第1話 婚約者様は本日も大人気です
「レティの婚約者様は、今日も大人気ね」
食堂を後にし、教室に戻る道すがら。廊下で足を止めた友人が、不機嫌たっぷりな声音でそう言った。
レティシア・アルトリウスは睨むような彼女の視線を追って、窓の外を覗く。
九の月も半ばに差し掛かり、蒸し暑かった日々が嘘のように過ごしやすい気候が続いていた。うろこ雲が広がった空は爽やかで、秋の気配を感じさせる。
視線を下げて中庭を見る。ベンチや芝生に座ってお弁当を広げる生徒は多い。その中で友人が見咎めた光景は、一目瞭然だった。噴水の周りに設けられたベンチの一つに、生徒が群がっているのだ。育ちの良さそうな令嬢や令息に囲まれて、五月蝿そうに顔を顰める男子生徒――を、まぁまぁと宥めているのが、公爵家の一人娘であるレティシアの婚約者だ。
遠目からでもすぐにわかる、輝かんばかりの美貌。麦の穂のような淡い金の髪。穏やかな青空色の瞳。模範的に着こなした制服に包まれた体躯は、十七歳の男性としては華奢な部類。レティシアが四歳の時に初めましてのご挨拶をした三つ年上の王太子――ウィリアム・ルクシーレは、今日も麗しい。
教本を手にした令息が、一生懸命ウィリアムに話しかけている。秋季試験が近いから、入学してから現在に至るまで、常に学年首席を維持しているウィリアムに教えを請うているのだろう。そんな生徒で溢れかえっているから、ウィリアムの友人は迷惑そうな顔を隠せていなかった。
当のウィリアムは友人を宥めながら、穏やかな笑みを湛えて目の前の男子生徒に応対していた。
「未来の旦那様が人気者で、嬉しい限りですわ」
頬を緩めるレティシアを見て、友人であるクーパー男爵家の三女メリルは、呆れ顔になる。
「あなたってば、どうしてそう、のんびり屋さんなの? レティが王国の薔薇と讃えられるほどの美少女なのは事実だけれど。わかっているでしょう?」
腰まで届く艶やかな銀髪。長いまつ毛に縁取られた紫苑の双眸。ミルクのような肌。整った目鼻立ち。亡き母の美貌を受け継いだレティシアは、幼い頃から王国で一番可憐な花だと持て囃されてきた。
しかし、この国の王妃に最も必要なのは美しさじゃない。だからメリルは心配してくれていて、こうやって眉をひそめるのだ。レティシアの婚約者としての立場が盤石なものではないという、懸念から。
友人の心配に、レティシアは神妙な面持ちで頷いた。
「もちろん、わかっているわ」
「わかってないでしょ?」
琥珀の猫目が、疑わしげに細まる。
普段からマイペースなせいか、それとも別の要因か。レティシアの態度は誤解されやすい。真剣な相槌は、メリルには薄っぺらく響いたよう。彼女はますます剣呑な顔になった。
「メリルったら、そんな風に眉間に皺を寄せてはだめよ? せっかくの美人さんが台無しになってしまうわ」
つん、と額をつついたら、ぺしりと叩かれてしまう。
「馬鹿を言っていないで、よく見て。ほら、あの赤髪のご令嬢」
もう一度、外の景色をよく見てみる。群がる令嬢の中で、赤い髪の女子生徒は一人だけ。胸元で揺れる黄色のリボンは、レティシアと同じ一年生である証。よくよく見てみれば、愛らしい面立ちには見覚えがあった。
「あの方は、確か――」
「彼女が、噂の聖女様――アンジェ・メネリック伯爵令嬢よ」
ルクシーレ王国では、聖女と呼ばれる神秘の娘が生まれる。癒しの力で病や怪我を治癒する、神に愛されし娘。それが聖女だ。
アンジェの癒しの力は、桁外れに強いものらしい。他の聖女なら数日かかる怪我の治療を、彼女は一日足らずで治してしまうのだとか。もちろん、そんなアンジェでも命に関わる病や怪我の治癒は不可能らしいが。
孤児院育ちのアンジェは類稀なる癒しの力を買われ、十二歳の時にメネリック伯爵が養女として迎え入れたのだ。
「本来なら、聖女様は教会で治療に勤しむもの。だというのに、伯爵はアンジェ様を養女として迎え入れた挙句、この学園に入学させた。のんびり屋さんのレティにだって、伯爵の思惑は読めるでしょう?」
貴族の娘となった以上、それらしい教養を身につけるべき。それがメネリック伯爵の言い分だが、表向きの名目であることは明白。アンジェが王室の目に留まることを、伯爵は期待しているのだ。
ルクシーレの国教であるヴィレン教は、その名の由来通りに、ヴィレン神を祀っている。国の守り神であるヴィレン神は、愛情深く、愛妻家と伝えられる神様だ。ヴィレン神に習って、王族が迎える妻は一人だけ。側室は認められておらず、また、国王に何かあった際は王妃が代わりに政を担う。それが長年の習わし。聖女という奇跡が生まれるのは、この伝統を守り続けてきたからだと、ルクシーレの民はみな信じている。
ルクシーレにおける国妃の権限は、とても強い。娘を王妃にしたいのなら、教養は必須だ。語学、歴史、経済学、一般常識。両手の指では足りない数の家庭教師を雇い、娘を磨き上げる貴族は多い。
レティシアが通う王立学園は、王国一の名門校。入学した年によって年齢問わずの五期年に分けられる学園には、十四歳から二十歳までの貴族の子息令嬢と、難関とされる入学試験を突破した平民が在籍している。
「神様からの贈り物は、癒しの力だけじゃなかったのね。彼女、入学したばかりの春季試験では学年で下から数えたほうが早いくらいの順位だったらしいのに、前回の夏期試験では上位五十人に入っていたわ。最終学年になる頃には、どこまで伸ばすことやら。好成績が続くと、アンジェ様を推す派閥が出てきたりもするんじゃないかしら」
「贈り物だなんて、よくないわ」
メリルの言い分にじっと耳を傾けていたレティシアは、そっと訂正した。
「え?」
「メネリック伯爵令嬢は、もの凄く努力なさったのだと思うわ。この学園でそれだけの好成績を残すのは、地頭の良さだけでは難しいもの」
孤児院育ちなら、アンジェは読み書きすらも怪しかったに違いない。学年は同じだが、アンジェはレティシアより一つ年上だ。たったの三年で授業についていけるだけの知識を身に付け、王国一の名門校で上位に食い込む優秀な成績を収めている。彼女はきっと、物凄く努力しているはず。神様に愛されているからと片付けるのは、失礼だ。
「レティのそういうところ、好きよ。普段は何を考えているのか、まったくわからないけど。あなたの言う通り、きっとアンジェ様は努力家なのでしょうね。だから心配なの。公爵家の血筋と飛び抜けた美貌はあっても、レティの成績は――」
「いつも平均点?」
春と夏の試験、毎週の小テスト。レティシアはいつだって全科目が平均点より一、二点上か下で、優秀な成績とは程遠いのだ。
レティシアを案じるが故に、メリルの物言いはついキツくなってしまうのだろう。我が事のように心配してくれる彼女の心遣いは、嬉しかった。安心してもらいたくて、レティシアは微笑む。
「心配しないで、メリル。わたくし、殿下との仲は、それなりになりですから」
「……いい加減な造語を作るんじゃないわよ。レティに危機感がまったくないことがよくわかったわ。婚約者を奪われて泣き寝入りする日が来ても、私は慰めてあげないから」
呆れたように、メリルは歩き出してしまった。
「あら、まぁ……」
レティシアは、大真面目なのだけれど。
いつもふわふわと微笑んでいるレティシアのことを、何を考えているのかよくわからない、と評する生徒は多い。近寄り難いと思われている節すらあり、親しい友人はメリルだけ。人気者の婚約者とは正反対。
メリルの背中を追いかける前に、最後にもう一目だけ、と中庭に視線を向ける。すると、指通りの良さそうな金髪を揺らして、ウィリアムが校舎をふり仰いだ。窓越しに、ぱちりと目が合う。レティシアがにっこりと微笑めば、ウィリアムも口許を緩めてくれた。
遠目からでもはっきりとわかる微笑は、学友たちに向けるものとは違う。親しみと気安さに満ちた微笑み。
この瞬間だけで満足できるから、学園では気安く彼に近寄れないことも、多くの女子生徒が熱い眼差しを彼に注いでいることも、レティシアにとっては瑣末な問題だった。