第4話 万有引力とテニス
「というわけだ」
「は?」
白奈と話した後、俺は図書室に転がり込んだ。そして予想通りアリナを発見した。図書室が第二の故郷なのだろう。
「放課後は女子ソフトテニス部の手伝いだ。理解したか」
「理解はしたけど。どうして私が……」
彼女は図書室にいると弱い。
図書室には静寂を守る厳密なルールがある。牙を隠している今がチャンスなのだ。
「アリナ更生プロジェクトの一環だ。絶対に来てもらうからな」
「あんただけ行きなさいよ」
「お前が来なきゃ何の意味もねーんだよ。女子テニス部に男の俺だけが行くって、どう考えてもおかしいだろ。ただの変態だろうが」
「うるさい」
「お前が同意しない限り、俺は永遠に喋り――」
本の角で殴られた。
一瞬死んだのかわからないが、死んだはずのペットが川岸にいた。三途の川ってやつだ。
「暴力はやめろ」
「死んで」
「多分死んだぞ」
くだらないやり取りをしている場合じゃない。
「昼休み時間も残り少ない。そういうわけだから放課後はまずあの元職員室に集合で。運動着も持ってこいよ」
「わかったからもう消えて。耳が腐るわ」
ヒラヒラと虫を追い払うかのように手を払い、彼女は読書に戻った。
来るか不安だが仕方ない。来なかったら拉致して強制的に着替えさせてやる。恥ずかしがっても俺は容赦しないからな。
放課後、早速元職員室に足を運んだ。
「まぁ来てないわな」
アリナが来ていないからといって、女テニのもとへ行かないことにはならない。白奈に嘘をつくのは心苦しい。有能な女性社員は夜逃げしました、ということにしよう。
しばらくすると破壊する勢いでドアを何者かがノックしてきた。
手加減のない破壊活動をしやがる野郎の心当たりは1人しかいない。
「ちょっと開かないんだけど。開けなさい」
「現在榊木彗は着替え中です。どうしても見たいのならば今すぐ開けますよ。いや、開けましょうか」
「あ、開けなくていいわよっ! 来んな! 窓から飛び降りろ!」
「そう興奮するな、いま鍵開けるから」
鍵、解除。
しかしドアは開かない。ドアの曇りガラスにアリナの輪郭がぼんやりと映る。どうやら廊下側からドアを必死に押さえているらしい。
「いいからっ、さっさと着替えなさい! 気色悪いもの見せようとするんじゃないわよ!」
「いいか、アリナ。帰宅部ってのは貧弱なイメージがあるだろうがな」
「黙りなさい!」
「俺は身長が180ある。身長ってのは力において正義なんだ。もちろんある程度鍛えていないと比例はしないがな。だが俺は最強の帰宅部員。許せ、俺は強い」
本気を出し、引き戸が苦しそうな音を立てて開かれる。
アリナは尻餅をつき、眩しそうなものを見るかのように両手を顔の前に持ってきた。目が合う。こいつ隠してるフリして見てやがる。どっちが変態だ。
「お前も早く着替ろ。俺は廊下で待ってる。安心しろ、お前の着替えシーンを見るくらいなら犬がクソしているところを観察した方が何倍も楽しい」
半裸で暴れ回る趣味などない。俺は基本的に紳士なのだ。もちろん俺は着替え終わった状態でアリナとご対面した。
アリナは唖然としていた。
こんな呆けた表情のアリナを見たのは人類史で俺が初めてだろう。だがその表情はたちまち怒りに燃え上がった。慌てていた自分がバカだったという羞恥が顔に表れる。
俺のみぞおちに隕石が落下する。
正確にはアリナの鋭いパンチが俺の全内臓を揺さぶった。強烈な衝撃、強烈な痛みが指先まで伝播する。これはズレた。肝臓とか腎臓とかの位置がだいぶズレた。
廊下にうずくまって床に頬をべったり付けた。
「入ってきたら殺すわ。鎖に繋いで飢えさせて、限界を迎える前に爪ぜんぶ引っこ抜いて、その爪であんたの全身の皮膚をはいでやる」
俺はヨダレを出しながら頷いた。
ちなみに角度的にパンツは見えなかった。もう少しアリナの足下に近かったら見えていただろうが、見えたら見えたで頭を蹴られて生首がふっとんでいただろう。そのままグラウンドまで飛んでいってゴールイン。俺がサッカー部の新しいボールだ。
しばらく経ち、アリナがダンッと引き戸を開けた。
体育座りしていた俺はゆっくり立ち上がった。足が震えている。いや、俺の足が怯えてるだけで俺は怖くねぇ。何なら俺じゃなくて地球が震えてんだ。
「お前なんか怖くねえ!」
「いちいち声がデカいのよ」
髪型がポニーテールになっていた。意外とやる気があるらしい。
黙ってれば可愛いのにもったいない。
「こっち見るな。また殴るわよ」
「俺は非暴力、非服従でいきますよ。そうやって世界を救うんだ」
「気持ち悪い」
アリナは吐きそうな表情でそう言った。
こんな調子じゃ毎日ゲロまみれ生活だ。嫌ってくらいこれから顔を合わせるんだから慣れろ。
「じゃあ行くか。今ごろ女テニは練習しまくって汗ドロドロだ。楽しませてもらうぜ」
「言い方気持ち悪いのよ、ホントに」
アリナを連れ、ソフトテニス部が活動するテニスコートにやってきた。
みんなスカートみたいにひらひらするアレを穿いている。どうしてもアレが破廉恥にしか見えない。男の目を考えていただきたい。
男子高校生の脳の構成要素を知っているか。
ちなみに俺は8割「誠実」、2割「食欲」で構成されているが、平均的な男子高校生の脳みそは10割「性欲」で構成されている。
そう、性欲の塊なのだ。エロガキなのだ。
覚えておけ、女子テニス部たち。俺以外の男子は基本的に穢れた猿同然ゆえ気をつけたまえ。
アリナは日差しにやられそうになっていた。
9月ではあるが、まだ夏は完全に過ぎ去っていない。
「ほら、これ被れ」
俺は帽子を貸してやった。
受け取ったらすぐ地面に投げつけて踏んづけるかと思っていたが素直に被った。
「クズでも気が利くときあるのね」
感謝できねぇお前の方がクズだと思うがな。
「あ、彗だ」
白奈が駆け寄ってきた。
しかしその歩みは途中で急ストップし、顔をぎょっとさせた後、ゆっくりとこちらに近づいた。
「あ、アリナさん……!? なんで!?」
腕を組み、アリナは視線を明後日の方へ向けた。
人見知りのクソガキか。お前はもう高校2年生なんだぞ。
「白奈。俺とアリナが回収係だ。で、手伝えそうか? 女テニ的に」
「うん、大丈夫。事情も話してる。ラケット持って、あの芝生のほうに飛んでいったボールを打ち返してくれればいいから」
テニスコートは2面ある。
が、コートを囲うフェンスはない。ネットを挟んで片面には壁があるが、もう片面の向こうには芝生が広がっている。芝生側に飛んでいくボールを回収して欲しいということだ。確かにこれは練習時間の大幅なロスにつながる要因になると思った。
白奈は指を指して説明してくれた。
「了解。アリナ聞いてたか? あっちに行ってボールをコートに打って戻せばいいんだ。歩き方はわかるか? 右足出して、左足出して――」
「バカにしてるわけ? 潰すわよ」
「話聞いてたか確認しただけだ。そんなすぐに怒るなよ。ちなみに潰すって俺のどの部位を潰すんですか」
足を踏んづけられた。
俺が最強の帰宅部員じゃなかったら煎餅みたいにぺったんこになっていただろう。しかし俺はビクともしなかった。最強だからだ。アリナは悔しがるように舌打ちした。悪いな、俺の足は鉄製なんだ。
白奈はビクビクしながら再び口を開いた。
「きょ、今日はよろしくね。彗と……アリナさん」
「任せろ。ほら、アリナも返事しろ」
「……」
日本語も教える必要あるな。平仮名から教えてやろう。
俺とアリナはラケットを拝借し芝生に向かった。
既に芝生にはボールが散在している。早速ボールを一つ手に取り、ラケットを豪快に振った。
「何、当たらないだと?」
左手でボールを持ち、ちょっと浮かせた後、素早くラケットで風を切るが如く振る。しかしぶんぶんと振っても当たらない。
「俺のラケット壊れてんだろ。網あんのか?」
壊れてもないし、網はしっかり小さな正方形を作っている。壊れているのは俺だった。
数回振って網の部分ではなく縁の部分に当たり、あらぬ方向に飛んでいった。そのままアリナにぶつかってくんねーかな。いや、殺されるからやめてくれ。
初めてテニスに触れた記念日となったが、やってることはテニスとは呼べないだろう。ラケット自体、触ったのも初めてだった。どうやらラケットは俺を嘲笑っているようだ。空を切る音が笑い声に聞こえる。
素人のすぐ側では、パコンッと気持ちのいい音を出して打ち返すアリナがいた。ぎこちなさを全く感じさせない動きに驚く。
アリナの動きを模倣しようとじっくり観察し、そして勢いよく振った。
球は地面に落ちた。なるほど、こうやってニュートンは万有引力を思いついたのか。
「あんた下手すぎでしょ」
俺が万有引力の法則について考えていると毒舌女がバカにしてきた。
「黙ってくれないか。今、俺は引力を感じている」
「あんたが引き受けたんだから真面目にやりなさいよ。見ていて恥ずかしいから座ってなさい」
「自分なりに努力はしているんですけれど、球が俺を避けるんですよね」
「そ」
そ、ってなんだよ。
アリナは落ちているボールを拾ってはコートの方に打った。
心なしか楽しんでいるように見えた。読書をしているときはフランス人形のように儚げで美しいがどこか生気がない。だが今のアリナは生きている気がする。
彼女にとってプラスに働いているんじゃないか?
俺も頑張ろう。
「当たれッ!」
やはりボールは地に落ちた。
「あんた真面目にやってる?」
「俺はいつも真面目に生きている」
「どうしてラケット振るとき網の部分を水平にするのよ。あんたがやってること、細い枝で打とうとしてるようなものよ」
「俺そんな使い方してたか」
「あんただけ野球してるわ。ホントにバカ。救いようがないバカ」
アリナに指摘されたところを踏まえ、もう一度振った。ボールは弧を描いて飛んでいった。実をいうと悔しいからそんな綺麗に飛んでいってほしくなかった。綺麗に飛んでいったせいで隣のアリナさんが謝罪要求の視線を送ってきてる。
「すみません、俺はバカでした」
「知ってるから。はやく次やって」
アリナに勝てる分野は何だろうと考えながら打ち続けた。
勉強面以外なら全部勝てそうだな。テニスは例外にしておこう。
休憩時間が来るまで俺たちは打ち続けた。