第五話
ローレンが自分の家へと帰ってから三日目の早朝。
リットのランプ屋では客が列を作り、店が開くのを今か今かと待ちわびていた。
客層は冒険者ではなく町の人だ。
ただのランプ屋に行列が出来ることも珍しいのに、接客態度の悪いリットの店なら尚更珍しい光景だ。そして、更に珍しいことに全員が女性ということだ。
ドアを閉めたままでも甘ったるい匂いがしてきそうなほどだ。
リットは驚くわけでもなく、ただうんざりして店を開けるかどうか悩んでいた。
というのも、なにか面倒くさいことが起きる雰囲気を感じ取ったからだ。
「旦那ァ、お店空けないんスか?」
ノーラは朝食の残り物をパンに乗せたものを食べながら言った。
食べこぼしが売り物のランプを汚すが、それに対してリットが怒ることはない。なぜなら、そんなことは目に入っていないからだ。
「開けたくねぇ……」
リットはカウンターに座って肘をついたまま、ぼーっとドアを見て言った。
「そんな子供みたいなこと言わないで。店を開けないと、ご飯は食べられないんですよォ」
ノーラは店のドアへと向かった。待ちきれなくなった客がノックを始めたからだ。
解錠の音が聞こえると、外で「開いたわよ!」という興奮の声が響いた。
「押さないでくださいよ。一人ずつお願いしますね。ぶつかってランプが壊れると買い取りになりますよォ」
ノーラの慣れた接客に迎え入れられた女性客は、店の中をぐるりと見渡してからカウンターにいるリットを見た。
「……なんでリットがいるのよ」
「難しい質問だな。オレの店であり、オレの家でもあるこの空間になぜオレがいるのか。イミル婆さんのパン屋に、なんで婆さんがいるのか聞いてこいよ。きっと答えは出るはずだ。今すぐ答えが欲しいなら、オレはこう言う。さっさと出てけ」
リットは店のドアを指して、買うものがないなら帰れと言った。
「私はグリザベルに用があるのよ」
「グリザベルなら三日前から、オレの工房を勝手に使ってなんかやってるよ。不思議なことに、オマエらが群れをなしたのとちょうど同じくらいだ」
女性客はリットの嫌味に顔を輝かせた。噂は真実だったのだと。
「やっぱりそうなのね……。予約はリットを通して取ればいいのかしら?」
「知るかよ。自分の胸に聞いてみろ」
なんでもないリットの言葉に、女性客は激情してカウンターを叩いた。
「なんなのよ! 私のおっぱいが小さいことでなにか迷惑かけたわけ?」
「少なくとも今迷惑をかけられてる。乳は関係ねぇけどな。……なんだってんだよ」
リットは話が見えないとため息をついた。
「だから……その……」女性客は急にもじもじし始めると「……おっぱい」と短く答えた。
「だからよ、そのおっぱいで今イチャモンつけられてんだよ。揉んででかくしろってんなら、ローレンに頼めよ」
「嘘!? おっぱいを大きくする方法って、ローレンに揉まれろってことなの?」
女性客が驚愕すると、リットも同じく驚愕した。
「何の話だよ……。もう一度聞くぞ。なんだってんだよ」
「ここにはおっぱいを育ててくれるっていう、凄腕の魔女がいるって町中の噂よ」
「……ノーラ、店番だ」
リットの短い言葉で全て悟ったノーラは「はいはい。それで、どんな噂なんですかァ?」と女性客の話に付き合い始めた。
リットはそのすきにカウンター裏のドアから居間へと戻り、地下の工房にいるグリザベルの元へと向かった。
「おい……いつこの町の女を全員巨乳にしろって言った?」
「我だって知らぬわ!」
グリザベルは声を荒らげた。
おぼつかない手付きで薬草をいじっているので、一人てんやわんやしているのが見て取れる。
乳を極めし魔女がいるという根も葉もない噂を流したのはローレンだ。
グリザベルには胸を育てる能力があると勝手に信じ切っているローレンは、その力で町中の女の子を自分好みの巨乳にしようとしているのだ。
最初はグリザベルも馬鹿げた話だと断っていたのだが、中には噂を信じ切ってしまった女性もいる。渋々帰る者も入れば逆ギレをする者も。
その中の一人に魔女は役立たずとなじられたことにより、グリザベルもかっとなって出来ると言ってしまったのだ。
そして現在。魔女薬でどうにかできないかと奮闘しているというわけだった。
「魔女薬ってのはオマエの苦手な分野だろ。どうするつもりだよ。希望を見せたふりしてドアを閉ざすと、民衆は暴動を起こすぞ」
「わかっておるわ! だから、こうして本と睨み合いを続けてどうにかしようとしているのだ」
「わかってねぇよ。魔女薬にかまけてると、今度はチルカが暴動を起こす。一人でも厄介だぞ。暴れるし、口うるせぇし、可愛げはねぇ」
「聞こえてるわよ……」
チルカは中庭が見える格子窓に張り付いたままで、顔も向けずに不機嫌に言った。
地下工房の天井付近から見える景色はそう広くはないが、居間から見る庭の景色だけでは飽きてしまったのだ。
格子の隙間から勝手に虫が出入りするが、チルカが手を伸ばしても見えない壁に当たってしまい、外へ手を出すことは出来なかった。
「聞こえるように言ってんだ。オマエの不機嫌に付き合わされる身にもなってみろ。朝は無駄に早く起こされるし、疲れて飲みにも行けねぇ。健康になっちまうよ……」
「なら、感謝しなさいよ。言っとくけど、このままアンタがなにもしないなら、私はずっとここにいることになるのよ。アンタが朝日を反射するツルッパゲになるまでね……」
「おい、こんな女はやめとけよ。もっといい女紹介できるぞ。この家から一歩出れば、全員がチルカよりいい女だ」
リットの言葉にシルフは首を振って「嫌い嫌い」と繰り返すだけだった。
「このシルフは分霊ってやつなんだろ? チルカにも同じようなことして外へ連れ出せねぇのか?」
リットはチルカを連れて、リゼーネ近郊にある迷いの森へ行くのが手っ取り早いと考えていた。そこで他の妖精に話を聞くのがいいと。
リットと妖精が友好的な関係を結んでいるわけではないので、リットが一人で迷いの森をうろついても姿を現さない。そもそも森の名前の通り、人間がうろついていたら迷ってしまう。
「妖精は精霊体ではないから無理に決まっているだろう。それにそのシルフもこの家から出られぬ状況だ」
グリザベルはため息をついた。バカな考えとリットに呆れたわけではなく、自分は何をしているんだという自嘲を含んだため息だ。
肉体改造をする魔女薬などあるはずもないのだ。
リットがシルフのことを考えて話しているのを聞くと、一気にやる気が失せてしまった。なにをムキになっていたんだろうと。
「魔女は逆の力って好きだろ」
「ウィッチーズ・カーズを前提にした思考をしているというだけだ」
「だからよ、このシルフの分霊とは逆の魔力を使ってみれば、外へ追い出されるってことはねぇのか?」
「我もそんなことは考えついていたわ。だが、精霊だから出来ることだ。どれだけの魔力を使っているのが想像もつかん。ゴーレムを作るのとはわけが違うのだ」
「そのゴーレムの時に『依代』って話をしてただろ? 人間は魔力の器が小さすぎて無理だけどよ。妖精ならどうだ?」
「ちょっとちょっと……なに不穏なことを話し合ってるのよ」
チルカの心配に震えた声など無視するように、グリザベルは大きく頷いた。
「なるほど……。もし阻害対象がチルかとシルフならば、二人を合わせて新しいモノと認識させれば家から出られるかも知れないということか……。もしそれで家を出ることが出来れば、原因がなにかわかるかも知れぬな……。問題は――」
グリザベルに視線を向けられたチルカは、好き勝手やられては敵わないと大声で吠えた。
「そうよ! 問題は私で危ない実験しようとしてるってこと!!」
「――問題はシルフの力が未知数ということだ。今回は精霊そのものではなく分霊だからな……」
「未知数でもよ、精霊が協力的ならなんとかなるんじゃねぇか? 前回もサラマンダーとノームの時もそうだしよ。ウンディーネの時も、上手くやれてたぞ。チルカと一つになれるっていうなら協力するだろうしよ」
シルフは「チルカちゃん好き好き」と、リットの考えを肯定するように言った。
「ならば試して見る必要があるな……」
グリザベルはいい考えがあると工房を出ようとしたが、階段に足を乗せたところで止まってしまった。
「なにやってんだよ」
「暴徒の声が聞こえるのだ……」
「仕方ねぇな……」
リットが工房を上がって店へと戻ると、女性客は対応の悪さに苛立っていた。
「リット! 遅いわよ!」
「悪いけど、店じまいだ」
「期待して来たっていうのに、そんな勝手な言い分が通ると思ってるの?」
「そっくりそのまま返したいところだけどよ。一言付け加えてやる。夢物語を見てぇなら、期待で胸を膨らませろ」
リットが言い終えるのと同時に、ビンタが頬へと飛んできた。
そして、その音にノーラが手を打つ音が混じった。
「その手がありましたよ!」ノーラはシルフを連れて戻ってくると、「さぁ、お願いします」とはやしてた。
「なにさせるつもりだよ……」
リットはジンジンと痛む左頬を押さえながら、余計なことならするなと釘を差した。
「なにって、旦那が言った通り。気体で胸を膨らませるんスよ」
ノーラが言うと、女性客のスカートが強風に翻った。
あまりの強風にリットは目をつぶるしかなかったが、再び目を開けた時には信じられない光景が瞳に映し出された。
女性客の胸が膨らんでいたのだ。
正しくは服が膨らんでいる。今にも張り裂けそうなほどパンパンに膨らんでいる。まるで球が二つ入っているようだった。
「まさか……これが胸を大きくするってことじゃないでしょうね……。こんなの胸の部分が出ただけじゃない」
女性客は呆れたような言い方だったが、口元ににへらと笑みを浮かべているのは隠しようがなかった。
胸と服の間に入って大きく見せている空気なのだが、その感触はまるで本物の胸のように適度な張りと柔らかさを持っているのだ。
「腹も出てるぞ」
女性客は慌てて服の裾を押さえた。急に胸のサイズが大きくなったことにより、シャツが胸に引き上げられてへそが丸出しになってしまっていたのだ。
そして、急にシャツを引っ張ったことにより、胸元もビッと破けてしまった。
女性客は「あっ!」と声を上げたかと思うと、満更でもない笑顔を浮かべた。「巨乳の人は、男の視線に敏感っていうのは本当なのね。見たでしょ? 一瞬でも視線が胸にきたらわかるんだからね」
「……見たぞ。一瞬で胸だけじゃなくて顔も値踏みして、これ以上見続けたらがっかりするかどうかも考え終わってる」
「ありがとう、最低な返しを……。でも、気分は最高」
女性客は代金を支払うと、上機嫌で店を出ていった。
列を作っていた女性客達は、出てきたばかりの女性の胸が膨らんでいるのを見たので、噂は本当だったのだと店へ押しかけた。
シルフが空気を入れるのは一瞬なので、暴動のような来客もあっという間に終わり、まさしく嵐が去ったあとのような静けさを感じていた。
「シルフってのは騒動と一緒に幸せも呼び込むのか?」
リットは一瞬にして儲かったのですっかり上機嫌になっていた。
なにせ元手がただなのだ。こんなに美味しい商売はない。
「アンタねぇ……精霊をこんな扱いするなんて。どうかしてるわよ……」
「ノーラに言え。オマエのハチミツがどうなってもいいならな」
リットは今稼いだばかりの金をノーラに渡し、酒と食料を買ってくるように言った。
ノーラが元気に店を出ていくと、ようやく静かになったとグリザベルが上がってきた。
「まったく……なにをしたかはわからぬが一安心だ」
「それで、なにをするつもりだったんだ? 試すってなんだよ」
「ゴーレムを作るのだ。ランプを借りるぞ」グリザベルは売り物のランプを手に取ると、床に魔法陣を敷いて、その上に乗せた。「今から店を出て戻ってくるように命令を出す。もしも、ゴーレムが店から出られたら、魔力が原因ではない。チルカとシルフが原因ということだ」
簡単な命令なので魔法陣の書き換えも短く、グリザベルはあっという間にランプをゴーレムに仕立て上げた。
ランプゴーレムは飛び跳ねるように移動し、ノーラが閉め忘れた半開きのドアの前で一旦止まった。
だがそれは一瞬で、体を押し付けるようにしてドアを開いて出ていくと、すぐに店へ戻ってきて魔法陣の上で止まった。
「うそでしょ……」
チルカはうなだれた。
これで、リットとグリザベルが話していた通り、家から出るには自分ではないものになるしかないということだからだ。
「胸がつぶれる思いよ……」
「そりゃ大変だ。シルフに空気でも入れてもらえよ」
リットがからかって笑うと、それを本気にしたシルフは慌ててチルカの服を膨らませた。
力の調整を間違えたのか、チルカの服は膨らみすぎた空気で弾けた。
「胸が裂ける思いってやつだな」
たまらなく面白いと大笑いするリットの右頬にチルカの拳が飛んできた。
「胸糞悪いわね!」