第2話 レティとウィル
来週末から始まる試験に向けて、休日の朝から図書館の自習室を利用する生徒は多かった。寮の自室のほうが集中できると思うレティシアにとって、複数人で集まって試験勉強に励む心理というのは永遠の謎だ。
メリルに半ば強引に連れて来られ、級友とテーブルを囲んではいるけれど。自習室での会話は特に禁止されていないので、それなりに騒がしい。
当てはめる公式が違う。こっちの訳が正しい。わかりやすい参考書はこれ。
ひりついた会話と熱気に参ってしまったレティシアは、一時間と保たずに図書館から抜け出して、中庭のベンチに避難した。レティシアは大勢で何かをするというのが、酷く苦手なのだ。克服しなくてはいけないとわかってはいても、簡単にはいかない。
空は気持ちいいくらいに晴れていて、高く登った太陽が芝生をまぶしく彩っている。澄んだ空気は肺に心地よい。
レティシアは、念のために自室から持ってきていたロマンス小説を紐解く。このまま時間を潰して、頃合いを見計らって戻るつもりだった。
ハラハラした展開に胸を躍らせていられたのは、最初だけ。ページを手繰る手はすぐに緩慢なものになった。
ぽかぽかとした陽射しが気持ち良過ぎて、眠気に抗えなくなってきたのだ。遠くで響く喧騒は、眠気覚ましにもならない。まぶたがどんどん重たくなり、うとうとしていると。
「こんなところで寝たらダメだよ、レティ」
笑いを含んだ、甘い声。
眠気はたちまち吹き飛んだ。顔を上げれば、美貌の少年が目の前で微笑んでいる。レティシアは、弾かれたように立ち上がった。
「ウィル様っ」
瞳を輝かせ、子供の頃からの癖で自らの婚約者――ウィリアムに抱きつこうとして。はたと我に返ったレティシアは、慌てて踏み出した右足を芝に縫い止めた。誰が見ているかわからないのだから、行儀の悪い行為は控えないと。
両手を広げて受け入れ態勢だったウィリアムが、あれ、と瞳を瞬かせる。
「いつもの挨拶はしてくれないんだ?」
「もう子供じゃありませんから」
澄まし顔で言いながら、ベンチに座り直す。
「おかしいな。冬季休暇で帰省した僕をレティが嬉しそうに歓迎してくれてから、一年も経っていないはずなんだけど」
「淑女の十三歳と十四歳の差は、とても大きいのですよ?」
「相変わらず、レティは脊髄反射で物を言うよね」
レティシアが深く考えて発言していないことなんて、ウィリアムはお見通しだ。隣に座った彼は、レティシアの膝に置かれた本に目を落とした。
「何を読んでいたんだい?」
「これです」
表紙を見て、ウィリアムが意外そうに目を瞠った。
「レティがロマンス小説……?」
「友人が薦めてくれたのです。ルクシーレの薔薇とも讃えられるわたくしですから、市井の恋愛事情を把握しておくのも大事な責務かと」
「またいい加減なことを言う……」
眉根を寄せるウィリアムを見て、ちょっとした悪戯心が湧いてきた。
「ちなみにですね、主人公の令嬢が婚約者に一方的に婚約破棄を宣告される。そんな物語が、今の流行りだとか。とても人気があるそうですよ?」
「その本も?」
「いいえ? この小説は恋愛色が薄く、ファンタジー色の強い物語です。婚約破棄などという単語は一切出てきません」
「不吉な流行りに言及する必要は、どこにもなかったと思うんだ」
ウィリアムの渋い表情に、レティシアはクスクスと笑ってしまう。
それからも、二人の会話は途切れることなく続いた。同じ校舎で授業を受けていても、学年が違えば関わりはないに等しい。生徒会長としても多忙なウィリアムがレティシアに割ける時間は、限られている。学園外で休日を共に過ごすことはあっても、敷地内でここまで長く話をするのは初めてのことだった。
友人に引きずられるようにして部屋から連れ出されたことや、図書館での試験勉強について話し終えたところで、ウィリアムが微笑ましそうに頬を緩めた。
「レティが楽しそうで、何よりだよ」
「実家に比べれば、どこでも楽しめますわ」
「それは……」
何かを言いかけたウィリアムは、ふわぁ、と欠伸をした。ごめん、と口許を引き締める仕草に、レティシアは眉を曇らせる。
「ウィル様、寝不足ですか?」
「……夜更かしすることが、増えたから」
「ウィル様の人気は今に始まったことではありませんが、試験前のこの時期は特に騒がしく感じます。無理をなさらず、偶にくらいお一人の時間を作られてはいかがですか?」
人の好いウィリアムは誘いを断るということをしないから、その点だけは心配だ。
「あぁ、違うよ。時間が足りないわけじゃなくて、試験勉強に励んでいたら自分でも気づかないうちに夜更かしになってしまって」
「ウィル様でしたら、そこまで根を詰める必要はないのではありませんか? 試験の範囲は、家庭教師に教わった範疇のものでしょう?」
王太子であるウィリアムは、幼い頃から徹底した英才教育を施されている。最高峰の学問を提供する学び舎であっても、彼にとってはかつて習った知識の復習が大半のはずだった。
訝しむレティシアに、ウィリアムは照れ笑いを浮かべた。
「そうなんだけどね。ルクシーレの薔薇とも言われる君が婚約者なのに、情けない成績は残せないから」
ウィリアムの周りに人が集まるのは、こういう所だ。王太子という身分に胡座をかいたりせず、立派な人間でいるための努力を怠らない。加えて性格も穏やかで貴賎の別なく親切なのだから、彼と親しくなりたい生徒が多いのは自然なことだった。
レティシアは、慕われているウィリアムを見ると嬉しくなる。彼の頑張りが認められている証だし、自分の好きな人をたくさんの人が好きになってくれるのは、とても嬉しい。
ウィリアムの言葉は嬉しかったが、それと無理を黙認するかは別の話。少し考えてから、レティシアは首を傾げた。
「それでは、今からお昼寝するのはどうでしょう?」
「今から?」
「ここに、ちょうどいい枕がありますよ?」
レティシアがぽんぽん、と膝を叩くと、柔和な面差しがほんのりと赤くなる。
「それは、ちょっと……」
恥ずかしいし、と口籠るウィリアムの困り顔は格別だ。とろけそうになる表情を堪え、でしたら自室で休んでくださいな、と真面目な顔で進言するのは、なかなか難しかった。