38.わかりやすいのは
目覚めてみれば、周りには誰もいない。
眠る前と変わり映えしない景色に、ジークは眉をひそめた。
ベッドで寝ていたはずのクレイシアの姿は、どこにも見当たらない。
「イルシェ、ウルシェ! ここは夢の中なんだよな?」
誰もいない空間に問いかける。
目の前に光の玉が現れた。
『えぇ、ここはクレイシアちゃんの夢の中よ』
手のひらサイズの光の玉が、人の形になる。
ぱっちりとした目に、幼さの残る顔立ちと白い肌、桃色の頬。
甘いレースのひらひらとした服を着た少女は、誰もが目を見張る美少女だ。
これがサキュバス三姉妹の末っ子、ウルシェの夢の中での姿だった。
ちなみに夢の中では、長女のアルシェは胸の大きな癒し系お姉さんの姿に、次女のイルシェは知的な美女となる。
現実世界では丸太のような腕と足を持った、並みの男が逃げ出す外見の彼女達だが、夢の世界ではまさに理想の姿をしていた。
『この大きさが限界だけど、私がジークをフォローするわ』
手乗りサイズのウルシェの背中には、妖精のごとき羽がある。
そのままふわふわと飛ぶと、外へ行きましょうとドアへ向かった。
廊下へと出れば、立てかけてあった絵画の絵が違っていたり、装飾の一部がぼやけている。
この城はアルシェとクレイシアの記憶を元に作られているので、細部が甘いところがあるのだとウルシェが説明してくれた。
『登場人物も、二人の記憶をベースに作られているわ。人物は話すと応えてくれるけど、この人ならこういう言動をするだろうっていうシミュレーションでしかないの』
城の者達には、ジークの姿が見えないらしく、すれ違っても反応がない。
ウルシェによれば、夢の世界の住人と接触するのは危険なため、姿が見えないようにしてあるらしい。
登場人物も全員、無意識下でクレイシアと繋がっている。
夢から目覚めさせようとする異物を感知すると、クレイシアと出会う前に排除される恐れがあるようだ。
『クレイシアちゃんに接触するときだけ、実体化するわ。それと注意なのだけれど、ここではクレイシアちゃんが一番強いの。クレイシアちゃんが帰るのを拒めば、私達にはどうしようもない』
だから、ジークにできるのは説得だけだとウルシェは言った。
『ここはクレイシアちゃんにとって、居心地のいい夢だから、目覚めることができないの。夢よりも現実を選んでもらわなきゃ、クレイシアちゃんを連れ帰ることができないわ』
ウルシェは顔を曇らせる。
『居心地のよい夢からは、誰もが覚めたくないものよ。しかも透明化が始まっているから、そんなに時間があるわけでもなく、異物と判断されればそこでゲームオーバーね』
気を引き締めろというように、ウルシェは妖精のような羽根を震わせた。
もっと現実離れした、楽しい夢を見ているものだとジークは思っていた。
けれどこの夢は、現実とあまり変わり映えしない世界だ。
クレイシアが夢に囚われる理由がわからない。
「この夢、現実とそう変わらないように見えるんだが、クレイシアはどうして目覚めないんだ?」
『……』
独り言にも近いジークの呟きに、ウルシェは何も答えなかった。
困ったような顔をして、それからここにクレイシアちゃんがいるわと調理室を指さす。
そこでは、クレイシアがお菓子を作っていた。
のばした生地を型で抜いている。
その隣には、ボウルをかき混ぜているジークの姿があった。
「なんで俺がいるんだ!?」
『あれはクレイシアちゃんの夢の中のジークね。しばらく様子を見ましょう』
ウルシェに言われ、二人を見守ることにする。
楽しそうに会話をしながら、クレイシアは偽ジークと笑いあっていた。
「ジーク、チョコチップ入れすぎですよ!」
「いいだろ。多いほうが美味しい」
袋に入ったチョコチップを、偽ジークが全部ボウルへと投入し、クレイシアが怒る。
それを見ながら、偽ジークは楽しそうに肩をすくめた。
「明日のマフィンがチョコチップなしになりましたけどね」
「あっ……」
クレイシアに言われて、偽ジークはまるでしょぼくれた子犬のごとき表情になる。
自分と同じ顔なのに、まるで別人のように感情が豊かだった。
「ぷっ、そんなに残念そうな顔しないでください。仕方ないから、明日はリンゴのマフィンにしますよ」
「本当かシア! 明日のおやつも楽しみだな」
「ちょっとジーク、後ろから抱き着かれると作業ができません!」
ふきだしたクレイシアに、偽ジークはどさくさに紛れて抱き着く。
「もう、ジークってば!」
クレイシアは偽ジークを遠慮なく小突きながら、まんざらでもなさそうだった。
二人の間には遠慮というものがなく、クレイシアの態度も気安い。
間違いなく、目の前のジークは過去のジークだ。
(あんな笑顔、俺には見せないくせに)
そう思えば、すぐさま胸の奥に黒い感情が渦巻く。
ヴェルフレイムに言われたことを思い出して、ジークは心を落ち着けた。
(……たとえ思い出せなくても、過去の自分だ。嫉妬する対象じゃないし、受け入れていけばいい)
羨ましいのなら、またそういうことのできる関係になればいいだけだ。
誰も好きになったりしないと、ずっと関係が変わるのを拒んできたのは、ジーク自身だった。
――今の俺に、昔の俺と同じものを求められても困る。
自分の言葉を思い返す。
求められたなら、もっと応えればよかったのだ。
ジークだって、クレイシアに過去の自分と同じような扱いを求めていたのだから。
◆◇◆
しばらくクレイシアの様子を窺う。
姿を見せるなら、偽ジークがいないときのほうがいいとウルシェが言うからだ。
しかし、偽ジークはクレイシアにべったりで、なかなかその機会がない。
この夢でのクレイシアは、《婚約破棄》のスキルを授かっていないようだ。
ジークが記憶を失わず、二人が結婚した場合の世界ということのようだった。
クレイシアは、自分のせいでジークが記憶を失ってしまったことを後悔していた。
だから、こんなIFの夢を見ているのだろう。
「ウルシェ。一つ確認したいことがある」
「何かしら」
「あの偽物の俺は、クレイシアがこうだったらいいなと思った俺なのか、それとも、昔の俺はあんなに……わかりやすく好きオーラを出していたのか」
クレイシアと偽ジークは、作ったお菓子を食べながら庭でお茶をしていた。
偽ジークは、クレイシアとの距離が無駄に近い。
そこの皿に山盛りになっているというのに、別の味のものを食べたいからと、クレイシアの手から食べさせてくれとねだるのはどうなんだろう。
それと顔がだらしない。
端から見ていても、誰だお前といいたくなるくらいに、偽ジークは甘ったるいのだ。
あんな恥ずかしいことを、素面でしていたとは思いたくなかった。
「あーそうね、あんな感じだったわよ。でも、クレイシアちゃんジークの気持ちに気付いてなかったから、対応が今よりあっさりしてたわ。こっちが悲しくなるくらいに……」
ウルシェの口ぶりから、ジークはなんとなく察した。
ジークの好意は周りにバレバレだったが、クレイシアにだけは伝わっていなかったのだろう。
生暖かい目で見守られていたようだった。
クレイシアに想われて、羨ましい。
そう思っていたけれど、少し同情する気持ちがわいてくる。
「お茶が切れたな。少し待ってろ」
「お願いしますね」
偽ジークが席を立つ。
すると楽しそうに笑っていたはずのクレイシアの顔に、陰りが見えた。
クッキーを手にとって、ただぼーっと眺めている。
「ウルシェ。クレイシアと話がしたい」
『わかったわ。でも、すぐに偽ジークが帰ってくると思うから、今は様子見程度にしてね』
ウルシェが頷いて、何か呪文を唱える。
軽く息を吐いて、ジークはクレイシアへと歩みよった。
「……浮かない顔だな」
「あれ、ジーク? お茶はどうしたんですか?」
声をかければ、クレイシアはハッと我に返ったようだった。
「何を考えていたんだ?」
「いえ、何か大切なことを忘れている気がして……ここでこんなことをしている場合じゃ、なかった気がするんです」
どこか苦しそうな、焦燥感の浮かぶ表情。
その姿が、自分と重なって見えた。
「折角ジークとのお茶会なのに、暗い顔しちゃダメですよね! いつも叱られてるのに、本当すみません」
クレイシアは笑い、持っていたクッキーをジークの口へと持ってくる。
「なっ!?」
「どうかしたんです?」
「……何でもない」
クレイシアの行動に驚けば、妙な顔をされる。
今のクレイシアにとって、目の前のジークは過去のジークだ。
クレイシアの中に……『記憶喪失になったジーク』はいない。
先ほどのジークがクッキーを食べさせてほしいと言っていたので、クレイシアはこんな行動をとったのだろう。
恐らくは、自分が考えこんでいたことを誤魔化すために。
差し出されたクッキーは、夢の世界なのにどういうことか味がした。
『ジーク、そろそろタイムアップよ!』
ウルシェにせかされ、その場を離れる。
すぐに偽ジークがお茶を持ってきて、クレイシアは妙な顔をしていた。
◆◇◆
(誰かに忘れられるのは――気持ちがいいものじゃないな)
自分に忘れ去られてしまったときのクレイシアも、こんな気持ちだったんだろうか。
そんなことを、ジークは思う。
当時のクレイシアは、今のジークなんて目じゃないほど、相当堪えたはずだ。
自分でも冷たい態度と、突き放す言動をしていたという自覚はあった。
でもいつだって、クレイシアはヘラヘラと笑って、懲りずに構ってきた。
だから、ジークはその痛みに気づけなかったのだ。
現実に沿った夢だからか、夢の中でもクレイシアは眠るようだ。
偽ジークと一緒にクレイシアはベッドへ入る。
すると、一瞬で朝がきて、また一日がはじまった。
クレイシアは、偽ジークを起こさないように庭へ出る。
浮かない顔をしていて、ただぼーっと溜息を吐いていた。
今なら偽ジークがいない。
クレイシアを説得し、現実の世界へと戻す絶好の機会だった。
『説得のチャンスは、一度きりだと思ったほうがいいわ。拒絶されてしまったら、夢に飲み込まれて消されてしまう。そうなる前に、現実にいるイルシェお姉様に引き上げてもらって、脱出する手筈になっているわ』
ウルシェがジークを実体化させる。
しかし、ジークはその場を動けなかった。
――この世界にいるのが幸せだから、クレイシアはここにとどまっている。
例え説得しても、クレイシアがこの夢より、今のジークがいる現実を選ぶとは思えなかった。
この結果は、ジークが招いたものだ。
クレイシアを心ない態度と言葉で、傷つけてばかりいた。
今のジークより過去のジークを選んだから、クレイシアは夢から目覚めないんじゃないか。
そう思えば足がすくんで、動けなかった。
◆◇◆
チャンスを逃したジークを、ウルシェは責めなかった。
クレイシアは偽ジークとのデートを楽しみ、それをジークは眺めていた。
引き離したくてしかたなくて、見ているのが辛いのに、どうしても視線を逸らすことができなかった。
その後も、クレイシアを説得するチャンスは、わりとあった。
けれどジークは、声をかけることができなかった。
拒絶されるのが、怖い。
選ばれないのが、怖い。
自分からクレイシアの手を振り払ったくせに、臆病にもほどがあった。
これまで生きてきて、ジークには怖いものがなかった。
誰かに嫌われようと、恨まれようとどうでもよかった。
死さえ、いつか訪れるものだと受け入れていたし、退屈が終わるならそれはそれでいいと思っていたくらいだ。
そんな自分が、ただ一人に嫌われることをこんなにも恐れている。
いつからこんなに、弱くなってしまったのだろうとジークは自嘲した。
夕暮れ時。
妙な感覚をジークは覚える。
夢の世界に満ちる魔力の流れが、明らかに変わったのだ。
『もう世界が閉じかけてる。そろそろ脱出しないと、私達も危ないわ』
小さな手乗りサイズのウルシェが、ジークの肩に座る。
『ジークは、それでいいの?』
何がとは言わずに、ウルシェが言う。
「シア、帰るぞ」
デートが終わり、目の前では偽ジークがクレイシアに手を差し出していた。
「どうした?」
「……一緒に行っては、いけない気がして」
「何を言ってるんだ。シアの居場所は俺の隣だろ」
偽ジークが笑い、クレイシアの手を引く。
これを逃せば、もうクレイシアはジークの手の届かない場所へ行ってしまう。
そう思えば、ジークの体は動いていた。
クレイシアの手首を掴み、引き止める。
「……ジーク? なんで、ジークが二人いるんですか!?」
「行くな、クレイシア!」
戸惑うクレイシアに、ジークは叫んだ。
「そんな権利はお前にないだろ。シアが好きなのは、お前じゃなくて過去の俺だ。俺が好きだから、そのためにシアは傷ついて、頑張ってる」
偽ジークは、クレイシアに馴れ馴れしく触れる。
それが自分の権利であり、クレイシアもそれを望んでいるというように。
ジークは苛立ちのままに、その手を払いのけた。
「……っ。それでも、俺はこいつをお前に渡す気はないんだ!」
クレイシアが自分のことをどう思っていようが、それがジークの本心だった。
ぐっと肩を引き寄せて、クレイシアの目を見つめた。
「ちゃんと俺を見ろ、クレイシア! 過去の俺じゃなくて、今の俺を見てろ!」
格好悪い。
そう思ったが、なりふり構ってなんていられなかった。
「過去の俺ばかり求めるなよ。あいつよりも、俺のほうがずっとお前のことを……好きだ」
(頼むから、俺を――現実を選んでくれ)
願うような想いを込めて、言葉にする。
気づかないふりをしていた気持ちは、ジークの中で制御がつかないほど大きくなっていた。
クレイシアが、ジークへと抱きついてくる。
過去のジークではなく、今のジークにすがりついて、その名前を呼んだ。
「ジーク、ジークっ!!」
少し震えた体と、そのぬくもり。
クレイシアは、ずっと不安だったのだと伝えてくるようだった。
俺が迎えにくるのを、クレイシアは待っていたのかもしれない。
そう、感じてしまう。
満たされていく感覚を覚えていたら、世界がぐにゃりと歪み、偽ジークと視線が合う。
フッと笑みをこぼし、偽のジークが口を開いた。
「がんばったわね。ちゃんと、大切にしてあげなきゃダメよ?」
オカマのような言葉。
偽ジークの姿が、垂れ目の女性姿になる。
サキュバス三姉妹の長女、アルシェがそこにいた。
どうやら、サキュバス三姉妹によって、最初から仕組まれていたらしいとジークは気付く。
現実に戻れば、クレイシアの半透明だった体はちゃんと元に戻っていた。
◆◇◆
「ジークが素直になれる手伝いをするだけのつもりだったの。力を取り込まれちゃうのは、予定外で焦っちゃったけど、逆に利用させてもらったわ」
こじれた二人の関係を、サキュバス三姉妹は以前から歯がゆく思っていて、一芝居打つことにしたようだった。
クレイシアを夢に閉じ込め、そこをジークが助け出す。
アルシェ達のシナリオでは、それで仲直りの予定だったらしい。
終わりよければ全てよしというように、三姉妹の顔は達成感に溢れていた。
ちなみに、ヴェルフレイムは何も知らされていなかったらしい。
サキュバス三姉妹もヴェルフレイムも部屋から追い出し、ジークはクレイシアに寄り添う。
早く目を開けろと念じていたら、クレイシアが目覚めた。
「あっ……ジーク、おはようございます」
「おはようじゃないだろ……このバカ」
夢の中でも不思議と熱を感じることはできたが、本物には叶わない。
ちゃんと現実にクレイシアがいる。
抱きしめれば、心が安らいでいくのを感じた。
「クレイシア」
「はっ、はい……」
なんでそんなに緊張しているのかと、ジークは言いたくなる。
その唇を奪えば、クレイシアは目を丸くした。
「ちょ、ちょっとジーク!?」
「うるさい、黙ってろ」
有無を言わせずに、キスをすればクレイシアがおとなしくなる。
荒れ狂うような気持ちを言葉にはできなくて、ただぶつけた。
キスに慣れてないクレイシアが愛おしくて、たまらなく思える。
「くそっ、なんで俺はこんな面倒なのを……また好きになったんだ」
思わず漏れた呟きが、静かな部屋に吸い込まれて消えていった。




