第24話 婚約者だから
何も書かれていない紙を掲げてみせると、ウィリアムは微笑んだ。
「流石はレティ。慧眼だね」
「奇遇ですわね、ウィル様。わたくしもアレクシス様との交渉には空手形で臨みました」
「婚約者だと、考えも似るのかな」
可笑しそうに笑みをこぼすウィリアム。ルーシーを破滅に追い込む気なんて、彼にはなかったのだ。
「アレクシス様も共犯ですか?」
「いや? アレクには話してないよ。仄めかしておけば、レティに事情を聞いて察してくれると思ってた」
アレクシスから聞きつけたレティシアが止めに入る前提で、ウィリアムは動いていたのだ。王太子の目論見通り、今後ルーシーがレティシアに楯突くことはないだろう。気に食わない級友から一転、彼女にとってレティシアは人生の終わりから救ってくれた恩人になった。でも。
「……男爵令嬢の目に、ウィル様は冷酷なお方に映ったことでしょう。遺恨を残してしまうのではありませんか?」
温厚でキラキラした王子様。それがたぶん、ルーシーがウィリアムに抱いていた印象。彼女の中で今日、王太子は権力を振り翳し、脅しも辞さない冷徹な人となった。ルーシーは心のどこかで、ウィリアムを恨み続けるのではないだろうか。
「一二〇〇人も生徒がいれば、目立たないだけで僕を嫌っている人だって何人かはいると思うな。それが一人増えただけの話だよ」
なんてことないように言うけれど。
ウィリアムがこんな形でルーシーを窘めた理由は明白だった。レティシアの代わりに、憎まれ役を買って出てくれたのだ。
問い詰めても、ウィリアムは微笑むだけでレティのため、なんて口にしないだろう。幼い頃からずっとずっと、婚約者としてこの上なく大切にしてもらっていて。彼からの愛情を実感しているからこそ、レティシアは胸が苦しくなった。
王太子として他者からの恨みを買わないよう、細心の注意を払って立ち回っているウィリアムに、こんな真似をさせてしまうなんて。彼の気高さを汚してしまった。
じわじわと目頭が熱くなってきて、レティシアは咄嗟に封筒で顔を隠した。
「レティ……?」
「なんでもありません」
「なんでもないって声じゃないけど……」
平坦な声音を意識したつもりだけれど、迫り上がってくる嗚咽は完全には殺せていなかった。
レティシアの甘さが招いたことなのに泣くのは卑怯だから、絶対に顔を見られたくない。
「なんでもないですから、ウィル様は先にお帰りください」
「そう言われて『はいそうですか』とはならないでしょ。どうしたの?」
「…………」
「ごめん、流石に出過ぎた真似だったかな。怒ってるよね?」
「そんなわけ……っ!」
誤解に、慌てて封筒を除ける。目が合うと、ぼやけた視界の先でウィリアムが悪戯っぽく笑った。やられた、と思う。この婚約者様は、本当によくレティシアの扱い方を心得ている。
「もう……っ!」
理解されているのは嬉しいし、敵わないのは悔しいしで、心の中はぐちゃぐちゃだ。溢れてくる涙を拭うと、距離を詰めたウィリアムにふわりと抱き寄せられた。
子供の頃から変わらない、レティシアが世界で一番安心できて、最近は少しだけ緊張する場所。
「どうしたの?」
耳元で囁かれる声は蕩けそうになるくらい甘くて。抗えない魔力を秘めている。
「泥を被ってくださったウィル様のお気持ちは、とても嬉しいです。ただ、何もできなかった自分が、情けなくて……っ」
どうして上手くできないのだろう。ウィリアムが同じ立場であったなら、ここまで拗れさせることなくルーシーを懐柔できたに違いない。同じことが、レティシアにもできないといけないのに。
穏便に済ませるどころかつい悪態を吐いて火種を作ってしまう自分が、情けなくて堪らなかった。
「そんなことないよ。僕がでしゃばらなければ、レティはちゃんと自分で解決できていた。僕が邪魔をしたんだよ」
彼の腕の中で、レティシアは強くかぶりを振る。
「ウィル様に気を遣わせてしまった時点で、ダメなのです。もっと早くわたくしが動いていれば――」
「少し前に、レティの華麗な逆襲劇を見てみたいって会話をしたの、覚えてる?」
レティシアの言葉を遮って、そんなことを問いかけてくる。池に投げ捨てられた髪飾りをウィリアムが拾ってくれた後、そんな会話を交わしたことは覚えている。
記憶しているけれど、質問の意図がよくわからない。
こつん、と額を合わせて、ウィリアムが囁いた。
「あれ、本心じゃないんだよね」
「……?」
ウィリアムの言いたいことがまったくわからない。きょとん、と上目遣いに見つめると、間近にある双眸が曇りを帯びた。
「レティがしないってわかっていたから言えただけ。僕が余計なことをしたのは、君にさせたくなかったからだよ。ただの、僕のわがまま。身分を利用した脅しも時には必要だけど、レティは気乗りしないでしょ? 好きな人の方が珍しいだろうとは思うけど」
「ウィル様だって、お嫌いじゃないですか」
「うん。でもほら、僕は王太子だから。生まれた時からそういう立場なわけで」
「わたくしだってウィル様の婚約者です。だからこそ――」
「だからだよ」
滅多にない、強い口調で。
「だから僕は、嫌なんだよね」
ウィリアムが憂鬱そうに言う。
「僕の婚約者じゃなかったら、レティは絶対、物凄く可愛い女の子に成長してたと思うんだ。もちろん、今のレティだって可愛らしいよ? でも、公爵の教育で見えにくくなった部分があるのも、確かだから。昔のままなら、人付き合いでレティが苦戦することもなかったんだろうなって」
「ええ、と」
破壊力が凄まじすぎて内容が頭に入ってこない。涙はとっくに引っ込んでいて、ただただ頰が熱い。恥じらうレティシアに気づく様子なく、ウィリアムは続けた。
「行き過ぎなくらいの英才教育も含めて。僕の婚約者じゃなければ、レティはもっと伸び伸び過ごせたんじゃないかなって思うと……僕の婚約者って立場が君から奪ってしまったものはあまりにも多い。だからせめて、国を左右するわけでもない学生同士の諍いくらいなら、レティが嫌なことはさせたくなかったんだ」
吐露された本音は、レティシアが想像すらしていなかったことで。ある懸念が過ぎった。
「もしかして、ウィル様がわたくしを甘やかすのは、負い目を感じていらっしゃるからなのでしょうか……?」
罪滅ぼし感覚で、愛情を注がれていたのだろうか。
「え? いや、それとこれとは話が別だけど」
違ったようで安堵しつつ、その先も聞きたくなってしまった。
「ではなぜ、ウィル様はわたくしを甘やかしてくださるのでしょう?」
「それは……レティは僕の婚約者だし」
「婚約者だから……だけですか?」
期待に満ちたレティシアの眼差しに、ウィリアムは視線を逸らした。
「ええと、話がだいぶズレてないかな?」
――逃げましたわ。
さっき物凄い殺し文句をしれっと口にしていたのに。
その先が大事だったのにと頰を膨らませたレティシアだったが、それ以上の意地悪は自重して、表情を引き締めた。
「ウィル様との婚約は政略的なものです。物心つく前に決まったことでもありましたから、王妃となる将来は、わたくしの意志となんら関わりなく定められたものといえます。ですが……」
初めて挨拶した時のことは、幼過ぎて朧げにしか記憶していない。当時から完成された美貌と柔らかな物腰を備えたウィリアムは、さながら絵本に出てくる王子様のようだったに違いない。
そんなウィリアムに惹かれるのは女の子なら当たり前で、レティシアも例に漏れることなく。彼のお嫁さんになるためなら、なんだって頑張れると思っていた。
「ウィル様の婚約者でなかったら、なんて仮定に意味はありません。わたくしが、ウィル様の婚約者でいたいから、物凄く頑張ったのです。だから……そんな悲しいことを言わないで」
ウィリアムが負い目を感じる必要なんてないのだ。嫌だったら、とっくに音を上げて逃げ出している。
勇気を出して、えいっ、とウィリアムの胸に飛び込む。抱きとめてくれた彼が少し驚いたような反応をみせたのは、レティシアから抱きつくのは久方ぶりだからだろうか。
子供の頃は何も意識することなくできていたけれど。最近は緊張してしまうから、挨拶ですら躊躇するようになった。
頰をすり寄せ、思ったままを口にする。
「わたくしの婚約者がウィル様でよかったと、心から思っています。いつだって。だから、このような形で甘やかすのは程々にしてくださいな。慣れてしまったら――いざという時、ウィル様を支えられなくなってしまいますわ」
「それは……難しいかも?」
「ウィル様……っ!」
ここまで言っても伝わっていないのかと、レティシアは抗議の眼差しを送る。見上げた先で、ウィリアムが柔らかく瞳を細めた。
「僕の婚約者が可愛い過ぎるから、不可抗力だよ」
「……先ほどは渋っていらしたのに、今おっしゃるのですか?」
「あれは……だって、あんな期待に満ちた目で求められたら、流石に恥ずかしいってば」
困ったように俯くウィリアムが、愛しくてたまらない。
王太子の婚約者という立場は苦労も多いけれど、レティシアは間違いなく、幸せ者だった。




