鬱?
部室まで続く階段をいつの間にか目を瞑っても歩けるようになったのは入部から数日後のことだった。
入部すらもまともに考えていなかっただけに、この変化に戸惑わないかと言われればウソになる。しかし人間案外なれるものだと自分に関心すら覚えるのもまた事実。初日から心折れそうになったことなどすっかり忘れ私は何事もなく部活動を続けていた。
ふと、続けられている要因はなんなのかと考えてみれば一概には言えないものの、土屋涼の存在が大きいだろう。
なぜなら意外や意外、毎日嫌味を言ってくると考えていた部長こと土屋涼が全くと言っていいほど何も言ってこないのだ。
仕事が無いというのも理由の一つだろうが事実の方が圧倒的に大事。おかげで重かった足取りも今では陸上選手ばりに軽やかになっている。人間ポジティブ過ぎるのも良くないが悪い方にばかり考えても良くないに決まっているのだ。
階段を上り教室がある廊下へと出る。
そこにはいつも通り人影が無く若干の不気味さを醸し出す薄暗い廊下が顔を出した。ここに来る足取りは軽くなったがこの廊下の不気味さにはまだ慣れない。
幽霊なんて者を信じてはいないがこの人気の無さをこう毎日見てしまっては何かしらの云く付きなのかと疑ってしまう。
不安を胸に押し込めながら、いたって平常ですよと、いつもどおりを装いつつ歩いて部室へと向かう。
今日までツッコミ所もなくうまくやってきたのだ。
下手にからかわれない為にも弱さを見せるわけにはいかない。仲良くなんてしたくはないが、ただ一緒にいて不快な思いはさせずさせられずに上手くやっていく必要はある。
ここだけの関係。いわば仕事仲間だ。
せっかくだからこれを良い機会と捉え仕事での付き合いというものを練習をしておくのも悪くはないだろう。
部室の前にやってくる。両手を広げて一度だけ深呼吸。自分に気合を入れドアを開けた。
「お疲れ様。いつも早いわね」
「ああ」
昨日と同じ場所で読書に励む彼は目だけをこちらに向けて挨拶を返すと、何事もなかったかのように視線を本へと戻す。
「………」
挨拶だけ交わすと、設置されている手近な椅子に座り鞄を机の上に置いた。
先に座ってしまったが、一応ここに座って良いか聞こうと涼の方を見るとこっちには目もくれず本に没頭している。
突っかかって来ないだけありがたいが、この部屋に入るまでそれなりに自分を誤魔化しただけになんだか非常に面白くない。
ここ数日、初日みたいに絡んでこないし…もしかして重い病気ですか?
「いきなり何を言ってるんだ君は。そんな訳ないだろう」
じゃあ、何故おとなしいのか。鬱?
「それも違う」
じゃあ、なんなの? 気味悪いんだけど。
「……見てみろ」
彼は渋々といった感じで扉の方を指差す。
「君はわかってないんだろうが結構見えるんだよ。ただ部屋に入るだけで両手を伸ばして深呼吸なんぞしてるのを毎回見せられたら、さすがに気を使う」
言われ、指された扉の方を見る。
学校の扉は基本スライド式で木材を使用した扉なのだが、顔の部分、つまり中央上部はモザイクのかかったガラスで出来ていて、その前に立つと人の存在がわかるようになっている。
つまり私とはわからないものの誰かがドアの前で深呼吸やら、両手を広げてたりしてたのは丸わかりだろう。
「うっ……!?」
最悪だ……妙な想像を膨らましていた自分がバカらしくなる。今更、こんなことに気付くだなんて。
手を額にかざし、隠すように下を向く。
気まずい…気まず過ぎる。それこそ深呼吸でもして心を落ち着かせたい気分だ。口の上手い人ならいざ知らず、私がここでなにか言えば、墓穴を掘るのは目に見えてるし…いや、もう掘ってるんだけどこれ以上の醜態をさらしたくないというか…
「こ…今度から気をつけます」
何故か敬語でそれだけ告げると、カバンから今日の課題を取り出した。
気にしていませんよアピール? もあるが、決してそれだけではない。というより私がここへ通うようになってからは、ここで課題をやってしまうのが通常業務になっている。
仕事がない日はなにをやっても良いと言われているし、涼も特になにも言わない。それは今日も変わらなかった。雰囲気から察するに今日も仕事がある気配は皆無である。
他人がいる空間で勉強するなど集中できないので基本は自分の部屋でこもってやるのだが、学校から出る課題ならたいした時間をかけることなく解くことができるし、この空いた時間を無駄にすることもない。さらにいうなら、さっきまでの醜態を早く忘れたい。
気まずい空気を押しのけるように課題を広げると、ミスが無いよう盤面に集中する。
推薦を貰えたとしても自力がなければついていけないし、無駄にできる時間は少ない。私は天才でもなければ、読書を続ける誰かさんとも違うのだ。アイツが頭良いかは知らないが。
「…………」
無言の空間の中でシャーペンの音と本を捲る音だけが響く。
「…………」
———集中できない
そう思い、何年も誰かと一緒の空間で勉強することなどなかった。
だから、自分に驚いた。たった数日でしっくりきていることに。
気を使わない。気にならない。無言でも気まづくならない。
ここだけ切り取れば、確かに楓の言う通り、この男には私に触れる何かがあるのかもしれない。
「……まぁ、どうでも良いんだけどね」
だが、だからといってこれがなんなのかなど考えはしない。恋愛などはありえないし、仲間意識が芽生えたわけでもない。
同じ部活のメンバー———
今はそれだけが、はっきりしてれば問題など微塵もないのだ。
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