第3話 わたくしより聖女様が相応しいとのことです
レティシアの穏やかな学園生活が騒がしくなったのは、翌日のこと。
学年もクラスも違う女子生徒が六人、休み時間にレティシアを訪ねてきた。その中には先日メリルが話題に挙げた聖女――アンジェの姿もあった。
「アルトリウス公爵令嬢。いくら婚約者だからといって、ウィリアム様と二人きりで過ごすのは、重大な規則違反ですわ」
昨日の今日だし、大人数で押しかけてきた時点で用件は察せていたが。
レティシアがウィリアムと二人きりで会っていたことが、彼女たちの気分を害してしまったらしい。
「学園でのウィリアム様は、みんなのものなのです。これは、公爵令嬢が入学なさる前からの規則。婚約者であろうとも、犯すことは許されません」
メリルから聞いたことがあった。とある令嬢に東屋で勉強を教えて欲しいと請われた際、ウィリアムは二人きりで会うことを断った。婚約者がいる身で外聞の悪い振る舞いはできない、と。それ以来、ウィリアムはみんなのものという、謎の規則ができあがったのだとか。
彼女たちが勝手に言い張っているめちゃくちゃな規則であっても、レティシアに異論を挟む気はない。
ウィリアムはきっちり線引きしているし、レティシアをちゃんと特別扱いしてくれているのだから、嫉妬心も湧いてこない。
婚約者が人気者なのは、素晴らしいことだ。心からそう思っているから、レティシアはやんわりと微笑んだ。
「以降、気をつけますね」
「本気でそう思っていらっしゃる?」
「もちろんです」
にっこり微笑めば、令嬢は眉をひそめた。
「こう言ってはなんですけど、公爵令嬢の笑顔って……なんというか、嘘っぽいのよね」
「嘘っぽい……」
レティシアは、心の中だけで苦笑する。
嘘どころか、偽りのない本音。
だというのに、誤解を招いてしまうのは――レティシアが、一般の淑女とは毛色の違う教育を受けてきたせいだろう。
常に微笑みを湛え、愛される女であれ。それが貴族の家に生まれた娘が教わる基礎。
だが、血筋と愛らしさから五歳で第一王子の婚約者となったレティシアは違う。将来、王妃として政務に携わる機会が訪れた際、老獪な貴族たちと渡り合えるよう、日頃から感情を表に出すな。愛嬌よりも食えない女であれ。父は、一人娘にそう説いた。
感情を殺す日々が七年近く続いた結果、レティシアは薔薇どころか氷みたいな令嬢に育った。尤も、アルトリウスの秘蔵っ子として屋敷の外に出してもらえず、訪ねてくる客ともほとんど顔を合わせなかったレティシアだから、昔の彼女を知る同年代の貴族は皆無に近い。ある人の前を除いてずっと押し殺してきた表情を無理やり引き出そうとするものだから、レティシアの立ち振る舞いは薄っぺらくなってしまうのだ。
「口先だけならなんとでも言えるわ」
「自分が婚約者だと、私たちに見せ付けたかったのではなくて? 改める気なんてないのでしょう?」
レティシアの困惑を置き去りにして、令嬢たちの不満は募っていく。
「だいたい、アルトリウス公爵令嬢がウィリアム様の婚約者であることがおかしいのだわ。アンジェのほうがよっぽど相応しいのに!」
「アンジェが養子であなたが公爵家の出だなんて……っ」
こぼされた言葉に、あら、と目を丸くする。
レティシアを扱き下ろすためにアンジェを引き合いに出したわけではなく、吐露されたのは確かな本音に聞こえた。
「殿下はみんなのものですのに、メネリック伯爵令嬢が婚約者でしたら、皆様は納得されるのですか?」
一貫していない主張を、レティシアは不思議に思う。
「アンジェが殿下の婚約者なら、納得がいくもの」
「アンジェの癒しの力は素晴らしいのよ。挫いた足が、あっという間に治ってしまったの。ほんのひと瞬きの間のことよ」
「成績だって優秀ですもの。アンジェはウィリアム様に相応しい令嬢になろうと、日々勉学に励んでいるの」
「神に愛された娘ですものね。加えて努力家なら、私たちだって応援するわ」
持て囃されたアンジェは、顔を真っ赤にして押し黙っている。恥ずかしそうに俯く仕草は、とても愛らしい。彼女が学年問わず同性から慕われているのは、明らかだった。
がたん、と椅子を揺らして立ち上がったレティシアは、アンジェにずいっと詰め寄り――彼女の両手をぎゅっと握った。
「素晴らしいですわ」
「はい?」
「入学から半年足らずでここまでの支持を得られる求心力。秘訣はどこにあるのでしょう? 何か、心掛けていらっしゃることは? それともやはり、殿下同様に天然が最強なのでしょうか?」
「あの? 一体、何のお話ですか?」
慌てふためいている可愛らしい顔に、レティシアはもどかしくなる。
――わたくしに、お友達作りの秘訣をご教授ください。
そうお願いできたら楽なのに。公爵家の娘として、そんな恥ずかしい台詞は口が裂けても言えない。実家に伝わってしまったら、厳しく罰せられるに違いないからだ。
「レティ?」
涼やかな声に振り返れば、教室に入ってくるウィリアムの姿があった。彼の肩越しに、息を切らせたメリルが見える。姿が見えないと思ったら、助けを呼びに行ってくれていたらしい。
「ごきげんよう、殿下」
「何か、揉め事かい?」
「いいえ? とても平和的な語らいをしておりました」
レティシアがにっこり微笑めば、ウィリアムはそれ以上追求しなかった。彼は、レティシアを取り囲んでいた集団の中で、最も身分の高い令嬢――ヴァルシュタット侯爵家の長女に視線を向ける。
「アルトリウス公爵令嬢は、陛下が定めた王太子の婚約者だ。僕は君たちに学友として敬意を持って接してきたつもりだけれど……僕の婚約者を尊重してもらえないのなら、認識を改める必要が出てくる。僕の本意は、わかってくれるね?」
遠回しな叱責は、それでも効果覿面だった。申し訳ございません、としょげ返る令嬢たちを、レティシアは微笑ましく思う。
彼女たちの根っこは善良なのだ。ウィリアムに嫌われては本末転倒だとわかるから、叱責されればきちんと反省できる。
アンジェの好意を尊重しているように、レティシアがウィリアムの婚約者に相応しい令嬢なら、彼女たちも不満をぶつけに来たりはしなかっただろう。だからこれは、レティシアの過失だった。
「アルトリウス公爵令嬢」
ウィリアムに促され、レティシアは教室を後にする。ひと気のない渡り廊下まで来たところで、ウィリアムが足を止めた。振り返った彼は申し訳なさそうに言う。
「騒がせてごめん」
困り顔のウィル様も可愛らしいわ、と。ときめきながら、レティシアは微笑んだ。
「ウィル様が負い目を感じるようなことは、何も。微笑ましい会でしたわ」
「メリル嬢は真っ白な顔で僕を呼びに来たわけだけど、レティは本気でそう思っているからな……。君のマイペースっぷりに、メネリック伯爵令嬢もたじろいでいたし」
「メネリック伯爵令嬢といえば、メリルが懸念しておりましたわ。わたくしの立場を揺るがしかねない、と。確かに、素晴らしい人気振りでした」
メリルが心配になるのも頷ける。だが、ウィリアムは厳しい顔で首を横に振った。
「僕は、未来のお嫁さんに僕と似た素質を求めるつもりはないよ」
「はい、心得ておりますわ」
レティシアは、神妙な面持ちでそう言った。
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「これは、どういうことかしら?」
廊下に張り出された秋季試験の順位表を見て、令嬢の一人が唇をわななかせた。その場に居合わせたレティシアは、たおやかに微笑む。
「見たままかと思います」
一年生の首席は、レティシア。
三ヶ国語、地理、歴史、経済学、一般常識、文学――すべての科目が、満点。
「公爵令嬢は、もしかしてとんでもなく頭がいい……?」
ふふ、と微笑んでしまう。レティシアが教師を買収したとか、そっち方面には思考が伸びないのだから、彼女たちはやっぱり善良だ。もちろん、不正なんて働いていないが。
「王太子の婚約者に、飛び抜けた知性は不可欠ですわ」
「え、でも……」
近くには、アンジェもいた。困惑した顔で彼女は口籠る。
過去の成績は、お世辞にも褒められたものじゃない。言葉を濁したアンジェに、レティシアはおっとりと微笑みかけた。
「満点なんて取れて当たり前のものよりも、全科目平均点のほうが、難易度が高いと思いませんか?」
実家へのちょっとした反抗心から、レティシアは試験で特殊な試みをしていた。生徒たちの学力を読み、各問題の配点を予想してわざと平均点を叩き出していたのだ。
黙り込んだアンジェも、周りの令嬢たちも、レティシアの言葉の意味をすぐには理解しかねたよう。しきりに首を傾げている彼女たちの顔に、理解の色が及んだのを見計らって、レティシアはアンジェに告げた。
「メネリック伯爵令嬢と同様に、わたくしも殿下に相応しい婚約者となるべく、幼少の頃より研鑽を積んで参りました。ですので、伯爵令嬢のお気持ちはよくわかりますわ。これからも王国の輝かしい未来のため、学友として高め合っていきましょう?」
養父の妄執から育ったアンジェの淡い期待を打ち砕くため、レティシアはそう言って微笑んだ。