不審火の正体
嗅ぎつけたのは、ほんの僅かな臭気。気付けば、乾は思わず車外へと飛び出していた。とりあえず発生源と思われる南の方角を睨みつけるものの、街の中央部に多い高層建築物に遮られて視線が通らない。視覚はダメだ、舌打ちしながら更に集中、場所の特定を試みる。
「…………遠いな、かなり外周部に近い。でもこれは、木が燃えてるにおいじゃねえ――ああくそ、流石に遠過ぎる!」
苛立たしげに吐き捨てるが、乾の能力が劣っているわけではない。むしろ、優れた五感を擁する中でも、特に彼の嗅覚は常人のそれとは比べ物にならない。その証拠に、付近の人間は、急に怒声を上げた大男を何事かと遠巻きにするだけで、鼻をひくつかせている者は誰もいない。勿論、後ろについてきた鈴浦も同様だ。
ともあれ、ただの火事や、ましてやバーベキューの煙の臭いではないことは間違いない。
乾の脳裏に、昼の話が過ぎる。続発しているらしい、燃焼物不明の不審火。それにもまして気にかかる、普段と全く様子の異なる友人。
「マジか、まだ何にも結論が出てねえっつーのに。こりゃもしかして、いきなり当たり引いちまったか?」
「忠猛、一体何事ですか?」
正直なところ、気は進まない。仕事ではない上に、厄介事の気配しかしないのだ。もし首を突っ込むにしても、仲間と打ち合わせくらいはしておきたかった。
だが、何かはもう起こってしまった。行けば好奇心は満たされるが面倒事かもしれず、行かねば平和に帰宅出来るがいらいらが募る。進退きわまった乾は、少しの躊躇の後に、覚悟を決めた。周囲の人垣を睨みつけて散らしながら誰何してくる相棒に、すばやく向き直る。
「何かが燃えている臭いだ。もしかしたら、例の不審火かもしれん。場所は多分、ここから南の外周部付近だ。響、お前今は丸腰だよな?」
「はい。武装は全て保管庫ですね」
「……なら、オレは現場に向かう。状況が読めねぇけど、万が一ってこともある。悪いが、先に帰って待機していてくれ」
鈴浦を連れていくべきか、いかざるべきか。一瞬迷って、やはり今回は別行動を選択した。
理由は幾つかある。
まずは、臭いの原因がまだ判然としないことだ。もし勘違いでただの火災だった場合、ただ連れて行っても野次馬が一人増えるだけになる公算が高く、ついでに車も道路に放置していくことになってしまう。
そして、遅ればせながら警告音を鳴らし始めた乾の勘が正しければ、これは単なる小火騒ぎではない。荒事になるかもしれないのに、武装無しでは一般人と変わらない彼女を同伴すべきではなかろう。何かあっても、一人だけならどうにでもなる。
「了解です。気をつけますので、ご安心を」
連れて行って貰えないことに少し不満げな雰囲気だったが、わざわざ詳細を伝えずとも、大まかな部分は察した上で、妥当な判断と認めたのだろう。鈴浦の台詞も、彼の安否を気遣うものではなかった。彼女にとって、乾忠猛の身の安全など、案じるだけ無駄な事柄だ。それだけ、絶対の信頼を置いている。
おう、と短く言い捨てた乾は、現場を目指して走り出す。最後に振り返れば、鈴浦は大人しく車に戻っていくところだった。
「――さーて、いっちょやりますか」
ともあれ、これで後顧の憂いは絶った。
途端、全身の血液がやにわに沸騰する感覚。鉄火場の気配に、乾は獰猛な笑みを浮かべる。
この都市の全域を把握している訳ではないが、幸い地理に明るい地域だ。脳内地図で確認すれば、この先は入り組んだ細い路地になっている。直線で追えば、乾の機動力を以てしても、現場まで十分はかかるだろう。
「しゃーねえ、ちっと近道するか。といっても、ばれないように、だけどな」
どんどん加速していくと、漂う空気が変化していく。段々人の流れが疎らになることで、衝突を回避する手間が少なくなる反面、道幅が狭いせいで速度自体は落とさざるを得ない。煌びやかで賑やかな雰囲気も、進むにつれて、淀んで暗いものへとみるみる変わっていった。
発展した街の中心と、荒廃した外周部。現代の連邦の各都市によく見られる特徴だが、この計画都市カイリーはその典型例といえよう。むしろ郊外の豪邸こそが成功者の象徴だった戦前とは、真逆の傾向である。
街の外周部では、十年前の一件で特に建物の被害が多く出た。遠からず再開発されると聞くが、現状では廃墟群に近い。治安の乱れおよび土地の無駄遣いを懸念する意見が、緩衝地帯として残しておくべきではないかという訴えを上回ってきたとはいえ、事業は始まったばかり。中心部を抜けると、果たして殆ど人気がなくなった。
「もうそろそろいいか。よっ、と」
右見て左。周囲の無人を確認し、乾は膝を折り曲げて、開放する。助走も体重移動すらもろくにない、ただの屈伸運動。だが、それだけでワイヤーで巻き上げたようにその身体は宙を渡り、軽々と三階建ての建物の屋上まで到達する。体重百キロを優に超える巨体が、重力を歯牙にも欠けない飛翔じみた移動をなす様は、悪い冗談そのものだ。
その暴挙を成し遂げた当人は、特に誇るでもなく、早くも二度目の跳躍準備に入る。ぐぐぐっと力をためて、跳ぶ、或いは飛ぶ。またしても立ち幅跳びじみたふざけた動きだが、細いとはいえ幾つもの街路を一息で飛び越え、目標地点に急接近していく。
「見つけた、あれだな。にしても、こりゃ……」
視界の先では黒煙が路地を埋め尽くす程に立ちこめ、少なくとも火災の発生はもはや疑いようが無い。或いは、連続怪火事件の最新版だろうか。なお、まだ距離があるこの段階で、乾には九割方臭いの正体に見当がついていた。
着地するまでの数秒、虚空を駆ける彼がとった行為は、敢えて視覚を封じての聴覚による探知だ。大量の煙で視界が覆われ、火元の視認は難しいが、幸い屋内ではないらしい。どうやら本当に当たりのようだ。事件は路地裏で起きているという電話の内容を思い出して、乾は確信を強めた。
とはいえ、無論人命第一、謎解きはその後。周囲に逃げ遅れた民間人がいないとも限らない。もし煙に巻かれて方向感覚を失えば、曲がりくねった街路では逃げ切れまい。本職の消防も、これだけ細い道には進入するのも一苦労だろう。
「――とりあえず、その心配はなさそう、だな」
乾の聴覚を以てしても、苦悶の声は聞こえない。ならばと、建物の屋上への接地と同時に、三度目の跳躍で地面へと飛び降りる。火元から多少離れて、燃焼物の正体を見極めようというわけだ。噂では、いまだ正体不明らしいが、この臭気は紛れもなく――
「あっつ。オレ、あついのは苦手なんだけど」
ホップステップジャンプの都合三回の跳躍、しかも大きく距離を稼いだのは真ん中だけだったが、乾は数百メートルを軽々と跳び越した。そして、その勢いのまま、特に衝撃を殺すこともなく、着地と同時に平然と反転。煙を吸い込まぬように右手で口元を覆ったまま、四つん這いで姿勢を低くした乾は、細めていた眼を僅かに開く。熱いのも暑いのも勘弁してくれ、なんて働いていた呑気な思考回路は、火元を見て凍結した。
――――黒煙をあげて、業火の中で、ヒトが焼かれていた。