第23話 これでおあいこ
「退学か、破産か、男爵令嬢はどちらをお望みかな?」
扉の隙間から漏れ聞こえてくるウィリアムの声は、平時と変わらない穏やかなもの。だからこそ、残酷さに拍車をかける。レティシアの視界の先で、ルーシーが真っ青な顔で震えていた。
美術室まで駆けつけたレティシアは、少し前から二人のやり取りを傍観している。扉が完全には閉まっていないから、中の会話は筒抜け。ひと気のない廊下で、ひとまず様子を窺ってみたのだけれども。
ルーシーの瞳には涙が滲んでいて、普段の小憎たらしさが嘘のよう。肉食動物を前にした野うさぎみたいな弱々しさだった。今頃彼女は、軽率な行いを悔やんでいるに違いない。後悔先に立たず、なんていうが。
――もう、充分だろう。
大胆に両開きの扉を開け放って、レティシアは美術室に踏み込んだ。ギシギシと蝶番の軋む音が、重たい沈黙で満たされていた室内に響く。
大きく見開かれたルーシーの瞳と、凪いだ水面のようなウィリアムの瞳。それらを交互に見据えてから、レティシアはたおやかに微笑んだ。
「お取り込み中のところ、失礼しますね」
ウィリアムは何も言わなかったが、レティシアの乱入にルーシーは大きく反応した。
「あ、あたしを嘲笑いに、きたんですか……っ」
不遜な態度は相変わらずだけれど、涙目かつしゃくり上げながらでは、生意気さも半減だ。
そんなルーシーは無視して、ウィリアムへと歩み寄る。退学届に手を伸ばすと、彼はあっさり渡してくれた。手の中の紙を、上から下に。勢いよく破って紙屑と化したそれを、ゴミ箱に捨てた。
「何、して……っ」
続いて、呆気に取られた様子のルーシーに近づいたレティシアは、右手を振り上げた。彼女の頬をぺちん、と手のひらで叩く。ぶつというより撫でるに等しいもので、上がった音も可愛らしいものだ。それでもルーシーは唖然とした顔で、ぶたれた頬を手で押さえた。
「これで、おあいこにして差し上げます」
ルーシーの耳元で囁いてから、レティシアはウィリアムを振り返った。
「大変です、殿下! わたくし、級友に暴力を振るってしまいました!」
「は? ……え?」
背後のルーシーはレティシアの意図がよくわかっていないのか、聞こえてきたのは困惑に満ちた声。だが、ウィリアムは違う。深い色を湛えた、青空めいた瞳。静謐な眼差しを了承と受け取り、レティシアはルーシーに向き直った。
「殿下の婚約者であるわたくしが級友に暴力を振るったなんてお話が広まったら、大変です。水に流してくださるのなら、わたくしも同様にこれまでのことは忘れましょう。ルーシー様は、忘れてくださいますか?」
彼女はようやく、これが助け舟だと気づいたらしい。瞠られた瞳に理解の色が浮かぶ。
慌てた様子でガクガクと首を縦に振った彼女は、恐ろしいものを見るような目でウィリアムを窺った。麗しの王太子殿は、渋々といった表情で嘆息する。
「当事者の公爵令嬢がこう言っている以上、僕に口を出す資格はなさそうだね。取り立ては見送るけれど、次はないと思って欲しいな。それから、公爵令嬢に謝罪を」
「……申し訳、ありませんでした。二度と、公爵令嬢に礼を失した態度は、取りません」
しゃくり上げながらの辿々しい謝罪を受けながら、レティシアは一つだけ付け足した。
「カナーバ先生に、事実の訂正をしてくださいますね?」
ルーシーの怪我はレティシアが負わせたものではないと訂正してもらえれば、後が楽だ。頷いたルーシーに、ウィリアムが退出を促す。魂が抜けてしまったかのように、よろよろとした覚束ない足取りで彼女は出て行った。
重い音を立てて扉が閉まる。
二人きりになると、ウィリアムが首を傾げた。
「どこから聞いていたんだい?」
「ウィル様が水掛け論は不要だと遮った辺りから、です」
そう、と相槌を打った彼はクスクスと笑い出す。
「それにしても、見事な棒読みだったな」
「わざとらしいほうが、男爵令嬢に伝わるかと思いまして」
決してレティシアの演技が下手なわけではないと主張しながら、教卓に置かれていた大きな封筒を手に取る。確かめたいことがあったのだ。
ルーシーはウィリアムの言をまったく疑っていなかったみたいだが。レティシアは引っかかることばかりだった。
「債権を知人に買い取らせた、ですか。ウィル様の人徳を持ってしても、そのような益のない話に乗る貴族がいるとは思えません。また、根回しする時間も足りないかと」
男爵家に強い恨みを持っている、などの動機があればまだ理解できるが。回収の見込めない債権を王太子の頼みだからといって買い取るお人好しな貴族が、都合よく見つかるものだろうか。いつかは見つかるかもしれないが、それだけの時間と自由がウィリアムにあったとは思えない。
封を開け、中に入っていた紙を取り出す。レティシアの予想通り、紙は真っ白で何も書かれていなかった。




