第5話 怪しい雲行き
唖然としていたレティシアは、ルーシーの痛っ、という声で我に返った。未だに立ち上がれないでいる彼女の元へ、慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですかっ? どこかお怪我を?」
黒曜石の瞳を覗き込むと、ルーシーはバツが悪そうに俯いた。
「……ちょっと、足首を捻っただけです。というか、本当に来たんですね。昨日の今日なのに」
差し伸べたレティシアの手を取ることなく、右足を引きずりながらも立ち上がったルーシーがぼそりと言う。
ピンと来て、レティシアはポケットにしまっておいた紙片を取り出した。
「このお手紙は、あなたが?」
「……」
ルーシーは肯定しなかったが、否定もしなかった。先ほどの言動から、ルーシーが差出人で間違いないだろう。
「なぜわたくしに? ハーネット男爵令嬢は、わたくしにあまりいい感情を持っていないと思っておりましたわ」
「妙な味の紅茶を飲まされたからですか? あの時、どうして指摘しなかったんです?」
「騒ぐほどのことでもありませんでしたから」
レティシアの答えに、ルーシーは嘆息する。そして、
「あたしだって、あなたに頼りたくなんてありませんでした。でも、アニーたちが……」
ルーシーが口にしたのは、うずくまる彼女に目もくれず、駆け去っていった令嬢の一人の名だった。
「彼女たちと、何か揉めていらしたようですが……」
「あなたを怒らせてしまったことで、あたしを逆恨みしているんです。あの子たち、アルトリウス公爵家に何かされるんじゃないかって気が気じゃないんですよ。だからあたしに怒っていて……でも、そんなことあたしに言われたってどうにもならないでしょう? だから、公爵令嬢に仲裁してもらおうと思って」
ルーシーの話に耳を傾けていたレティシアは、ふと首を傾げた。
「ルーシー様は、昨日、すぐ寮にお帰りになりましたか?」
唐突な質問に怪訝な顔をしながらも、ルーシーは頷いた。
「寮に帰ってからは、何を?」
「部屋にずっと居ましたけど」
「まぁ。わたくし、夕食前にルーシー様のお部屋を訪ねたのですが……不在というわけではなかったのですね」
じっと反応を窺うと、ルーシーの瞳がわずかに揺れた。彼女の狼狽をレティシアは見逃さなかった。
視線を逸らしたルーシーが、そっぽを向いて言う。
「その時間なら、寝ていたので。気づかなかったのかも」
「……そうですか。彼女たちとは、いつから揉めていらっしゃるのでしょう?」
「言いがかりを付けられたのは、今朝ですけど」
今朝あの三人と揉めて、レティシアが登校する前にロッカーに手紙を入れた。そんな時系列、成り立つのだろうか。
ルーシーの言動に疑念を抱きながらも、嘘と断定できる根拠もなかったので、レティシアは苦笑を浮かべた。
「それは、災難でしたわね。わたくしの不用意な言動でルーシー様にご迷惑をお掛けしたこと、お詫び申し上げますわ。彼女たちにはきちんと言い聞かせます。許していただけますか?」
「……これ以上、アニーたちがあたしに突っかかってこないのでしたら。二度も突き落とされては堪りませんから」
そっけなく言って、ルーシーが歩き出す。階段を下りようとしたその体躯がふらりと傾いたので、レティシアは咄嗟に身体を支えようと手を伸ばした。ぱしん、と。乾いた音を立てて、伸ばした手は振り払われる。
ルーシーの瞳には、強い苛立ちの炎が燃えていた。
あぁ、と。この段になってレティシアはようやく自覚する。目の前の少女が、心の底から自分を嫌っているということを。
「一人で大丈夫ですから」
「……差し出がましいことをして、ごめんなさい」
レティシアの謝罪に応えることなく、ルーシーは無言で階段を下りて言った。
「……よく、わかりませんわね」
静寂に満ちた踊り場で、レティシアは嘆息する。
想像以上に、ルーシーはレティシアを嫌っている。それなのに、レティシアに助けを求める手紙を書いた。当事者とはいえ、嫌いな人間に仲裁を頼むだろうか。
メリルに忠告された時は大した問題じゃないと楽観視していたが。どうにも雲行きが怪しそうだった。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
「アルトリウス。すぐに生徒指導室まで来なさい」
放課後、アニーたちに会いに行こうと教室を出たレティシアは、廊下で呼び止められた。男性教諭の険しい顔を、戸惑いと共に見上げる。
「生徒指導室、ですか?」
「カナーバ先生が君を待っている。早く行くんだ」
担任はそれだけ告げて、さっさと行ってしまう。
「ちょっと、レティ? 生徒指導室に呼び出しって、何をしでかしたのよっ?」
駆け寄ってきたメリルに答えられることなど、何もない。レティシアだってわけがわからないのだ。
呼び出される理由はさっぱりだが、脳裏に浮かぶ顔はあった。ルーシーだ。彼女は午後の授業に出席しなかった。保健室で治療を受けてそのまま早退したと、担任教師は言っていたが。
「……やっぱり、何事も疑って掛かるのが吉のようだわ」
面倒なことになりそうで、レティシアはまたも嘆息した。




