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さよなら、それまで話そう

作者: 穹向 水透

59作目です。四つでひとつのシリーズの第一作目です。



 四時限目の終わりを告げるチャイムが響き渡って、言ノ葉舞音(ことのは まね)はぐずぐずと顔を上げた。ぼやけていた視界が戻り、黒板に数式がだらだらと書かれているのを見て、ひとつ欠伸をした。

 また寝てしまった。そろそろ勉強に集中しないといけないのに。

 でも、寝てしまう授業をする教師がいけないのだ……。

 そんなことを考えながら、形だけ出しておいた教科書とノートを鞄に仕舞い、代わりに弁当の袋を取り出した。今日はきっと昨日の残り物の唐揚げとサラダだろう。そう思いながら弁当箱を袋から出していたら、前方で椅子がガタッと鳴った。

「舞音ったらまた寝てたでしょう?」

「バレてた?」

「うん。腕までしっかり伸ばしてたし、突っ伏してたし……気持ち良さそうに寝てるなって見てた」

 麻宵(まよい)あせびは舞音の机にコンビニの袋を置いた。中には惣菜パンがふたつとジャスミン茶が入っていた。 

「またコンビニ弁当」

「えへへ。いいでしょう?」

「そうかなぁ。あ、あせび、あとでノート見せてね」

「いいよ。唐揚げ一個くれたらね」

 あせびがそう言うので、舞音は唐揚げをひとつ箸で摘まんだ。

「ほら、あーん」

「あーん」

 舞音はあせびの口に唐揚げをそっと入れる。

「ん、美味しいねぇ。じゃあ、ノート見せたげるよ」

 あせびは笑って言った。彼女の長い髪が彼女が笑うのに合わせて幽かに揺れた。ちらりと見えた耳にはピアスが見えた。いつか、舞音がプレゼントしたピアスに違いなかった。

「おふたりさん、お待たせ」

 また声がして、舞音はそちらを見る。ボーイッシュな髪型の灯袋蛍(ひぶくろ ほたる)とルーズサイドテールの葉夏一華(はな いちか)が購買で買ったらしい弁当を持って立っていた。ふたりは近くの椅子を引いてきて、そこに腰掛けた。

「購買は混んでる?」

「まぁまぁだね。何か用があるの?」

「あとで修正テープを買いに行こうかなって」

 あせびがコンビニの焼きそばパンを頬張りながら言った。

「何だ、言ってくれたら買ってきたのに」

 蛍が笑いながら言った。彼女は購買のカツ弁当を食べている。

「一華、今日は体調はどう?」

 舞音はひとり黙っている一華に訊ねた。彼女は元から寡黙なタイプで、肉体的にも精神的にも脆弱なところがある。世話焼きだと自覚している舞音はこういうタイプが放っておけないのだ。

「至って元気だよ」

 一華は微笑んだ。気を付けないと割れてしまいそうな笑みだった。

「ねぇ、次の時間って何だっけ?」

 舞音が話を振る。

「ん? 次はー、体育じゃなかった?」

 あせびが答える。

「そうだよ、体育。今日はプールでしょ、確か」

 蛍がさらに詳細に教えてくれる。

「あせびと蛍は泳ぐだろうけど、一華は?」

「私は見学かな」

 一華が透き通った細い声で言う。

「良かったー、私も見学しようかなって」

「え、舞音も見学するの? えぇ、私も見学したいんだけど……」

 あせびがフィッシュフライの挟まったパンを食べながら言った。

「あせびは何処も悪くないだろう? 舞音は数日前まで風邪引いて休んでたんだから見学くらいさせてやらないと」

「うぐぅ……私も風邪引いとくべきだったよ」

 あせびがさも悔しそうに言うので三人は笑った。これが舞音たち四人のいつも通りの何でもない昼休みだ。舞音はこの他愛もない会話が飛び交う時間が幸せだと感じていた。だから、昼休み終わりのチャイムが大嫌いだった。どうしてあんなに空気が読めないのだろうといつも思うのだ。

 この日々が永遠ならば、そう思うことが終末の引き金(トリガー)になってしまうのかもしれない。そう思ってしまう。

 そう思ったのがダメだったのだと知ったのは、昼休み終わりのチャイムが鳴り響く二分前のことだった。四人は昼食を済ませて、それぞれの机に戻っていた。舞音はあせびから借りたノートを写していた。

 あまりに突然だった。呼吸が止まることを忘れるくらいに唐突で、現実味がなくて、舞音の喉の奥で乾いた音が鳴った。教室の誰かがひとつ笑いを漏らして、それがすぐに伝播した。

 スピーカーから流れてきたのはチャイムでも放送部の流す音楽でもなく、校長先生の声だった。そして、それは酷く震えていた。

 その震えた声は言葉のひとつひとつを噛み潰すように言った。

「世界は今日の夜に終わります」

 誰もが笑った。誰も本当だとは思わないし、思いたくないからだ。あせびも笑っていたし、蛍も笑っていた。一華はきょとんとした顔をしていた。舞音は何となく窓の外の風景に眼を遣った。

 しかし、程なくして、誰かが「ネット見てみろよ」と言って、みんなが携帯電話を取り出してから空気は変貌した。

 舞音も見た。そこには「地球は巨大隕石の衝突により六月二十五日の午後六時から午後十一時までの間に滅亡することが確実であると国連は発表した」とあった。決してフェイクニュースの類ではないのだろう。先生が教室に入ってきて、教室隅のテレビを点けた。すると、厳粛な雰囲気の会見が映し出され、避けられない絶望を発表した。

 教室がしんと静まり返る。みんな、世界が終わることが嘘ではないと理解してしまったからだ。だって、今日はエイプリルフールではないから、世界ぐるみで嘘を吐いたりなんてしないだろうからだ。

 舞音は鞄を机の上に乗せて帰り支度を始めた。自分でも恐ろしいと思うほどに冷静だった。どうせいつか死ぬから、そんな考えは普段していなかったけれど、死ぬことが確実なら恐ろしくないというのは事実だ。自分ひとりだけが逝くのではないからだ。

 また校長先生の声が流れた。さっきよりも震えていて、きっと啜り泣いているのだろうと思った。そして、案の定、「今日は帰って自由にするように」と言った。

 舞音はあせびの机に向かって、呆然としている彼女に「帰ろう」と言った。あせびは少し驚いた顔をしたけれど、すぐに微笑んで「帰ろっか」と言った。すると、蛍がやって来て、舞音とあせびの頭を軽く叩いた。

「終わるんだってね」

 彼女は言った。

「うん、終わるんだって」

 舞音は言った。

「あっけらかんとしてるなぁ……。私はまだ信じられないし、信じたくない。まだ冗談だと思ってるくらいだから」

 あせびは鞄を引っ張り上げながら言った。

「一華は?」

「ん? まだきょとんとしてるみたい」

 舞音はそう言うと、ずっときょとんとした顔の一華の後ろに回って、ぽんと肩を叩いた。彼女は小さく跳ね、恐る恐るといった感じで振り返った。振り返った彼女の眼は少し潤んでいるようだ。

「舞音ちゃん……」

「帰ろう」

「世界……終わるの?」

「そうなんだって。あんまりにも急だよね」

「終わるってことは死ぬってことだよね?」

「そうだね。でも、ひとりじゃないからあんまり不安じゃないかな。どうせ誰も生き残らないんだろうから……」

 舞音がそう言うと一華は机の上に出していた筆箱や文庫本を鞄に詰め込んで立ち上がった。彼女の眼から一筋の涙が流れたのが印象的だった。不思議と、終末の実感が湧いてきた。

 そういえば、明日は土曜日だったような気がする。隕石は学校のチャイムよりも空気が読める粋な奴らしい。

「じゃあ、帰ろうか」

「帰ろ帰ろ。帰って何するかな。私たち、あと六時間程度の命ってことなんでしょ? 何か特別なことしてみたいよね」

「蛍、彼氏とかいないの?」

「いたらとっくに帰ってるよ」

 蛍は笑いながら言った。清々しい笑顔だった。彼女は終末を受け入れているのかもしれない。もう死ぬことだって受け入れているのかもしれない。いつもより毅然とした態度で歩いているのはどうしてだろうか。

 四人が靴を履いて外へ出たところで舞音は言った。

「今日、最後の思い出作りでもしない?」

 あせびと蛍、一華はきょとんとした顔をしたが、すぐに微笑んだ。

「いいね、そうしようか。でも、何をする? カラオケにでも行く? 買い物? 誰かの家に集まる?」

「いやぁ、最後だからさ、いつもはできないことをしたいなぁって」

「いつもはできないこと?」

「そう。星を見ようよ。学校の屋上から。そうしたら、四人で揃って死んじゃおうよ。隕石が落ちてくる前に」

 舞音がそう言うと、まずあせびが手を挙げて「賛成」と言った。蛍と一華も頷いてくれた。

 こうして最後の思い出作りの約束をして、それぞれ帰路に着いた。別方向の蛍とバスで帰る一華と別れ、舞音はあせびといつもの帰り道を歩いた。いつもの帰り道であるとはわかっていても、何だか重力が軽いような気がしたし、何だか世界がパステルカラーにも見えた。

 私は終末に何かを期待しているのか?

 舞音はそう思った。でも、口にはしなかった。終末についてあせびがどう思っているかわからないし、そもそも楽しみなことは口にしない方がいいと舞音はよく知っていたからだ。



「ただいま」

 舞音が家の玄関に入った時、既に革靴があった。つまり、父親が帰って来ているのだろう。流石にブラックな会社も終末には帰してくれるのだと思うと可笑しかった。

 家の中は極めて静かだった。廊下を歩く自分の足音が反響するくらいに静かだった。終末の絶望に打たれて夫婦で静かに酒でも飲んでいるのかもしれない。或いは最後に久しい濃密な時間を過ごしているのか。

 舞音は自分の考えの不純さに苦笑いした。

 でも、終末とはそういうものだろうと思う。

「お母さん? お父さん?」

 そう言うと同時にリビングに入った。そこで静かさの原因がはっきりとわかってしまった。本来、リビングの中央にはダイニングテーブルがあるのだが、それが隅に退かされていて、何とも寂しい空虚なスペースが現れていた。そのスペースには椅子が二脚倒れていた。

「……お母さん、お父さん」

 見上げると、大きめのフックがふたつ、天井に粗雑だけれど強力に打ち込まれていて、それぞれから、これまた丈夫そうな、ホームセンターで買ったと思しきロープが垂れ下がっていた。

 そして、そのロープの先は輪になっていて、その輪が掴んでいたのが母親と父親だった。母親は床から十五センチ、父親は床から五センチ程度浮いていた。既に事切れているのは捏造しようのない明瞭な現実だった。

「死んじゃったんだね」

 舞音はそう呟いた。

 娘を残して先に逝くなんて……と思ったが、もしかすると、友人らと終末を過ごしたいということを見透かして、先にふたりで仲睦まじく逝ったのかもしれない。

 しかし、そんな考えはどうでもいい。

 退かされたダイニングテーブルの上にチャーハンと封筒があった。母親の作るチャーハンは舞音の好物だった。最後の晩餐が母親のチャーハンというのは、舞音にとっては嬉しいプレゼントだった。

 封筒にはマジックで書いた「遺書」の文字があった。

 舞音はその文字を一瞥して、チャーハンを取って、ソファに座った。テレビを点けると、無人のスタジオが垂れ流しになっている番組だった。如何にもディストピアだ。

 チャーハンをスプーンで口に運んだ。

 いつも通り、母親のチャーハンは終末でも美味しかった。

 振り返って「ありがとう」と言った。

 でも、母親だったものは何も答えたりしない。わかっていることだ。小学生だって知っている。死んでいるものが生きていないことぐらい。どんなに愚かな者でさえ知っている。

 だけど、終末くらいいいじゃないかと思う。だって、終末なのだから。先などないのだから。

 舞音はチャーハンを食べ終えて、リビングから出た。遺書は開かないつもりだった。どうせ、開いたところで何もないからだ。先に行って待っている、くらいのことが書かれているのだろう。

 しかし、何とも愚かではないか。

 この最後の最後のプレミアムな時間を削って死んでしまうとは。

 舞音は軽く唇を噛んだ。

 世界が滅ぶから先に死んでしまおう、というムーブメントが世界的に発生しているらしく、ある国では高層ビルからの集団的な飛び降りが最初で最後の流行を見せていた。ちなみに、それは「紐なしバンジー」と紹介されていて、舞音は思わず吹き出した。

 でも、まだ本当の終末まで時間がある。その時間は楽しむべく残されている。それを舞音は無駄にしたくなかった。

 最後はみんなで眠るように……。

 それが舞音の望みだった。パステルカラーの行き先だった。

 舞音は敢えて着替えなかった。何だか制服の方が演出的だと思った。世界の最後を眺めるのに相応しいような気がした。

 彼女は自室のベッドに腰掛けて、眼を閉じた。

 今までの時間がゆっくりと降下していくような感覚に囚われた。それはとても心地好いもので、柔らかく細く少し冷たい雨の中にいるようだった。走馬灯と言うのだろうか、その降下する時間の中をカラフルな泡のようなものが滑り落ちていく。読み取れた泡の中には、満面の笑みを浮かべるあせびや蛍、穏やかな表情の一華がいた。

 携帯電話を開いて時間を確認した。

 少し視線をずらせば壁掛け時計があるのに。

 彼女は自分の現代世界への適応性に拍手しつつも、その怠慢さに対して、親指を下に向けた。

 序でにネットニュースを見た。どうやら、終末より先に死んでしまおうという考えから、安楽死を求める人々が病院に押し掛けているらしい。また、農薬を飲んで死のうとした連中の遺体がホームセンターで溢れ返っているなど、舞音の見ているパステルカラーの終末とは百八十度裏返したように違う醜い終末があることに舞音は驚いた。

「そんなに死にたいのかなぁ……」

 舞音は呟いた。

「|リヴ・フォーエヴァ・イン《死という平穏の中で》……」

 彼女は唇を舐める。

ピース・イン・デス(永遠に生きられる)……」

 彼女は立ち上がり、机の引き出しを開けて、多量の、恐らくは四人なら永遠の平穏に誘えるくらいの睡眠薬を取り出した。「いつか」の「もしも」のために買っていたものが陽の目を見ることになるとは、舞音でさえも思っていなかった。

 舞音はたくさんの睡眠薬の瓶を嬉々として鞄に詰めた。

 彼女はまた唇を舐めた。

 楽しみだ。

 終末間際にぼやけた頭で見る夢は、果たしてどんなに美しいのだろう。どんなにカラフルなのだろう。きっと、人類最後の芸術だ。

 鞄の半分が睡眠薬になった。

 いや、もう睡眠薬なんて無粋だ。

 鞄に詰まっているのは夢だ。

「夢だね」

 彼女は鏡の前でおどけてみせた。いつか夢見たドレスのプリンセスみたいに、優雅に一回転してみた。

 お姫様にはなれた。

 でも、それは母親と父親視点の話だ。

 王子様には会っていない。

 会えるのだろうか。終末の刻までに。

 彼女は部屋をぐるりと見回してから出た。リビングには寄らなかった。どうせ寄っても何もないのだから。

 ローファーを履いて外に出た。

 空は仄かな青色。今日はよく晴れている。直に赤らんで、藍色になっていくのだろう。浮かぶ雲のひとつひとつが今日で終わりを迎える。いや、どうだろう。誰も彼もいなくなった世界でだって、雲は悠然と空を泳いでいるのかもしれない。

 静かなものだ。

 たくさんの人がもう死んでしまったのだろうか。

 有史以来、今以上に自殺が推奨されたことがあっただろうか。死ぬことが確定したから自殺が肯定されるのなら、そもそも死ぬことが確定している自分たちは、いつ、どんな風に自殺しようと、文句を言われる筋合いはないだろうに……。

 舞音は空を仰ぎながら考える。

 そして、歩き出した。

 もうみんないるのだろうか。

 いや、でも、まだ早い。

 腕時計の針は澱みなく動いている。

 舞音は耳に触れた。

 いつか、あせびがくれたピアスの存在を確かめた。

 道沿いの木で鴉が鳴いていた。何となく見てみると、鴉が向いている方の家の縁側で誰かが首を吊っていた。

 あーあ、と舞音は思いながら通過した。

 やっぱり、死んでしまうのか。

 虚しいものだと思った。





 学校の校門は開いていた。最早、閉じる意味さえないからだ。

 舞音はローファーのまま校舎に入り、階段を上って、上って、屋上に至った。普段は鍵が閉められている屋上だが、今は開いていた。もう誰かが来ているのかもしれない、と思った。

 ドアは軋みながら開いた。

 開けると、六月の終わりの湿っぽくて温い風が舞音の髪を揺らし、頬を掠めた。ピアスが揺れた感覚もあった。

 殺風景な白い屋上である。

 青空がなければ何もない。

 来たのは、いつかの集合写真以来だろうか。別に普段は来たいとも思わない。でも、今日はここで星を見たいと思った。学校に思い入れがあるわけではない。寧ろない。眠ってばかりいたのだから。

 不思議なものだと彼女は思った。

 遠くでヘリコプターが飛んでいた。

 何処に行くのだろう。月にでも逃げるのだろうか。

 そういえば、国際宇宙ステーションはどうなるのだろう。そこにいる宇宙飛行士たちは母星、帰る場所を喪失して、どうするのだろう。やっぱり、自殺するのだろうか。

 ある意味で彼らにとっても終焉なのだ。

 舞音は屋上をゆらゆらと歩きながら考えた。

 ふと、屋上の隅で綺麗に揃えられた靴を見つけた。靴の下には破ったノートが一頁あった。

 誰かが飛び降りた。明白だった。

 舞音は敢えて下を覗かず、紙を拾い上げた。

「……何処にも居場所がないので、ここで死ぬ愚かさを許して下さい、か……」

 彼女は遺書にあった、たったそれだけの文を読み上げた。

「居場所ね……どうせみんな死ぬのに居場所なんて……考える必要がわからないなぁ」

 舞音は遺書を元に戻して、屋上の中心に移動して座り、遥かな碧落を見上げた。終わり知らずの空だ。まだ「おはよう」と言いたげな……そんな空模様で、舞音は「おはよう」と返した。

「うん、おはよう」

 声がして、そちらを見ると、あせびが立っていた。彼女も制服のままで、大きなビニール袋を持っていた。

「あ、あせびだぁ」

「お待たせ。あぁ、いいね。屋上なんて入学以来初めてかもしれない。これこそ青春って感じかするよね」

「ちなみに、初めてじゃないよ。集合写真撮ったでしょ?」

「私、そういう記憶はできない質なんだ」

「知ってる」

 舞音はクスクスと笑った。

「そのビニール袋は何?」

「ん、これ? あぁ、お菓子だよ、お菓子。どうせまだ時間あるし、蛍と一華も来てないから、適当に食べながら待ってようよ」

「そうだね。ブラックペッパーのポテチある?」

「勿論だよ」

 あせびがビニール袋から取り出して舞音に渡した。

 ふたりはポテトチップスを開けて食べた。飲み物はあせびがコーラで、舞音はジャスミン茶だった。彼女はちゃんと好物を知ってくれている。長い付き合いだから、と言えばそれまでだけど、それ以上のものがあせびにはある、と舞音はいつも思うのだ。

「ん、何?」とあせび。

「何でもないよ。見てただけ」

「そう。いくらでも見てて」

「ちゃんと、ピアスしてくれてるんだね……」

「舞音だってしてくれてるよね」

 彼女は割り箸でポテトチップスを摘まみながら微笑んだ。

「うん。大切なものだからね」

「嬉しいなぁ。泣いちゃうよ、私。ただでさえ、終末で涙腺ゆるゆるだったりするのにさぁ。狡い狡い」

 彼女は眼を擦りながら言った。

「泣いてもいいよ」

「そうだねぇ、機会があったら泣かせてもらうよ」

 彼女は笑った。風に長い髪が揺れて、彼女の白い顔が光に照らされた。同性ながら、麻宵あせびという少女は美しいと思う。

 いつも羨ましいと思う。

 自分では人がそう見えるのは普通なのだろうか。

 蛍は正義感が強いし、凛としている。強くて真っ直ぐな眼をしている。自分とはとても違う。舞音は彼女みたいに強くなれないといつも思う。きっと、生まれ持ったものなのだろう。

 一華は儚くて、繊細だ。今にも砕けてしまいそうだ。ガラス細工みたいだ。彼女は自分を表に出さないけれど、舞音は彼女の不思議な感性を知っている。とても冷たくて深いものだ。

 自分とは違う。当たり前だ。他人なんだから……。

 時間が流れているのは雲が教えてくれる。空が教えてくれる。もう上方は赤に染まっている。やがて、夜が来る。人類史最後の夜だ。

「夜だね」

「うん、夜だ」

「もうすぐってことだね」

「蛍と一華、遅いなぁ。何かあったのかな」

 あせびが訝しげな顔をして言う。

「家族がもう道連れにしてたりしてね……」

「……舞音の親も死んでた感じか」

「そう。勿体ないよね。こんな貴重な時間なのに……」

「そうだね」

 あせびはゆっくりと微笑んだ。

 時間の速度は感覚を上回っている。もう赤は藍色に淘汰され、今は密度が濃くなった空に白の点がぽつぽつと灯り出していた。

 夜である。

 誰もが待ちに待った、望まれぬ夜の到来。

「見て見て」

 屋上の手摺に凭れていたあせびが舞音を呼んだ。

 彼女は街の方を指差していた。舞音がそちらを見ると、灯りは疎らで、大半の人間が既に命を絶ってしまったのだと思われた。

 まさに終末、現代における終わりのイメージ通りの世界。

 舞音は不謹慎に思いながらも、自分の心が遊園地で燥ぐ子供のように激しく動いているのを感じていた。

「今、何時かな?」とあせび。

「午後七時半。まだ来ないね」

「どんなスピードで来るにしても、もうそろそろ光くらいは見えると思うんだけどなぁ……」

「そろそろ、かな」

「ん? 準備?」

「そう」

 ふたりは手摺から離れて、屋上中央に戻った。そこにはあせびが持ってきたレジャーシートが敷かれている。

 舞音はそこに寝転んだ。

「あ、凄い凄い。星だよ、もう、これが満天の星ってやつなんだね。あせびも見てみてよ。プラネタリウムみたい……」

「どれどれ」

 あせびが舞音の横で仰向けになった。

「いやぁ、確かに凄いね。綺麗だ」

「何でこんなに綺麗なんだろうね」

「フィナーレだからだろうね」

 あせびが言った。

 舞音は彼女の方に手を伸ばした。柔らかな髪が舞音の手を擽った。手は彼女の頬に達した。彼女の頬は少し冷たかった。

「どうしたの?」

「蛍と一華、来なかったね」

「仕方ないさ。でも、私が来ただけいいでしょう?」

「そうだね」

 舞音は星空を呆然と眺めた。

 手はあせびの頬に触れている。

 心音。

 星が瞬く音のようだ。

 あの煌めきのひとつになれる。

 そんな気がした。

「ねぇ……」

「どうしたの?」

 舞音が訊き返しても、あせびは黙っていた。

「どうしたの?」

「いや、何でもないよ……」

「変なの」

「そう。私は変なんだよ。舞音だって変だよ」

「そうかな?」

「うん。だって、舞音は今が一番楽しいと思ってる。世界が終わっていく今が一番幸せだと思ってる」

 舞音は眼を閉じた。星が瞼の裏側で淡く光った。

「そうかもしれないね」

「変でしょう?」

「変だね。でも、あせびもきっとそう」

「あはは。そう。私も楽しい。歴史の最後に舞音といられること。きっと、神様がいたらふたりで星座になれるよ」

「神様がいたら歴史は続いてるんじゃない?」

「神様だって飽きもするさ」

 あせびは笑って言った。

「さて、そろそろ本当に準備しようか」

「うん」

 舞音は鞄を開けて睡眠薬を取り出した。四人分あるけれど、ここにはふたりしかいない。つまり、死ねる確率が高いということだ。

「睡眠薬ってさ、たくさん飲むと吐いちゃうらしいね……」

 あせびは睡眠薬を瓶から出して、手に乗せながら言った。

「苦しいのかな?」

「わかんない。たくさん飲むの初めてだから」

「私も」

 あせびが手に乗せた無数の白い粒を口に押し込んだ。続いて、舞音も同じように飲み込んだ。身体の中を粒が落ちていく感覚があって、次第に身体を起こしているのが億劫になった。

 仰向けになり星を眺める。

 心音。

 さっきよりも激しい。ピアノみたいだ。

 呼吸。

 穏やかなようで荒い。心音に同期しているのか。

 星空。

 あまりにも美しい。等級なんかないように犇めき合っている。

 あせび。

 呼吸音が聞こえた。

「ぼんやりしてきたなぁ……」

 あせびが言った。

「奇遇だね……私もだよ」

「あはは。楽しいね。死ぬことが愉快に思えるなんて。終末ってのは人を狂わせるみたいだ……」

「楽しいね……」

「うん。楽しい……」

 花紺青の空で星がぐるりぐるりと回っている。

 死ぬんだ、と明確に意識する。

「ねぇ……」

 弱々しいあせびの声。

「何……?」

「何でもないよ……」

「また……?」

「うん……また」

「……そろそろかな」

「そうだね……」

「さよなら……」

「さよならだね……」

「でも、本当のさよならまで話そう……?」

 舞音の意識は酷く混濁していた。最早、何処にいるのか、自分の意識の在る場所さえあやふやになっていた。

 でも、死ぬその時まではあせびと話したい。その気持ちだけは揺れ動かないものだった。

 もう、眼は開かなかった。

 呼吸と心音が五月蝿かった。

 神経が震えているような気がした。

 あせびの声がぼんやりと聞こえた。

 舞音は幽かな笑い声で返す。

 外側は何も聞こえなくなってきた。

 内側で響くものだけが聞こえる。

 現実。

 もう乖離した。

 虚構。

 今はその中。

 激しい寝息。

 誰かの。

 沈没。

 深海、或いは宇宙。俗に言うアビス。

 言ノ葉舞音という人間はいなくなった。

 今は何もない。

 エラー。

 信号消失……。

 信号消失……。

 信号消失……。

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[一言] 他人を自殺に誘導したり、暗示をかけるような文章は 呪いのお札と同じです。 フィクションだから許される? 他人の不幸を呪うことが許されるんですか? 大目に見れるんですか? 自分がそうやって他…
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