に持つのは、確定事項だった。




