星空
***
押し寄せてくるのは柔らかな風ばかりだった。秋の初め。空気は、熱いものと冷たいもののちょうど真ん中ぐらいの空気で、とても快適だった。
夜。ぼくは湖のほとりの草場に座り、彼方に連なる山上の星空をぼんやり眺めていた。
星屑が無数に煌めく美しい夜空だった。その中の、薄い赤紫色をした星団のような、輪郭の曖昧なスモークが特に目を奪う。
「青い星があの中にあるね」
「そうね」
ぼくが言うと、傍らの彼女は即座に返事した。
「大きい星ね」
「……何ていう星なんだろう?」
二人は視線をまっすぐに向けていて、つまり平行で、交わってはいない。ぼく等はただ星空を眺め、その麗しさに感激していた。そうだ、少なくとも、ぼくはそうだった。
「さぁね」
そっけない返事は、彼女のもの。あぁ、ひょっとすると、星空が麗しいと感じているのはぼくだけで、彼女は無関心、無感動なのかも知れない。
「名前なんて、何でもいいよね。たとえあれが、どんな名前であって」
「そうよ、どうせすぐに忘れちゃうんだもの」
忘れちゃうような名前だとすれば、そう、知る必要も、覚える必要もない。
「ふふっ」
彼女は悪戯っぽくクスクス笑う。黒いミドルヘアーは、星空の微光を受け、微かに光っている。
「……?」
ぼくは戸惑いを覚え、彼女の方に目をやる。すると彼女は、笑う時の、拳で口元を隠す恰好でおり、ぼくを上目遣いで見てくる。その目付きは、やっぱり、愉快な悪だくみをする子供のそれに酷似していた。可愛くて、生意気で、そして、真意が不可知だった。
ぼくは尋問したい気持ちで目を見開き、じっと彼女を見つめる。
「……」
「なぁに?」
「……」
「どうしたの」
「名前」
「え?」
「君の、名前……」
「……」
唇が触れ合いそうになるほど、ぼくと彼女の顔が近付く。吐息を感じる。無臭の、清潔そうな吐息だ。思うに、彼女の、そう、彼女の素性を確かめようとする意図が、ぼくを彼女へと接近させるのだろう。彼女は一体何者? 友達? 彼女? 赤の他人? ぼく等は、ずっと前から知り合いで、お互いの好きな食べ物とか、好きな色を知っていたりする? それとも、それとも……
《そうよ、どうせすぐに忘れちゃうんだもの》
彼方にある連山は湖を取り囲む形で連なっている。要するに、ぼく等の後ろにも稜線は続いているわけだ。
「あなたの、名前……」
「……」
赤紫のスモークは、まるで夕方の雲のように棚引いて、怪しげに流れる。
スゥ、という吐息が聞こえる。彼女の吐息だ。そしてぼくはぎょっとする。彼女はにっこりとする、まるでぼくの動揺を見出して喜ぶかのように。
青い星。赤紫をした、夜に取り残された夕の雲が抱く、唯一の、青い星。その星が、彼女の澄んだ両の瞳のそれぞれの中央に浮かんでいるのだ。同一の輝きだ。彼女はあの大きな星を両目に宿しているのだ。
その青は、地球の青ではなかった。電光のような白みを帯びた青で、ずっと見ていると、眩暈がしそうだった。
ぼんやりしていると、ふと、唐突に唇に肉の感触がする。そして鼻の下に吐息がかかる。微温の吐息。両手を草場に突いて、彼女は身を乗り出すようにして、ぼくの方に首を伸ばす。
目を開いてするキスは、何だか滑稽だ。彼女は目を閉じているけど。
ぼくが抱いた疑問は、頭を撫でる時のような優しい手付きで抑圧され、そして押し潰される。ぼくは彼女の素性に限らず、何もかもが最早どうでもよくなってしまう。そこはかとなく、欺かれたような心地にもなる。
忘れてしまえば楽だ。あるいは、忘れてしまうという行為は、苦痛を消すこと、和らげることなのだろうか。
そもそも、ぼくは覚えていたのだろうか。彼女の名、彼女の甘い香り。そうでなければ、ぼくは思い出すという行為を試みることなどなかっただろう。
きっと、彼女の名は、ぼくにとって、苦痛を伴う響きのするものだったのだ。そうに違いない。
キスはまだ止まない。息がだんだんと苦しくなってくる。まるで彼女がぼくを食ってしまうというような勢いだ。
押し寄せてくるのは、唯一風ばかり。初秋の風。落ち着かせる優しい涼しさ。夏のなごり。寂寥の感じ。内容など全くない、虚無の流れ。
秋の風は、ぼくの体さえ透過して、心臓にまで、心にまで、その涼感を運んでくる。
そしてぼくは、彼女の頭の向こう側に、あの青い、彼女の瞳が、妖艶な赤紫のモヤモヤの中で、ミステリアスに瞬いているのを見つける。
***