第11話 和解しませんか?
校舎の裏庭には花畑と植え込みが広がっていて、中心には大きな池がある。大理石の橋で飾られた人工の池は、夕日で金色に染まって見えた。夏場は涼を取る生徒の姿がちらほらあったのだが、秋も間近な今の時分は、不人気らしい。
裏庭は、レティシアとルーシーの貸切状態だった。
「足の具合は、いかがですか?」
「…………」
ルーシーと向かい合ったレティシアが口火を切ると、返ってきたのは沈黙だった。意志の強そうな瞳が、レティシアの動向を窺っている。まるで、こちらの心を読もうとでもするかのように。
ルーシーの背丈は、小柄な部類に入るレティシアとさほど変わらない。そんなだから、天敵を警戒する小動物みたいで微笑ましく映った。もちろん、態度には出さないけれど。
「登校する前、ルーシー様にわたくしがわざと怪我をさせた――校内はそんな話題で持ちきりなのではないかと懸念していたのですが、そこまでは吹聴なさらなかったのですね」
「あたしだって、そこまで馬鹿じゃありません。引き際くらいは心得ています。殿下が先生に猛抗議したって話は聞きましたし。蒸し返したりしてレティシア様の名誉を損ねたら、殿下に睨まれる可能性だってあります」
そこに気づける賢さはあるのに、どうして執拗にレティシアに喧嘩を売るのか。不思議な話だ。
「レティシア様こそ、どうして騒ぎ立てないんです? あたしが嘘を吐いて生徒指導室に連行された〜って言えばよくないですか?」
「そうしたほうが、よかったでしょうか?」
「されたら不味いですけど、あなたはしなそう。それはわかるんですけど、なんでしないのかがわからないんですよね」
なるほど。レティシアが騒がないとわかっているから、ルーシーは堂々と嫌がらせしてくるのか。
「一つ、確認しても? ルーシー様のお怪我は、あの場にいた三人の誰かが負わせたのですか? それとも、ご自分で?」
「アニーたちが嫌いなのはあなたですよ。あたしのことは馬鹿にしてはいますけど、眼中にありません。偉そうにお説教してきたレティシア様に嫌がらせできるって話をあたしから持ち掛けて、協力して貰っただけです」
そんなことだろうとは思っていたが。
レティシアのせいで本当にルーシーが目を付けられているのだとしたら、寝覚めが悪かったので安堵する。
レティシアが胸を撫で下ろすと、ルーシーは不服そうに小鼻に皺を寄せた。
「あたしにだけ答えさせて、自分は答えないつもりですか? どうしてあたしを非難しないんです?」
レティシアはただ、苦笑いする。
「もったいないと、思いましたので」
「はぁ?」
「ルーシー様は特待生でしょう? 学費の全額免除は、常に成績上位者十名に名を連ねることが条件。ですが、素行に問題ありと判断されれば、適応外となる場合もあります。わたくしとの諍いで、特待生の立場を失ってしまったら……もったいないお話です」
アンジェもそうだったが、この学園で成績を維持するには、相応の努力が伴う。そんなルーシーがレティシアとの確執をきっかけとして、努力で勝ち取ったものを失ってしまうのはどうかと思ったのだ。
変わった味の紅茶も、濡れ衣を着せられたことも。レティシアにとっては、まだ目を瞑れる範疇だ。だから、ここでルーシーには手を引いて欲しい。
レティシアなりに一生懸命思っていたことを言葉にしたのだが、ルーシーの機嫌が上向くことはない。彼女はますます不愉快そうになった。
「あたし、あなたのそういうところが嫌いなんですよね。身分は公爵令嬢で、人気者の王太子が婚約者で、王国一の美少女。人生の勝ち組らしく、他人に上から目線で。あたしの実家、一応は男爵家ですけど、借金凄くて。あたしが出世しないと、父と弟が路頭に迷うのが確定しているくらい酷い有様。だからこっちは必死に成績上位を保ってるのに、あんたは試験で遊ぶ余裕まであるって、どんな嫌味? 生まれた時から恵まれてる人間って得よね。何の苦労も知らないなんて不公平にも程があるから、困ればいいと思ったのに。アニーたちの言う通り、育ちが違うのね。困るどころか、あたしに上から目線でお説教する余裕があるんだもの」
「……」
どんどん荒くなっていく言葉。剥き出しの本音に、レティシアは目を伏せる。
人気者の王太子の婚約者として、如才なく振る舞い、人と付き合っていくのがレティシアの目標だ。だが、十人中十人と仲良くできるだなんて、端から思っていない。自身の性格に難があるのも自覚しているから、寧ろ、合わない人間のほうが多いだろう。
ルーシーとの相性が悪いのも、こればかりは仕方がないと思う。
ルーシーの怒りが鎮まるまで待ちたかったが、時間が解決してくれるまで静観するわけにはいかなくなった。これ以上、ウィリアムに心配を掛けるわけにはいかないのだ。彼はレティシアが健やかな学園生活を送ることを望んでいる。
怒りに燃えた黒曜石の瞳を、真っ直ぐに見据えて告げる。
「わたくしは、決して試験で手を抜いたわけでも、遊んだわけでもありません。ただ、わたくしがルーシー様の気分を害してしまったことは事実です。その件については、お詫び申し上げます」
深々と頭を下げて、顔を上げたレティシアは、双眸に鋭さを加えた。
「わたくしは、公爵家の娘です。己より立場の弱い者には、寛容であるべき。ルーシー様との確執はわたくしに非がありましたので、大事にするのは望みませんでした。ですが、今後もこのような仕打ちが続くのであれば、わたくしも考えを改めざるを得なくなります」
「公爵家の権力を使って、あたしを破滅させますか?」
「いいえ? 父はわたくしに興味がありませんから、実家の助力は望めません。ただ、公爵家の力などなくとも、ルーシー様にわかっていただくことは可能です。これが最後通牒です。わたくしへの接し方を改めてください」
次期王妃として、政敵の蹴落とし方は嫌というほど教わってきた。ルーシーの心を折ることは、レティシアにとって容易い。実家が困窮しているという、明確な弱みがあるなら尚更だ。
「……あたしも、潮時だろうなとは感じていました。わかりました、和解しましょ?」
嘆息混じりのルーシーの返答に、レティシアは胸を撫で下ろす。だが、
「ただし、条件を出させてください」
「条件?」
「あたしへのお詫びの気持ちが本心だと、証明して欲しいんです。三秒でいいので、目を瞑って無防備な姿を晒してくれません?」
よくわからない条件に、レティシアは戸惑う。
「三秒……」
意図は読めなかったが、取り敢えず、レティシアは瞼を閉じる。
芝を踏み締める音が鼓膜を柔らかく撫でて、ぱちんっ、と音がした。それから、するりと髪が肩を流れていく感覚。あっ、と気づいた。ルーシーの意図を悟ったレティシアが目を開けたのと、それは、ほぼ同時。
「だめ……っ!」
レティシアの悲鳴も空しく――ぽちゃんっと。水音を立てて、池の中に髪飾りは沈んでいった。波紋の広がる水面を、レティシアは呆然と見つめる。
髪飾りを投げ捨てたルーシーが、満足そうに笑った。
「これで、おあいこにしましょ? 公爵家のご令嬢なんですから、アクセサリーなんて腐るほど持っているでしょうし、大した問題じゃないですよね?」
そのまま素知らぬ顔で立ち去って行くルーシーのことはもう、頭にはなかった。慌てて池に近寄ったレティシアは、その場から動けなくなる。
記憶力のいいレティシアだから、バレッタが沈んだ位置は、映像として頭に残っている。人工の池だから、さほど深くもないはず。だが、そのことと実際に池の中に入って取りに行けるかは、別問題だった。
ただでさえ、教師から目を付けられているのに。池に飛び込むなんて行為も、泥だらけの制服で寮に帰るのも、自殺行為だ。
「誰か、人を――」
呼んできて、なんて言えばいいのだろう。
髪飾りを池に落としてしまったから、拾ってくれませんか?
公爵家の令嬢なのに、そんな品のない行為を頼むなんて。自らの首を絞めるのは、想像に難くない。
ウィリアムから貰った、大切な髪飾りなのに。
外聞を気にして身動きが取れない自分が情けなくて、レティシアは途方に暮れてしまった。




