第88話 太陽と彗星
3年生の受験ムードは張りつめたものなっていた。
私も気を緩めない。電車の中では英単語を心の中で読み上げ、家に帰ったら過去問を繰り返し解き続けた。模試の結果的に問題はないが油断はできない。
衣替えとなって制服は冬服になり、また寒い冬がやってくる。春夏秋冬を今年も繰り返し、来年もまた季節の変わりを感じながら生きてゆく。
文化祭の準備は深く関わらなかった。受験生は少しだけ手伝い、時間のある者が中心となって3年生は準備をした。今年もファッションショーがあるらしく、去年と同様に誘われたが私は断った。私を見てほしい人がいないもの。
本番当日、私はゆっくり校内を回って催し物を覗き、高校生活最後の大イベントを見て回った。
去年の文化祭は彗と回っていた。覚えてはいないけれど傍に誰かがいたことは覚えている。
「アリナちゃん」
聞き覚えるのある声に振り返る。
一般人が行き交う廊下の中に先生がいた。
「赤草先生――」
私服姿の赤草先生だった。
私を見つけて嬉しそうだったが、笑顔は次第に曇っていった。
「どうしたの、アリナちゃん。彗くんは一緒じゃないの? 去年は一緒に回っていたんでしょう?」
「先生、彗が、彗が――」
私は泣いてしまった。我慢してきた涙が決壊して止めることができなかった。ただひたすら声を押し殺し、先生の胸の中で涙を流した。
中庭のベンチに座り、店や人の流れを眺める。
先生は私が落ち着くのを静かに待った。私は目をこすって細く息を吐き、事情を説明し始めた。
「彗は今、病院で眠っています。植物状態になっていて意識が戻りません」
「どうしてそんなことに……」
「高血圧で心肺が停止したそうです。再び動いて命は繋がったのですが酸素が十分に届けられなかったことで脳にダメージを負ってしまって、それが原因で今も眠っています。夏休み中のことです」
「低酸素脳症からの遷延性意識障害ということね。でもあの彗くんがどうして高血圧に……」
「塩分の取りすぎです。彗はいつもトマトジュースを飲んでましたから」
「そんなに飲んでたの? 彼がトマト好きなのは知っていたけれどそんなに?」
「日に何本も飲んでいました。きっと高血圧の原因はそれです」
先生は背をもたれて空を見上げた。樹木の隙間から漏れ出た光が先生を照らす。そして目を閉じて黙り込んでしまった。
「……彗くんの記憶は戻ったの?」
「私が彗を忘れていること、知ってたんですか」
「彗くんから報告があったの。春休みに入る前に保健室でアリナちゃんと彗くんとでお話ししたでしょう? 私の異動の話をするために」
「えぇ、しました」
「その話をしてアリナさんが退室した後に彗くんが教えてくれました。驚いたわ。その様子だと思い出せてはいないようね」
先生は痛みに耐えるような辛い表情を浮かべた。
「先生?」
「あの時の彗くんとの会話を思い出しちゃって……」
どんな会話をしたのだろう。私は訊けなかった。
「高校生活はどう? 人に優しくできるようになった?」
「はい。楽しい日々です。受験勉強さえなければと最近は惜しく思っています」
「それを聞けて先生も安心しました。異動した後、ずっと2人が気がかりでね。体育祭にも行きたかったけれどタイミングが悪くて。あとはアリナちゃんの王子様が目覚めるだけね」
「お、王子様って誰のことですか……?」
「ふふ。私も学生の頃に素敵な人がいたらよかったわ。あなたたちが羨ましい」
「先生こそ新しい高校ではどうなんですか。若い体育教師とか、教育実習生とか」
「大人の事情は子どもには話さないものよ。心配しちゃうでしょう?」
「夏で18歳になりました」
「アリナちゃんと10歳差。18なんて私からしたらみんな子どもよ。あーあ、もうアラサーだから嫌になっちゃう。歳はもう取りたくないなー」
制服を着ていても違和感がないってくらい若々しいのに、先生は心底嫌そうに呟いた。先生も若さが過ぎ去っていくことが辛いらしい。私は逆に早く大人になりたかった。1人で自由に世界を闊歩できる大人に。子どもはできないことが多すぎるから、ちょうど大人と子供の狭間にいる私たちはこうやって燻ぶってしまうのだ。
「アリナちゃん」
先生は真面目な声音に戻した。
「大丈夫、彗くんは帰ってくる」
「私もそう信じています」
「2人はまるで太陽と彗星ね」
「え?」
「日羽アリナ。名字に太陽を意味する日が含まれてる。榊木彗。名前に彗星の彗。彗星は太陽に会いに来ては去ってゆき、また再び会いに来る。長い時間をかけて」
「ロマンチックな言い方ですね。考えたことなかったです」
「ラブストーリーが好きだからこういう妄想しちゃうの。運命的で素敵。なんかすごく羨ましくなってきた。アリナちゃん、私に誰か紹介できる?」
「私、高校生ですけど……」
「冗談冗談」
先生はクスクス笑って立ち上がった。
「アリナちゃん、まずは大学受験がんばってね。色々と辛くて大変かもしれないけれど、彗くんだってアリナちゃんを応援しているはずよ。元気でいることも願ってる」
「ありがとうございます。先生も素敵な人を見つけられるといいですね」
「ありがとう」
先生の後ろ姿が遠ざかってゆく。
先生のことははっきりと覚えていた。私が先生に二重人格であることを打ち明けたこと、相談を真摯に聞いてくれたこと、頼みごとを聞いてくれたこと、もう1人の私が話していた先生との会話も全部覚えている。
先生は、私が先生のことも忘れてしまったと考えていただろうか。訊くことはできなかった。
その後、自分の担当時間はクラスで手伝い、時間ができたら外の芝生に座って風に当たった。イヤホンで音楽を聞き、何も考えず人の動きを凝視し続けた。ここ数ヵ月はずっと勉強のことばかりで考えない時間がなかった。何も考えないことがダメな時期だと思っていたから、この時間はお風呂に浸かる時間より落ち着くものだった。
文化祭が終わり、週が明けると本当に残りは受験だけなのだと感じた。
学年の年間予定表を廊下の掲示板で目にし、年度末まで確認してみた。センター試験、二次試験の出願期間、冬休み、卒業式くらいしかなかった。さらに追い打ちをかけたのは教師たちの言葉。あとは受験に集中、後悔しないように、残りの数ヵ月が肝心だ、などなど似たような言葉を耳に入れた。
人生の分岐点にいるのだと実感する。高校受験とは比にならない分岐点だ。
禁句の言葉も囁かれるようになって、物が落ちるだけでひやっとする空気になっていた。まだ雪は降らないが違う意味で寒気を感じる季節だ。
私の模試の成績は維持できていて常に判定はAだった。
教師からは「次はSを目指す勢いで勉強し続けろ」とさらに鼓舞され、母からは「体を壊さないようにがんばってね」と温かいココアとともに応援してくれた。
11月に入るとちらほら進路の報告を耳にするようになった。
就職先が決まった、推薦が通った。そういったクラスメイトの嬉しい報告が騒がれ、他クラスの情報までが流れるようになった。その中でも多くの人を驚かせたのが鶴の推薦合格の話だった。
「あなたそんなに優秀だったの」
「3年間学年1位の学力は伊達じゃないってことよーん」
鶴はAO入試で慶應の法学部に合格した。鶴は名のある大学へ行くだろうとは思っていたけれど、まさかAO入試で慶應に行くとは想像していなかった。
鶴の合格が発表された日はみんなから祝福されて引っ張りだことなっていたから、落ち着いて私の席で話せたのは翌日だった。
「アリナだってその学力ならいけるでしょ。なんでやらなかったの?」
「内申が良くないもの。私、特に何もしてないし」
「あ、なるほど……」
私は学力はあるけれど内申点はあまり良くない。1年生のころは毒舌の全盛期で女子と一悶着あり、2年は彗と出会ってから多少静かになったとはいえ社交的ではない。部活もやっていない、委員会活動もしてない、外部で賞を取ってるわけでもない。プラスよりマイナスの方が多かった。毒舌少女がここで仇となった。
「忙しそうだったから言えなかったけど、おめでとう。友人として鼻が高いわ」
「ありがと。もう卒業まで暇になっちゃったから何でも手伝うよ! 勉強でも何でも。わかんないことあったらいつでも連絡して!」
「どんな教科書よりも頼りになるわね」
鶴はさらに得意げになって両手をグーにして万歳した。
そこにとある男子が近づいてきて、私と鶴が座る席の近くで止まった。
「うわっ、2位の人じゃん」
沼倉鷹蔵だった。体育祭で対抗リレーをしたとき以来だ。
彼はぷるぷると拳を震わせて直立していた。
「二渡鶴。くっ、いや、なんというか……クソ……」
「なんなの。私は親友のアリナと楽し~くお昼ごはん食べてんだけどぉー」
鶴はジト目でそう言った。対する鷹蔵は悔しそうに上を見上げて歯を食いしばった。私にも何が何だか理解できない。
私は鶴に視線を戻して呟いた。
「きっと鶴のことが好きなのよ」
私の何気ない台詞に鶴は「は?」と眼光を鋭く私を見た。冗談のつもりだったのに。
しかし鶴より鷹蔵が大変なことになった。
「黙れ日羽アリナ! 僕はそんな不純な気持ちで来たのではない!」
「ならどうしてここにいるのよ」
「黙れと言っただろう! 僕は二渡鶴の合格を褒めに来ただけだ!」
私は面倒なことになると思って言われた通り黙ることにした。
鷹蔵は鶴に目を向け、指をさした。
「悔しいが褒めてやる! おめでとう二渡鶴! 僕の負けということにしよう!」
「うっさい知らん」
「あと好きだ!」
「は?」
鶴の顔は殺し屋の顔みたいに凄みに満ちた。私は口に運んだ箸を口に入れたまま2人を交互に見た。
「お前が好きだと言っている!」
「無理なんだけど。うっさいんだけど」
「……日羽アリナ! 廊下に出ろ!」
鶴に告白したかと思えば次のターゲットは私になった。受験勉強で常に疲弊気味の頭では追い付かない。
混乱する私に鶴は「行かなくていいから」と言ったが、なんとなく鷹蔵の目的は告白じゃないと私は感じていた。私は鶴を鎮めるように「大丈夫だから」と言い、鷹蔵と教室から出た。
「さっきのはなんだったのよ」
「アレはついでだ。来訪目的は別にある」
「鶴のこと好きじゃないわけね」
「……いや、好きだがもう過ぎたことだ。忘れろ。彗のことについて教えてほしい。君に訊きたかったんだが……君は彼のことが好きだろう? 君の心理状態に配慮して訊くタイミングをここ数ヵ月窺っていた」
自分の中の混乱が収束していく。鶴から敵視されたことに少し同情した。
私は彗が倒れた原因と現状を彼に説明した。
「話してくれたことに感謝する。ずっと気になっていたんだ。噂には聞いていたが詳しく正確に知らなかった」
「そう。ならよかったわ」
「僕は彗に恩を感じている。あの体育祭は最高だった。人生で初めて楽しく走ることができた」
「あなたは自転車だったけれどね」
「体育祭だけじゃない。放課後、共に走ったあの時間のすべてが心地よかった。感謝する」
鷹蔵は満足したようでそのまま廊下を歩いていった。
席に戻るとすぐに鶴が口を尖らせた。
「なんなのあいつ。なんか嫌なこと言われた?」
「大丈夫。少しは優しくしてあげなさいな。あなたこと好きなのよ」
「やだ! 勉強オンリーって私がいっちばん嫌なタイプだからやだ!」
「現実は残酷ね」




