第12話 僕に付き合って
黄金色の水面を呆然と見つめていたレティシアは、強い脱力感に見舞われ、しばらくその場にしゃがみ込んでいた。
これでおあいことルーシーは言っていたから、今後、レティシアに対する嫌がらせを控える気はあるのだろう。和解は成功したといえる。
だが――。
軽率な行動の代償としてウィリアムからの贈り物を失ってしまうだなんて。情けないやら悲しいやらで、目の奥が熱くなってくる。泣いてしまわないように深く息を吐き出して、レティシアは立ち上がった。
いつまでも、池の前で固まっているわけにもいかない。髪飾りを失くしてしまったことをウィリアムに謝罪すべく、レティシアは生徒会室に向かった。
とぼとぼと廊下を進み、生徒会室の前までやってきたレティシアは、チョコレート色の扉を見上げて、あっ、と気づいた。
(ウィル様のことだもの。この後も、どなたかと過ごす約束をされていらっしゃるかもしれません……)
先ほど下校を促す十七時の鐘が鳴ったから、生徒会の誰かが出てきてもおかしくない頃合。
ウィリアムが部屋から出てくるのを待つつもりでいたのだが、彼に気を遣わせてしまうことになるかも。
扉の向こうからは、少年少女の和やかな笑い声が聞こえてくる。ますます気が引けてしまって、レティシアは柱の陰に身を隠した。
よくよく考えてみれば、髪だって下ろしっぱなしで見苦しい。寮に戻って侍女に整えてもらえばよかった。でもそれだと、ウィリアムと入れ違いになってしまうだろうか。
ぐるぐると考え込んでいたレティシアは、嘆息した。
こんなことで悩んでいるなんて、らしくない。どうにも後ろ向きな考えばかりが浮かんでしまって、このままウィリアムと顔を合わせても面倒な婚約者の顔しか見せられない気がした。
彼の前ではいつだって、可愛らしい婚約者でいたい。
「……やっぱり、今度にしましょう」
日を改めようと身を翻したところで、生徒会室の扉が開いた。
「帰ったら速攻ポラリス持ってウィル様の部屋に突撃するんで。約束通り、俺が勝つまでちゃーんと相手してくださいね。アレク先輩みたく、手抜いたら罰ゲームですから」
「ハルトのわかりやすい手では、今日中にウィル様に勝つなんて不可能だわ。徹夜したって無理。最早新手の嫌がらせよ」
部屋から出てきたのは、ウィリアムとアレクシス。一年生書記のハルト・ブライアと二年生会計のシルヴィア・エヴァンス。生徒会役員はあと二人いるはずだが、今日は不在みたいだ。
栗色の髪を揺らして、子犬みたいに纏わりつくハルトに、ウィリアムが微笑ましそうに応対している。二人はこの後、盤上遊戯の約束があるらしい。
顔を合わせる前に気づけてよかったわ、とレティシアは胸を撫で下ろす。
あとはこのまま、四人がレティシアの存在に気づくことなく去って行くのを待つだけ。幸い、レティシアが身を潜めている柱は階段と逆方向。彼らがこちらに向かって歩いてくることはない。
――そう思っていたのに。
「やっぱり、レティだ」
ふっ、と落ちた影。朗らかな声は、聞き間違えるはずのないもの。
予想に反して、ウィリアムが悪戯っぽくこちらを覗き込んでいた。ハルトの無邪気な声に気を取られて、足音に気づけなかったみたいだ。
どうしてわかったのだろう。びっくりして咄嗟に言葉が出てこないレティシアに、ウィリアムが優しく微笑み掛けてくれる。
「この時間まで校舎に残ってるなんて珍しいね。もしかして、僕に会いに来てくれた?」
「ええと……」
「ウィル様? なんで階段と逆方向に……。あれ? アルトリウス公爵令嬢?」
不審な面持ちで近づいてきた、小柄な男子生徒と目が合う。ハルトは不思議そうに目を瞬かせた。
「珍しいですね。ウィル様が婚約者と並んでんの、初めて見るかも」
「まぁ。本当だわ。アルトリウス公爵令嬢、生徒会に何かご用が?」
物珍しそうな視線が突き刺さって、居た堪れなくなる。これはどう考えたって、ウィリアムに迷惑をかけている。
事態の収拾を図るべく、レティシアはにっこりと微笑んだ。
「用というほどのものではありませんわ。偶然生徒会室の前を通り掛かったものですから、せっかくですし殿下の麗しいご尊顔を拝しておこうかしらと。ほんの気まぐれです。用はもう済みましたので、わたくしはこれで失礼いたします」
優雅に一礼して立ち去ろうとしたレティシアの腕を、ウィリアムが掴んだ。
「待って」
「え?」
呼び止められたレティシアは、目を白黒させる。ちょっと待っててねと囁いてから、ウィリアムがハルトたちを振り返った。
「ごめん、忘れてた。今日はこの後、彼女と約束があったんだ。随分前のことだったから、頭から抜け落ちてた。ごめんね」
ウィリアムと約束なんて、していない。
「ええ〜? 俺との約束、すっぽかすつもりですか?」
「くだらねーこと言って、ウィルを困らせるなよな。うっかりくらい、ウィルにだってあるっての」
不貞腐れたハルトを、アレクシスが窘める。
「偶にくらい、ウィルが婚約者を優先したっていいだろ? 許してやれって」
「ごめんね、ハルト」
不服そうなハルトの首根っこを掴んで、アレクシスがズルズルと引き摺っていく。礼儀正しく会釈したシルヴィアも去って行くと、残されたのはレティシアとウィリアムの二人だけ。
打って変わって静まり返った廊下で、レティシアは慌てて言う。規則のこともあるし、早くウィリアムを解放しなくては。
「あの、すぐに済みますから。わたくし、ウィル様に――」
謝らないといけないことがあるのです。
そう続ける前に、ウィリアムがレティシアの髪を一房すくい取った。
「髪、珍しいね。レティが生徒会室まで来て僕を待ってるのも――というか、僕に会いに来てくれること自体が初めてだから、珍しいこと続きだね」
確信めいた笑みを浮かべて、ウィリアムは首を傾げた。
「本当は、どうしたの?」
「……今日は、ウィル様にいただいた髪飾りを付けていたのです」
「うん」
「でも、わたくしの不注意で……失くしてしまって。ウィル様にそのことをお詫びしようと……」
納得したように、ウィリアムが相槌を打つ。
「学内で失くしたなら、見つけた誰かが落とし物として届けてくれるかも?」
「……そうです、ね」
池に沈んだ髪飾りが、落とし物の棚に並ぶ日が来るとは思えない。
レティシアの曖昧な表情に、思うところがあったのだろうか。ウィリアムが苦笑いした。
「物を失くすくらい、誰だってやるよ。そんなに気にしなくても……気に入っていたなら、今度、同じ物を買いに行こうか?」
やっぱり日を改めるべきだったわ、と。レティシアは後悔した。
ウィリアムがこんなにも気を遣ってくれているのに。彼の優しい言葉の何もかもが、悲しく響いて気分が滅入るなんて。
ウィリアムに何て言って欲しかったのか。失くしてしまったことを、ちょっとくらい残念がって欲しかったのだろうか。わからないまま、レティシアはやんわりと微笑んだ。
「ありがとうございます。次のお出掛けを、楽しみにしておりますね」
じっと見下ろしてくる青空色の瞳に、怪訝な色が滲んだ。
「……どの辺りで失くしたかとか、だいたいの見当がついたりする?」
「ええ、と」
いきなりの、核心に迫る質問。
面食らったレティシアが口籠ると、ウィリアムがクスクスと笑みをこぼした。
「そんな顔をしたら、失くした場所に心当たりがありますって言っているようなものだよ?」
「……以降、気をつけます」
「気をつけなくていいよ、僕の前ではね。昔、約束したでしょ?」
幼い頃、父からお前は考えていることがすぐ顔に出ると、叱責された。感情が表情に出ないよう、細心の注意を払って過ごそうと心に決めたレティシアに、ウィリアムが初めてわがままを口にした。僕の前ではそのままのレティがいい、と。
にっこり微笑むウィリアムの眩しさは、あの頃と変わらない。
「髪飾り、どこで失くしたの?」
「……裏庭の池の中、です。不注意で落としてしまいました……」
肩を落とすレティシアをしばらく見つめていたウィリアムが、窓の外へと視線を向けた。
「池か……」
呟いた彼が、レティシアの手を取る。
「ウィル様?」
「この後、レティに予定は?」
「わたくしは、特にありません。ウィル様こそ、ハルト様とのご予定が――」
「それなら、もう少しだけ僕に付き合ってよ」
年相応の笑みを浮かべて、ウィリアムはレティシアの手を引いた。




