第六話
「――よって……安全なのだ。安心せよ。分霊というのは精霊の力。一つになるということは、精霊の力を借りるようなものだ。妖精が普段使っている魔法となんら変わりない」
グリザベルはチルカを安心させようと慎重に言葉を選んで話すが、喋れば喋るほどチルカの目尻は不機嫌につり上がっていった。
そして、とうとうこらえきれずに羽明かりを強くさせると、弾けるように声を大きくして喋りだした。
「だから! 安心安全じゃなくて、信用が出来ないって言ってるんでしょ! バカなの? それとも大バカなの? せめて救いようがないバカじゃないことを祈るわ」
グリザベルがしようとしていることは、チルカの持っている魔力の器にシルフの分霊を入れるということだ。
シルフが協力的なので閉じ込める必要はなく、あくまで魔法陣を使って入るまでの手助けをするだけ。
それは、チルカが飛ぶ時に使う魔法となにも変わらないと説明しているのだが、魔法を学問するのは魔女だけで、他の魔法を使える種族は感覚的に使っているので、いくら説明されても納得できるものではなかった。
「痛くもない。すぐに終わることだ。ほんの少し精霊を入れるだけ。よいではないか」
しつこく食い下がるグリザベルの姿を見て、リットは鼻を鳴らして下卑た笑いを響かせた。
「その誘い方がダメなのは、男のほうがよくわかる」
「わけのわからぬことを言ってないで、お主も頼み込まんか」
「今回はオレの身がどうなるかって話じゃねぇからな。こっちが頭を下げて助ける意味がわかんねぇよ。まぁ……チルカにずっと家にいられるってのも迷惑だけどな」
「そんなのんきなことを言っていられるか……」グリザベルは真面目な顔になると「分霊と言えども精霊だ。そんな力をずっと近くで当てられてみろ。お主の体がどうなるかわかりはせぬぞ」と脅すように言った。
「ほら、見なさい! やっぱり危ないんじゃないのよ!」
チルカが騙そうとしたと非難すると、グリザベルは話がややこしくなったと頭を抱えた。
「今のは魔力の器が小さい人間の話だ……。人間とは妖精のように精霊の力そのものと直接関わることはほぼない。なぜなら自然というものを媒介するからだ。これは魔女と精霊師の考え方によって違うが――」
「いいのよ、魔女談義は。私は変なものを体に入れたくないって言ってるの」
「腹に一物抱えてる妖精がなに言ってんだよ」
「うっさい! とにかく、別の方法を考えなさいよね」
チルカはてこでも動かないと、カウンターにどっしりと座った。
「どうしたものか……」
頭を悩ませるグリザベルに、リットは「呼び鈴代わりに、乳でも揺らせば現れるだろ」と言った。
「お主はさっきからずっとなにを言っておるのだ」
グリザベルが呆れたと腕を組むと、意識とは関係なく、ため息と一緒に大きな胸が盛大に揺れた。
すると「わお……」と、巨乳の女の子が増えたことにお礼を言いに来たローレンが偶然店にやってきたのだ。「やっぱり、本家本元は凄いね……。迫力が違うよ。……触れてみても?」
「よいわけあるか」
グリザベルは伸ばしてきたローレンの手をピシャリと叩いた。
「随分浮かれてんな……」
リットはこれ以上変な客が入ってこないように店の看板を下ろしながら言った。
「そりゃもう!」ローレンは興奮に鼻息を荒くした。「町の中どこをみても揺れる胸ばかり。知ってるかい? 皆心も胸も弾ませて歩いてるんだ。正しく真の天才だよ、グリザベルは」
胸の正体が空気だと知らないローレンは手放しでグリザベルを褒めた。
「じゃあ、オマエの望みを叶えた天才を助けてやれよ。そこの妖精に一つになることの気持ちよさでも教えてくれとよ」
リットが指をさすと、ローレンは満面の笑みのでそっちの方を向いた。目に入るのはきっと巨乳の妖精だと信じ切っているからだ。
「そりゃ、もう喜んで! ……巨乳の妖精はどこだい?」と周囲を見渡してからチルカを見ると、がっくりと肩を落として「あぁ……」と落胆の声を漏らした。
「ムカつくけど、殺すのは二番目にしてあげるわ。一番目はずっと前から決まってるから。なにを言っても無駄よ。私はシルフと混ざるつもりなんてないの」
「僕は胸の大きな妖精と胸の大きな精霊に挟まれたい。色んな意味で」
「アンタの欲望なんて聞いてないの」
「ぜひ聞かせたい。僕の人類巨乳化計画を……いいかい? まずはね――」
ローレンのくだらない話にチルカが付き合ってる最中。リットはグリザベルに、精霊を体に入れるのは本当に安全なのかを聞いていた。
「何度も安全だと言っているだろう。お主も精霊の紋章を四つ入れているが、なにも起きていない。それが証拠だ。受け入れる器の大きい妖精は更に安全だ。明日になれば精霊が入っていることさえわすれるだろう」
グリザベルはいつも以上に、はっきり間違いないと言い切った。デルフィナの元で精霊について理解を深めた自信がそうさせているのだ。
「なら、勝手にシルフをチルカの中に入れちまおう」
「お主は……本気で言っておるのか」
「今がチャンスだぞ。バカの相手をしてバカになってるから気付かれない。そもそもアイツが無茶なことを言ってんだ。多少の無茶をしてもらわなきゃ、どうにもなんねぇだろ」
グリザベルはもっともだと頷いた。チルカはこの家から出られないことをどうにかしろと言うが、まだ解決のスタートラインにさえ立っていないからだ。
しかし、いくら安心安全だと言っても、本人の了承が取れていない。それを勝手に実行してはいけないとグリザベルは踏みとどまっているのだが、リットはローレンに話を引き延ばせと合図を送っていた。
ローレンが熱を込めて大きな胸はどんなに素晴らしいものかと説明すればするほど、チルカの罵声は攻撃的になり、矢継ぎ早にローレンを責め立てた。
リットはお膳立ては整えたぞグリザベルの肩を叩いた。
まるで悪魔の囁きだと一瞬躊躇したグリザベルだが、他に活路を見いだせなかったので誘惑に乗ることにした。
チルカはローレンの目線より高く飛んで見下して物を言う。その隙を狙って魔法陣を足元に滑り込ませるのだ。
妖精は飛ぶときの初動に魔法を使う。そうすることにより、一気にマックススピードで飛び上がれるわけだ。
そして、それは黙って魔法陣を発動させるのには適したものだった。グリザベルが魔力を流さなくても、勝手にチルカが魔法を使っているので、タイミングを合わせることなく、チルカが魔法陣に足を付けば発動する。
そして、それは今まさに発動するところだった。
「だから、アンタはバカなのよ。スレンダーの魅力ってのはね。胸に執着するようなマザコンには理解できないの。わかったら、ママ代わりのなんでも言うこと聞く頭空っぽの女のおっぱいでも吸って、おむつを変えてもらいながら、バブバブ言って私に抗議しなさい。……本当にやったら殺すけど」
一通りの罵倒を並べてて満足したチルカは、少し憂さが晴れたという表情で魔法陣の上に降りてきた。
「その胸の大きいママは君達が用意してくれたんだ」
ローレンが意に介さず言うと、チルカは羽明かりを強くさせて勢いよく飛び上がった。
その瞬間に魔法陣が発動し、抱きついていたシルフは消えるようにチルカと同化した。
しかし、チルカはそれに気付くことなく、思いつく限りの罵詈雑言をローレンに浴びせ続けると、最後に「もう相手にするのも嫌よ」と手をしっしと振って追い出した。
リットがもう大丈夫だと合図を送ると、ローレンは巨乳を増やしてくれたお礼だとでも言いたげな笑みを向けて店を出ていった。
「まったく……なんなのかしら。私が巨乳に憧れてるのだとでも思ってるのかしら」
チルカは不快だと眉間にしわを寄せた。
「巨乳になったりしてねぇのか?」
リットが言うと、眉間にしわを寄せたままチルカが振り返った。
「なるわけないでしょ。バカなの?」
「なにか他の変化はないか?」
グリザベルも同じようなことを聞くので、チルカは思わず眉間のしわを解いて、力なくため息をついた。
「アンタもバカでヘンタイでマヌケなパッパラパーの仲間入りなわけ?」
「なにもないならよいのだ」
体になんの影響もないと見て、グリザベルは満足げな笑みを浮かべた。
「アンタらなんなのよ……気持ち悪いわよ」
急に体の心配をしてくる二人に不信感を持ちながら、チルカはゆっくりカウンターに降りてきた。
静かな店内に響いたのは、靴が木材に落ちる硬い音ではなく、柔らかい羊皮紙を踏む音だ。
この違和感にチルカは足元を見るしかなかった。
その瞬間すべてを理解した。
何度も見たことのある理解の出来ない図形。これは紛れもなく魔法陣。そして、あれだけべったりしていたシルフの姿消えているのだ。
「グリザベル! なんてことしてくれてるのよ!」チルカはグリザベルの眼前まで飛んでつばを飛ばして怒鳴るが、すぐに煙に燻された蚊のように力なくカウンターの上へと落ちた。「きっと私は死ぬのね……わけのわからない力に利用され……体の内側から蝕まれていくのよ……。美人薄命って本当なのね」
「その言葉が本当なら、オマエには寿命なんてものはねぇよ」
「アンタね! 自分が紋章入れられて不安だからって私まで巻き込まないでよ!」
言ってすぐにチルカは自分の腕を確認した。もしかしたら紋章が入ってるかも知れないと思ったがそれはない。体のどこかに入っているかも知れないと、その場でぐるぐる飛んで背中やお尻などあらゆるところを見ようとしていた。
チルカは完全に情緒不安定になったので、グリザベルは不安になっていた。自分の考え方が間違っていたのかも知れないと。
しかし、リットは逆に安心していた。
前にも似たようなことがあったからだ。浮遊大陸に行くために展望の木を登ったときのことだ。
その頂上でチルカはハイになっていた。雲の上まで伸びる天望の木。そこでは太陽が近く、太陽神の加護を受けているチルカには力が与えられすぎたのだ。
しばらくすれば安定して、正常を取り戻す。
つまり、今回もシルフの力が上手いこと体に入ったという証明だった。
説明を聞いたグリザベルはなるほどと納得した。
「太陽神のことはわからぬが、浮遊大陸とシルフというのは関係が深い。風に流される雲にある大陸だからな。天望の木の上では遮るものもなく、風を常に浴びるような状況だ。シルフの力が強く影響しているの場所なのかも知れぬな……」
チルカが「最高ね!」と叫んだのは、それから二日後のことだった。
リットとグリザベルが考えた通り、シルフを取り込んだチルカは家の外へと出ることが出来たのだ。
直接太陽の光を浴び、自然と戯れることの出来たチルカは、二日前までの文句と悪意の言葉が嘘のように上機嫌になっていた。
もしかしたら、これで問題が解決したと思うほどだ。
しかし、そう都合良くはいかない。
リット達は雲に追われていた。
今は馬車でリゼーネに向かっているところなのだが、風は不自然に方向を変えて、ずっと追い風になっているのだ。
普通ではない魔力が働いているのは確かで、いくら呼んでもグリフォンが来ないのが証拠だった。
「厄介なことにならないといいんスけどねェ……」
ノーラは馬車の幌をめくり、隙間から空を見上げていった。
「もう厄介なことになってんだよ……しばらく帰れねぇよ」
リット達がすぐにリゼーネに向かったのは、シルフの分霊がいなくなったからだ。
それと同時にシルフの魔法の効果も消え、その力で大きくした女性の胸は次々にしぼんでいったのだ。
風を孕んだ帆のように服が膨らんでいただけなので体に害はないのだが、一度良い夢を見ただけにショックが大きい。そして、そのショックを一番強く受けたのはローレンだった。
アレだけ友好的だったのに、多くの巨乳を失った悲しみから、今では巨乳を取り戻せと反リット団体を設立して店の前で抗議をしているのだ。
「アンタの町の女ってバカしかいないわけ?」
すっかりいつもの調子に戻ったチルカは、騒動を鼻で笑った。
「帰る頃には冷静になってんだろ。で、どうすんだ? 慌てて出てきたから、金はそんなに持ってねぇぞ」
「安心せよ。どうせリゼーネには寄れぬからな」
「おい……聞いてねぇぞ」
酒でも一杯やろうと思っていたリットは、どういうことだと詰め寄った。
「リゼーネは多種族国家であり、宗教も様々だ。精霊と同化したなどと知られてみろ。どんな騒動になるかわからんぞ。お主がどうなってもいいと言うなら我は止めぬが、死んだら酒も飲めぬぞ」
「酒も飲めねぇ、妖精共に会う……楽しいことは一つもねぇな」
「アンタねぇ……森を管理してもらってんだから、感謝の言葉の一つもあって然るべきよ」
「勝手に管理されてんだよ。それにアレは庭だ。いい機会だ。そのへんもしっかり話を通させてもらおう」
リットは御者にもう少しスピードを上げるように言うと目をつぶった。
気持ちよく風が通り抜けるせいか、眠りにつくのに時間はかからなかった。