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わたしの愛した彗星  作者: 水埜アテルイ
太陽の物語
65/105

第65話 あなたは誰?

 彼女が二重人格であると明かされた日を思い出した。

 

『日羽アリナです。はじめまして』


 保健室で会ったその日を俺は鮮明に覚えている。

 誰よりも優雅に、魅惑的に咲く薔薇のような彼女が目を疑うような変身を目撃した日、俺は彼女の秘密を知った。驚愕したと同時に元のアリナが二度と戻らないと心配をしたあの日が今、重なったのだ。


 俺は時間を忘れて固まった。数秒程度だったかもしれないし、もっと長かったのかもしれない。いつもなら冗談を飛ばして軽く受け流していただろう。現にそうするつもりだった。

 彼女の見つめ方、目蓋の開き、心のすべてを覗き込むようなその眼力を俺はよく知っている。だからこそ、涙袋を僅かに上げた疑念の目。俺を視る彼女の言葉に冗談は含まれていないと残念ながらわかった。

 彼女は俺を知らない。本当にわからないんだ。


「いや、間違った。すまん。白奈と間違った」

「でもあなた、私の名前を呼んだわ」

「つい日羽が隣にいたもんだから言い間違えただけだ」


 アリナは腑に落ちていないようで俺と白奈を交互に見る。正直、やめてほしかった。俺を見ないでほしかった。彼女に見られる度に自分が彼女にとって他人であると思い知らされる。もう友人でも知人でもないのだ。

 

「じゃ、それだけだ」


 これ以上は限界だ。

 彼女が俺を忘れたとわかった今、彼女のために俺は無関係を演じなければならない。俺が原因で記憶と現実の齟齬が生じ、ストレスを与えてしまいかねない。デリケートな彼女の頭を考慮した選択だ。肉親の死で不安定になっている現状ならなおさらである。

 これが最善だと信じよう。

 彼女が俺を忘れようと当初のプロジェクトを中止にするつもりはない。遠目で様子を見ることしかできなくなりそうだが方法は後々考えよう。


「待って」


 背を向けて右足を一歩踏み出した時、また日羽アリナの声が廊下に響いた。


「あなた誰なの? 白奈って彼氏いたっけ? もしかして白奈の彼氏?」

「ちょっとアリナさん何言ってるのー!? 変なこと言わないでー!」


 あたふたする白奈だがアリナは気にもせず、俺に答えを求めるようにじっと見る。

 榊木彗と名乗るべきではない。少なくとも今ではない。白奈が混乱して余計な一言をこぼしたら面倒だからだ。

 苦しい逃げ方になるがやむを得ない。


「トイレ行きたいからまたな。トマトジュース飲みすぎちまった」


 そう言って小走りで去る。名残惜しそうに引き止める声が聞こえた。

 両耳を手で塞ぎたかった。




 トイレから戻って席に着き、改めて現状に絶望した。

 今までの彼女との記憶は一体何だったんだ。この数ヶ月、彼女と共有した感情も、言葉も、活動も、すべてが無かったことになるなんてあまりにも残酷すぎる。


 これからアリナを避けて他人行儀でずっといろと?


 もう彼女の名前も気軽に呼べないし、もう二度と会話を交えることすらなく彼女の記憶が戻らぬまま卒業を迎えるかもしれない。

 少なからず俺は高校生活の中でアリナと出会ってからずっと充実していたし、最後の一年はもっと楽しくなると予感していた。だが過去も未来もどうやら崩れ去った。


 授業中も彼女の容態について考える。

 短時間だったが榊木彗を忘却した以外にもわかったことがある。波木白奈を覚えていること、言葉遣いが若干変わったことだ。

 てっきりまた新しい人格が芽生えたから俺を忘れたのかと思ったが、白奈が何者かわかっていたようなのでその線は消えた。榊木彗という存在以外にも忘れていることもあるかもしれないが、保持されている記憶があるということは、やはり新人格ではない。


 言葉遣いは違和感の塊だった。彼女が素直に「ごめんなさい」と謝るわけがない。茶化すならまだしも、真剣で謝意のこもった声色だったし、初対面に対する威嚇のような粗い口調でもなかった。通常運転のアリナなら「消えて」と一言、殺意100パーセントジュースを俺にぶっかけているはずだ。そうではないということはやはり彼女に変化があった他ならない。

 

 だからなんだ。


 そう分析したところでできることは何もない。

 アリナと関わらないことが彼女の精神衛生を保つ上で重要だと割り切ったじゃないか。彼女が脳に描く現実の、唯一の『矛盾』が眼前に現れていいわけがない。もしかすれば彼女の更生はもうゴールにたどり着いたのかもしれないのだ。だとしたらなおさら俺が出る幕はない。

 その後、アリナとは顔を合わせずに1日が終わった。


 翌日、土曜日。

 目が覚めて時刻を確認すると午前10時を回っていた。やはり休日は寝腐るに限る。平日は朝から早起きという拷問で苦しんでいるから土曜の朝は最高だ。ちなみに一番は金曜の夜だ。なにも恐れず眠りにつける安心感とドンと構える連休のスペシャルコンボがあるからだ。

 さて、今日は何をしよう。

 リビングが占領されていなかったら映画でも観よう。そう決めてスマホを手に取り、階段を下りる。

 何気なくスマホの画面を見ると、不在着信が1件あった。電話してきた者には悪いが、安眠妨害対策としてマナーモードにしているから俺は気付かない。

 

日羽アリナ 不在着信

 

「マジか……」


 まさかのアリナだった。てっきり真琴がピンポンダッシュのような腹立たしい悪戯をしてきたのかと思っていた。

 昨日の今日で電話してくるとはアリナらしい度胸ある行動だと思った。彼女にとっては初対面である俺によく掛けようと決めたもんだ。通話履歴に俺の名前があっただろうに。知らない男との通話履歴がたくさんあったら怖くてできないだろ。

 彼女と関わらないと決めたのにたった1日で早くも失敗しそうだった。その反面、嬉しかった。まだアリナとの縁は切れてないのだ。


 掛けなおすべきだろうか。無視するべきだろうか。


 掛けたらきっと彼女は俺を問い詰めるだろう。俺が何者で、どうして俺との通話履歴が残っているのかと執拗に訊いてくるはずだ。彼女のためを考えたらやはり無視するほうがいい。彼女のスマホから、意識から、俺が消え去るまで待つしかない。

 しかし情けないことに俺はアリナの声が聞きたかった。


「どーけーてー」


 階段の途中で立ち止まる俺を蹴落とそうと、2階から降りてきた宇銀が足の裏を見せつける。


「待て。ここで蹴ったら尊い命が一つ天に召されるぞ」

「兄ちゃんが死ぬまでに踏み潰すたくさんの蟻たちが救われるなら私は蹴る」

「お前の兄ちゃんは蟻以下か」

「うん」

「俺の味方は蟻だけだな」


 降参して俺は階段を降りてリビングへと進んだ。パジャマ姿の宇銀もリビングに来て、これからだらけるようだ。

 最近、怠惰的なところが俺に似てきている気がする。昔はもうちょっと活発ガールだったじゃないか。ここ1ヶ月はお前控えめに言っておっさんだぞ。

 寝っ転がりながら貝ひもにマヨネーズをつけて口に運び続ける妹なんてもう兄ちゃんは見たくないんだ。せめて貝ひもはやめてくれないか。スルメとか鮭とばとかも。なぜチョイスが酒好きのおっさんなのだ。仰向けで腹の上にさきいかを乗せてスマホをいじる姿を見た時は兄ちゃんもさすがに泣きそうになったぞ。


 心の叫びは届かず、妹は「あー」と唸りながら冷蔵庫からマヨネーズを取り出した。これから榊木宇銀のイメージが崩れる合図だ。自慢の妹がおっさん化していく姿など見たくないので俺は洗面所に逃げた。戻ったらいつもの宇銀がいることを信じて。

 顔を洗って戻るとやはりおっさんがいた。

 ソファーに寝っ転がり、顔面を液状化させてテレビを眺めている。腐ってやがる、と言いたいところだがもう諦めているから現実を受け入れ、もう1つのソファーに腰を下ろした。


 しばらくテレビの音声だけが流れる。俺も無言でココアを啜りながら眺め、今日は何をしようかと頭の片隅で考えていた。そうだ、リビングが占領されていなかったら映画を観るんだった。さて、このおっさんをどうすればいいのだろう。液状化しているから雑巾で吸い取るのがベストだろうな。

 テーブルに置いてあった俺のスマホが鳴った。マナーモードは解除していたからデフォルトの着信音と振動音がリビングに響き渡る。画面を見るとアリナからだった。


「……」


 スマホは鳴り続ける。

 俺はテレビを眺め続ける。

 スマホに注目する宇銀。


「兄ちゃん」

「ん」

「スマホ」

「うむ」

「アリナさんからじゃん」

「ん」


 鳴り続けるスマホ。

 テレビを眺め続ける俺。

 俺のスマホに手を伸ばす宇銀。

 速攻でスマホを回収する俺。


「出る気ないんじゃないの?」

「お前が出るとマズイの」

「え? じゃあどうするの」


 どうするって言ったって、無視したいさそりゃ。アリナのためだもの。

 だがアリナの連絡先をひかえている宇銀が余計なことを連絡しかねない。それにこうも露骨に無視していると宇銀が調べ上げてアリナの現状を突き止めるかもしれない。そうすれば面倒になる事は必至だ。

 だから出るしかなかった。


「はい、榊木です」


 おっさんを放って置いてリビングから出て電話に出た。

 感情の高ぶりを抑えながら俺は彼女の声を持った。


「あっ、繋がった。榊木彗でいいのかしら」

「そうだが」

「よかったわ。私は日羽アリナ。訊きたいことがあって電話したのだけれど、いいかしら」

「ああ」


 俺はしゃがみ込んだ。何とも言えない安堵感で力が抜ける。素直すぎる自分の心に腹が立つくらい俺は単純な人間だった。

 

「あなたって、もしかして私にとって大切な人?」


 その言葉を聞いて頭が真っ白になった。唾を飲み込むことを忘れ、じんわりと口内に唾が広がる感覚が俺を支配する。見開き過ぎて目が痛くなり、涙がにじんだ。

 思いもよらぬ質問に俺は黙り込む。

俺が何者かを電話を通して訊いてきたと思ったら、さらに上を行く深く入り込むような問いをされて言葉に詰まった。

 どうして彼女は、俺を大切な人かもしれないと感じ取ったのだろう。


「聞いてる? あら、電波の悪いところにでもいるのかしら」

「聞こえてる」

「そう? 聞こえてた?」

「ああ」

「それで、どうなの」


 極力回避しよう。その方向で話を終わらせる。


「なぜ、そんなあり得ないことを考えたんだ」

「えっ、だって、その……ノートに、じゃなくて……」


 アリナの秘密のノートだ。文化祭の日に天使アリナから見せられたからわかる。俺のことが書かれたページを彼女は読んだのだ。

 結局、ダメか。彼女の周りには俺の影が多すぎる。元から無理のある方針だったんだ。

 

「ただの勘違いだ」

「……私、あなたのこと何も分からないの。でも連絡先もあるし、他にも色々と」

「最近変わったことはあるか?」

「あるにはあるけれど……」

「何だ?」

「い、言いたくないわ」

「記憶の混濁か? それとも人格に関することか?」

「……待って、どこまで私のこと知っているの?」

「当てずっぽうだ」

「嘘。やっぱりあなた何か隠してるでしょ。この際言っちゃうけれど、私ね、記憶喪失だったのよ。でも数日前に全部思い出した。忘れてた人のことも、過去の嫌なことも、もう()()()のことも。全てよ」


 全部思い出しただと? 

 中学3年生以前の記憶全てを思い出したと言うのか。もしや父親の死がキッカケで? 

 それが本当だとしたらやはり彼女は毒舌薔薇だ。天使アリナには白奈との接し方がわからない。人格の統合でもなさそうだ。天使アリナを他人格として表現している。


「振り返れば酷いことばかり言っていた気がするわ。私って馬鹿ね。白奈とか鶴にも謝らなきゃ。でもね、あなたのことだけはなぜか分からないのよ。おかしいでしょう? 悪い人ではないと思うわ。だから電話しようと思ったのよ」

「悪人じゃないから安心してくれ」

「わかっているわ」


 話がまとまらない。

 ダメなんだよアリナ。お前の『矛盾』を追求しちゃダメなんだ。自分で首を絞めてるんだぞ。その矛盾さえ気にしなければお前は過去の全てを受け入れ、消化し、これから虚勢を張らずに生きていけるんだ。お前の毒舌を治すために俺はいた。その毒舌の原因は父親や周囲の環境だ。だから俺を思い出すことは振り返らなくてもいい過去を再び思い返すことになる。

 俺を思い出そうと苦しむ必要はない。もう十分すぎるほど苦しんだだろうが。


「眠いから続きは今度でもいいか?」

「ええ、朝からごめんなさい。最後にひとつだけいい?」


 俺は抑揚のないフラットな声色で「ああ」と応える。

 沈黙が5秒くらい流れ、彼女は小さな声で言った。


「私って――あなたに恋してた?」


 俺はすぐに答えた。


「いいや。俺のことが大嫌いだった。だから俺のことを忘れたんだと思う。嫌なことを思い出す前に俺のことは忘れた方がいい」


 彼女は絶句したようだった。

 俺は通話を切って深呼吸した。


 もう取り返しはつかない。

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