卵の女
怪談が好きな三郎くんは、一人で心霊スポットの探索へと出掛けるのが趣味でした。
今日から夏休みが始まりましたので、沢山の心霊スポットを回る予定です。
三郎くんは幽霊がいるかいないか、それ自体にはあまり興味がありません。今まで行ってきた心霊探索でも、一回も幽霊といったものに遭遇したこともなければ超常現象を体験したということもなく、そもそも三郎くん自身、幽霊心霊といった類のものを全く信じていないのです。
それならば何のためにそんなことをしているのかというと、誰も寄り付かないような陰気でうらぶれた場所に行き、そこを一人で歩くという非日常感が、現実の窮屈な抑圧から自分を解放させてくれる一時であったからです。
怪談も同じで、現実的な物語の中にある非日常感が好きなのであって、実際に幽霊がいるかいないか、作り話かどうかなどは蛇足であり、至極どうでもよいことだったのです。
昔から家族や友人に愚痴や弱音といったことを吐き出すことが苦手で、自分の意見を表に出すことができない性格の三郎くんは、いつも不満やストレスといったものを内に溜め込んで、気づけば精神的に疲弊れて、自縄自縛気味に心身とも身動きが取れなくなってしまうのです。
そんな時間を忘れ打ち込むようなものも無い、空虚で、意味を感じられないストレスだけを溜め込む毎日をおくっている三郎くんにとって、この一人心霊地探索は時間を忘れ、誰にも邪魔されずに楽しむことができる唯一の癒しであり、心身ともに日々のストレスから解放され、不思議な満足感に満たされる充実した悦びの時間だったのです。
今回は家からも比較的近場にあり、三郎くん自身も小さい頃に何度か両親に連れられて遊びにきたこともある、とても思い出深い場所、裏野ドリームランドへとやってきました。閉演してから既に十数年が経過していますが、比較的山奥にあることもあり、取り壊されることもなく殆ど人が寄り付かず、当時の形を残したままで現存しているらしいのです。
噂によると、このドリームランドの誰もいない観覧車の中から人の声が聞こえてくるらしいのです――
タスケテ……と――
思い入れも意気込みもひとしおでドリームランドへとやってきた三郎くんは、これまでにない程の高揚感に充ちていました。いつもの探索なら自分の足で行ける範囲の場所にある心霊スポットを適当に選んでいるのですが、今回は違います。
受験が控え、嫌なことばかりが最近続いていることもあって、常時よりも重篤な深刻極まるストレスが全身にのしかかっていた三郎くんは、半ば鬼気迫る思いで、まだ自分が行ったことのない、非日常感が溢れるような心霊スポットを探していました。そうしてこのドリームランドの観覧車の怪談を見つけたとき、それはもう舞い上がらんばかりの勢いで、なんて運命的なのだろうと小躍りして喜んだくらいです。
きっとここなら、今までのような心霊地とは違うぞと、そう並々ならぬ期待をしていたのです。
子供のころ日常から夢の世界へと誘ってくれた場所は、閉鎖して十何年の時を経てなお、廃園となっても形を変え自分を日常から切り離してくれるのだと、きっと幻想的な廃墟となっているのだろう……と、感謝にも似た感情が溢れているのです。
ドリームランドへの道すがら、両親に連れられて遊んだ、昔のドリームランドの記憶が自然と溢れ出てきます。退屈な日常から突然遊園地という非日常的な夢の世界へと連れてこられたような感覚、楽しかった時間、心躍った面影を思い思いやってきた三郎くんは、ワクワクしながら正門をくぐったのですが、そこにあったものは、三郎くんが朝な夕なに夢想していた幻想的な廃墟とは、それはもう程遠いものでした。
廃墟となった現実のドリームランド――
煌びやかだった遊具達は塗装が剥がれ錆び付いてなんとも惨めな姿へと変貌し、整備されゴミ一つ落ちていなかった通路は、アスファルトに幾重ものき裂が入り、雑草がボウボウと生い茂った見るも無残なものとなっていたそこは、三郎くんが期待していたような荒廃した美しさが微塵も無かったのです。
何も心躍らせることのない、ただの薄汚い廃墟となっていたのです。
その光景を目の当たりにした三郎くんは、こうなってはいるだろうなと予測していたとはいえ、想像していた幻想的な廃墟ではなかったことに、理想と現実の違いに如何ともなんともいえない、やるせない裏切られたような気持ちになってしまいました。
あのキレイだったドリームランドはもう何処にもない……
なまじ昔の面影を残しているから一層にタチが悪い……
むしろ更地になっていてくれればまだよかった……
ここにはもう何もないんだ……
無邪気に楽しませてくれるような、心躍らせてくれるような夢のような時間を与えてくれるものはもう何もないんだと、心が沈みます。
なんだこの薄汚れたさまは……
こんなものはただの死骸じゃないか……
夢のような時間を過ごさせてくれたドリームランドは、もう、三郎くんにとって、見たくもない現実を突き付けてくる、夢の死骸と成り果ててしまっていたのです。
物言わぬ夢の死骸達に現実を見せつけられた三郎くんは、心折れてすぐにでも帰りたくなりましたが、何かあるかもしれないという僅かな期待を持って、打ちひしがれながらも気を取り直し、一応の目的地である観覧車へと足を進めました。
トボトボと、死骸になった園内を歩くほどに三郎くんの気持ちはドンドンと暗く沈んでいきます。ピンと伸びていた背中は徐々に丸まり、歩幅も狭く、呼吸も浅いものとなっていきました。
辛い現実から息抜きのために、楽しみのために来たはずの場所で、見たくもない現実を目の前に突き付けられ、いつにも増して暗い気持ちになってしまったのです。
目的地であるドリームランドの観覧車は、三郎くんにとって一番思い出深い場所でした。両親と遊びつくした後、一番最後にシメとして乗るのが一番の楽しみだったのです。
そこから見える景色は、街を一望し、その街の背には広大な海が見え、後ろを向けば豊かな木々に囲まれた雄山があって、夕日に照らされたそれらの景色は、それはそれはとても夢のように美しいものだったのです。
観覧車へと辿り着いた三郎くんは、腐食して今にも崩れ落ちそうな入り口への階段を上ると、搭乗口のまん前まで足を進めました。丁度目の前にはペンキが剥がれた錆び塗れの、朱色の観覧車が止まっていましたので、何気無くその観覧車の中へと目を向けてみると、三郎くんは息が詰まりました。
錆びついた朱色の観覧車の中には、大きな赤黒い卵を抱えた一人の女がこちらを向いて立っていたのです――
三郎くんは金縛りにあってしまったかのように、体が言うことを聞かず、頭が呆っとしてただただ立ち竦んでしまいました。
赤黒い不気味な色をした子供ほどもある大きな大きな卵を、愛おしそうに胸に抱いている女……
長いまつ毛の切れ長な両目は、観覧車の薄い扉一枚を隔てた向こう側に三郎くんが立っていることなど微塵も気付いていないのか、精巧な人形のようにキレイにパッタリと閉じられています。
三郎くんは動かない体の中、その女をじっと観察してみました。
袖の無い白いチュニックのような服から覗く腕や顔は、日の光を浴びたことがないのかというほど透き通るように真っ白な色をしていて、瓜実型の顔にはぷっくりと鮮やかに色づいた深紅の唇、高く通った鼻梁、長い黒髪でパツンと目の上で切り揃えられた前髪。
美しい…………
とても美しい人形のような顔をしていると三郎くんは思いました。全く生気を感じさせないところが、精緻な人形のようだと。
見れば見るほどに、その女に対しての恐怖を伴った興味が芽生え、三郎くんは自分でも奇怪なほどにその女から目が離せなくなっていたのです。
ぼんやりとそのようなことを思っていた三郎くんは、自分の体が動くようになっていることに気が付きました。腕や足を軽く動かして確認すると、方向転換してすぐにでも帰ることができましたが、どうしても女のことをもっと近くで見てみたいという、好奇心にも、見なければならないという強い強迫観念にも似た気持ちになって、恐る恐る前に一歩を踏み出してみたのです。
一歩踏み出した左足に、右足が追いついて二つ揃いに直立したとき、その僅かな足音に反応したかのように――
閉じられていた女の目がゆっくりと開き始めたのです――
半ば本当に人形なのではないかと思っていた三郎くんは、目が開きだしたということが理解できずに硬直したまま眺めているこしかできません。ドクドクバクバクと心臓が過剰活動を始め、肺までもが心臓と連動するように過活動を始めようとしています。
パチリとその両目が見開かれた瞬間、水晶のようにクリクリとした大きな女の両目が、直立し硬直したまま驚愕の表情を浮かべている三郎くんの両目をしっかりと捉えました。
そして女は、ニィっとトテモとてもオゾマシイ笑みを浮かべたのです――
三郎くんは延髄に錐でも突き刺されたかのような痺れが全身に走り、体を動かす電気信号網が一斉に麻痺し指先一つ動かせなくなって、迸る強烈な異物感と拒絶感で、呼吸すらも止まってしまいました……。
女と目と目が合ったまま……
数秒か数分か分からぬまま時間が流れたとき、三郎くんの視線の下端のほうに映る、女の抱えている赤黒い卵が、ポゥッと仄かに光を帯びたように見えました……
すると――
ギィ……ギギィ……
動くはずの無い観覧車が、鈍い軋む音を立て、剥げ落ちる塗装をバラバラと撒き散らしながら、ゆっくりと動き始めたのです。
女は動き出した観覧車と共に視線だけを三郎くんから離さぬまま、上へ上へと上がっていきました。女の姿が見えなくなっても、三郎くんはダラダラと冷や汗を流したまま動くことができませんでした。呼吸することを思い出し荒い息を繰り返すのがやっとのことで、硬直したまま回りだした観覧車を呆然と眺めることしかできません。
女を乗せた朱色の観覧車がゆっくりと一周回って戻ってきて、またピタリと三郎くんが立っている真ん前で止まると、不思議なことに、その中には誰もいませんでした。
女の姿も、卵の姿も、まるで最初から何も無かったかのように、何処にも、スガタカタチもありませんでした――
観覧車が停止し女も卵も跡形無く消えさって、ようやく正気を取り戻した三郎くんはへたりこむと、命からがらといった体で家へと帰り、その日はシャワーを浴び夕飯も食べずに布団に入ると泥のように眠ってしまいました。
それからというもの、三郎くんはご飯を食べていても勉強をしていても本を読んでいてもお風呂に入っていても布団に横になっていても、どうにもあの女と卵のことが気になって頭から離れないのです。「白昼夢を見たのだ」などとひとりごちて自分を納得させようと試みたりもしましたが、全てが無駄に終わってしまいました。
不思議なことに、三郎くんの女と卵に対する感情は決して恐怖といったモノだけではなく、自分でも形容しがたい複雑怪奇な、あの時感じた怖ろしさオゾマシサと同等なほどに優る不可解な感情。名状し難い奇妙な感覚があって、その綯い交ぜになった感情が湧きあがり、頭から体中に絡み付いて三郎くんはとうとう精神的に身動きが取れないほどになってしまいました。
自分の想いにどうしようもなくなった三郎くんは仕方なく、次の日もその次の日も、毎日あの観覧車へと足を運びました。
いつどのような時間に行っても必ず、女は観覧車の中に居て、赤黒い卵を抱いて立っています。
けれども女はずっと無言のままで何も喋ることはありません。三郎くんを見つけるとニヤッとした笑みを浮かべているだけで、三郎くんも女に話しかけることはなく、暫くの間珍奇なお見合いが続きます。そうして二人が見詰め合って一定の時間が経つと、軋みながら観覧車が動き出し、一周回って帰ってくると女の姿も卵の姿もキレイさっぱりと無くなっているのです。
ただ、その女と卵は、会うごとに徐々に変化が訪れていました――
最初は総毛立つほどおぞましかった女の笑みも、今では険の無い好感を感じるようなこやかなものになって、人形に命が吹き込まれていくように、肌の血色も良くなり、生気を帯びて頬に赤みがさし、どんどんと人間のようになっていくのです。
そして、それに連動するかのように、女が抱えている赤黒い子供大の卵も、日に日に変化していきました――
不気味な赤黒い色が、墨と血が水で洗い流されていくように薄く薄く変色し白くなり、殻には次第にヒビのようなき裂が入っていったのです。
卵の発光現象も、最初は消えかけの蝋燭のように仄かにポッ……ポッ……と発せられていた光が、ヒビの隙間から殻を突き破らんばかりの勢いで輝くようなことさえありました。
女は卵の変化を喜ぶように、より一層愛おしそうに卵を胸に抱き、母性のようなものさえ感じさせる優しげな笑みを浮かべるのです。
変化していく卵と女に対する三郎くんの心境は、女の変化は好ましく、卵の変化は怖ろしく……といったものでした。
もう卵が孵化する…………
三郎くんはそう遠くない内に、あの卵は孵化するのだろうと感じていました。
あの卵が割れたら中から一体何が出てくるのか、そればかりを考え末恐ろしいような、同時に何が誕生するのだろうという期待感が湧き出して、何度も思考の堂々巡りを繰り返し、しまいには収まりがつかなくなってしまうのです。
怖ろしいが見てみたい、あの卵が孵化するとき、一体何が起こるのだろう?
三郎くんの足はどうしてもあの観覧車へと向かってしまいます。
夏休みの最終日、明日からまた学校が始まる……、という果てしなく暗い気持ちを抱えながら、三郎くんはまたあの朱色の観覧車の前へと来ていました。
目の前にいる女は、もう普通の人間と見分けがつかいほどに、血色が良く柔らかな笑顔を浮かべ三郎くんを向かえます。
卵は、ほぼ純白と呼べるような色になって、全身にヒビが入り、今にも割れんばかりです。
そうして暫く女と卵をいつものように無言で眺めていると、不意に、はっと何かに気付いた三郎くんは、一足飛びに卵と女への距離をつめると、最後の境界線であった女が乗っている観覧車の扉のドアノブを力強く掴みました。
パキッパキッ――
その瞬間、扉一枚隔てた観覧車の中で、卵がひび割れる音が、孵化の音が、シンとした園内一帯に響き渡りました。
三郎くんは卵から発せられるパキッパキッとした、周りの肉ごと骨をゆっくりとへし折るような孵化の音が、歓喜の産声のようにも、苦痛の断末魔のようにも聞こえました。
ついに、その卵が割れる瞬間、三郎くんは意識を失ってしまったのです――
次に目が覚めたとき、三郎くんは朱色の観覧車の中で、卵を抱いていた女に抱きしめられていました――
あの卵と入れ替わるように、女の胸の中に、背中から抱きしめられているのです――
女の胸の中には、等身大の三郎くんがスッポリと収まっています。そこには、卵もその殻も、もう何処にもありません――
そして、三郎くんと女を乗せた観覧車は、大きな軋みを上げながらゆっくりと動き出し、夕日に照らされた風景を映しながら、一周しても二周しても、終わることなく回り続けたのです――