櫻田一族と〝青薔薇〟
「それで、不審火でしたか。なんだか穏やかではない単語ですね」
繁華街の一角にそびえ立つ、大型商業施設の地下一階、乾と鈴浦は生鮮売り場を訪れていた。
年始から自宅兼事務所に引きこもっていた関係もあり、冷蔵庫の中は空っぽだ。旧知の人物からの曖昧な情報についての意見交換ばかりに集中してもいられず、予定通り買い出しに来たのだ。
「ああ。それが、殆ど中身のない話ばっかりだったんだよな。で、多分それが本題なんだが、どう思う?」
どう説明すべきか、言葉に詰まった口下手な乾は、肉の塊を吟味する相棒を横目で覗く。
――――鈴浦響。
乾忠猛の同僚にして同居人。最初に二人が出会ったのは十数年前、学生時代まで遡る。
女性にしては長身で細身。凛々しさを感じさせる表情は滅多と崩れることはなく、付き合いの浅い者には感情の動きが読みにくい。文言こそ丁寧だが、口調は割と高圧的で、詰問されているように感じる者もいるだろう。視力はずば抜けて優れているのに、目つきは悪く、ともすれば不機嫌であるかのような印象に拍車をかけているが、これが彼女の素である。これでも身内には情が深く、乾と二人きりであればかわいい部分も貌をのぞかせる。今は不特定多数の人間が周囲にいる関係もあり、その片鱗も見られないが。
ここ十年で長く伸ばした黒髪を一つにくくり、真剣な眼差しで食材を選ぶその姿は、既に三十路手前という年齢を思えば相当若々しい。彼女の学生時代を知る一般人ならば、そのあまりの変化の無さにとっくに違和感を抱いてもいいものだが、現時点ではまだ当人を含めてそれほど表面化していない。
「とりあえず、オレだけで考えても埒が明かねえ。もう一回、今度はなるべくそのまま伝えるから、響の意見を聞かせてくれ」
もしかしたら、案外すんなり正答を導き出すかもしれないと期待しつつ、乾は朝の会話を再生する。暫くして、多少の齟齬、記憶違いはあるにせよ、概ね語り終えた乾に、鈴浦は僅かに黙りこんでから、首を傾げた。
「ここ数日は街に出ていませんでしたから、真偽のほどはともかくとして、意図が読めませんね。素直にとるなら、その不審火を私たちに探って欲しいということになるのでしょうが、そのようにあやふやな情報を与えるなんて、らしくないのは確かです」
乾と同じく、鈴浦も青年とは長い付き合いだ。彼が自分たちの特性を理解していることも、承知している。
「私たちは、よくも悪くも兵隊です。これを運べ、あいつを倒せ、そういった明確な指示を果たすのには長けていますが、独断で動くのは不得手です。ましてや情報収集なんて、最も縁遠い作業でしょう」
「だよな。百歩譲って、どうしても手が足りないんであれば、それこそ素直に、そう頼めばいい。かといって、本当にただの噂話なら、わざわざ忙しい時期に連絡して来ないと思うんだけどなァ……」
「それはそうですが……まさか、何らかの異変を知らせるものでは?」
「一応、緊急事態を知らせる符丁は無かった。とりあえず、急いで救援に来てくれ、という訳ではない筈だ。けど、誰かが側にいたのは気にかかる。つーか、多分それが鍵だ。まるで、監視がついているみたいだった」
通話相手以外の第三者の存在。もし乾の思い込みではなく、実際に誰かがいたとして、そして本当に前例に無い事態が起こっているのだとして。鈴浦はそう仮定して想像してみるが、全く候補が思いつかない。何故ならば、
「……けれど、輝空也ですよ。〝青薔薇〟の監察官、つまり事実上の大陸最高権力者です」
「そう、なんだよなあ」
電話の相手、輝空也、本名櫻田輝空也。
全ての装飾と背景を除き、あらゆる誤解と誤謬を許容し、ただ一言で彼を表現するなら、このメガラニカ連邦の王だ。
それ以上、もし彼の特異な立ち位置の説明を、より詳しく、現実に即した形で試みるならば、否応なく連邦の歴史を紐解くことになる。だが、ここで全てを語るにはあまりに冗長に過ぎるので、あくまで事実のみを羅列するならば。
南の海に、幾つもの勢力が覇権を争うメガラニカ大陸があった。
長い時の中、大小様々な国が興っては滅び、進んでは退き、組んでは分裂し。
血塗られた動乱の時代を経て、七つの国に区分され、ようやく一時の平穏が訪れた。水面下ではさや当てが続いていたものの、各国の兵力と関係性が複雑に絡み合い、どうにか当面の騒乱は落ち着いた。
しかし、内憂が片付けば、外患が蔓延るものであり。内部抗争にかまけ、海外への備えを怠っていた代償は、あまりに大きかった。
遡ること二百年前。砂の大陸メガラニカは、当時既に世界最強の軍事大国と謳われていたアストラン帝国、その南下政策の脅威に晒された。突如襲来した艦隊の大攻勢を受け、最も北方に位置した国、トップエンドは、僅か数日で陥落、至極あっさりと地図上から消滅した。
ここに至り、残された六つの国は、ようやく事の深刻さを認識し、真の意味でいがみ合うことを止めた。されど、時既に遅し。長引く内戦の影響で人口は落ち込み、国外との交流を怠ったせいで技術革新も決定的に遅れていた。泡を食って対策を練り始めたが、決定的な戦力差を埋める手立てなど早々あるはずもない。
さて、ここで登場するのが櫻田一族。
大陸の東に二千キロ、双子島と呼ばれる南北の離島を古くから統治していた彼らは、それまでどの勢力にも与せず、干渉せず干渉させずを旨として独立を保っていた。本土でも古くから存在は知られていたものの、大陸東部が特に激戦区だった為に、どの国も遠征の余裕が無く、仮に首尾よく手に入れたとしても支配し続けることが難しい為に長らく捨て置かれていた土地だった。そんな離島の支配者たちは、この時殆ど初めて歴史の表舞台に姿を見せた。
メガラニカ大陸にとっては幸運なことに、アストラン帝国にとっては不運なことに、端的に言って櫻田一族とは、天才の家系であった。彼らの介入により、大陸、否、世界の歴史は大きく動いた。
ここから先は幾らでも資料が残されており、人気の演目にもなっているので、表面上だけなぞると。
当時最強を誇った帝国の軍隊は、その殆どが異国に屍を曝す羽目になった。再び故郷のて土を踏むことがかなったのは、目端が利いた強運の持ち主、或いは逃げ足の速い後詰の兵士、それも全体から見ればほんの僅かでしかなかった。
そして、見事国を護った櫻田一族の提言により、メガラニカ大陸は初めて全土統一を果たし、その名を冠する連邦が成立した。
〝青薔薇〟とは、かつて櫻田一族が率いた私兵集団を前身として設立した国家保安局の通称。平時は連邦全土におよぶ広域捜査、非常時には外敵からの領土防衛を担う、世界最精鋭の組織であり、その頂点に立つ役職名が監察官、当代は櫻田輝空也という青年である。
「確かに、名目上、メガラニカ連邦は民主制。州の代表は州知事、国の代表は大統領、どちらも住民の投票によって選出されます。櫻田一族は連邦設立の立役者ではあるものの、公権力には固執せず、相も変わらず東の離島に引きこもっています」
「けどまぁ、それを額面通り受け取っている奴は余程の阿保だ。政治に興味がないってのは本当なのか、積極的に意見する事こそ滅多にない。が、大統領といえどその顔色を伺わずには務まらないことは、暗黙の了解ってやつだ。それでなくとも、軍事大国を鎧袖一触で蹴散らした部隊を全土に配置しているんだ。今この瞬間、電話一本であらゆる重要施設を制圧することも容易い、か」
「どう言い繕ったところで、このメガラニカ連邦の王は、櫻田一族。その末裔にして〝青薔薇〟を掌握する櫻田輝空也は、紛れもなく連邦最高権力者です。一体、誰が彼に圧力をかけられるというんですか?」
あり得ない、ただの気まぐれでしょう、と理詰めで否定する鈴浦に、乾は反論する言葉を持たない。確かに、理屈の上ではそうなのだが、直接言葉を交わした彼だからこそ、友人の普段とは異なる様子は無視できなかった。本来洞察力により優れている筈の女性の鈴浦が違和感を持たないのは、恐らく自分の情報伝達が下手糞だからだと、乾は若干の歯がゆさを感じた。
「……まーいいや。後は帰ってから皆で話そ……って、響、何見てるんだよ」
とはいえ、そもそも、二人とも頭脳労働担当ではない。下手な考え何とやら、疑問を棚上げした乾は、鈴浦の視線の先に気付き、思わず肩をつかむ。
「犬用の肉ですが? 」
「なあ、一応確認だが、うちは犬も猫も、というか愛玩動物の類は一匹も飼ってねえよ?」
メガラニカ連邦では、ペット用の餌が人間用の肉の並びに陳列されているのはよく見られる光景なので、文字を読まず値段だけで購入すると大変なことになるのだが、勿論生粋の連邦人である鈴浦は承知の上である。
「馬鹿にしないでください。分かってはいますが、安いですから。最近収入も不安定なので、節約しておこうかと」
「いや、勿論食えるけどさ。出汁取る用の肋骨肉か鳥手羽でいいから、それは止めてくれよう」
「……冗談です。そんななりで本気泣きは止めて下さい、忠猛。ほら、骨つき肉を買ってあげますから」
経済観念のしっかりした同僚兼同居人のおちゃめに、乾は深く突っ込まないことにしておいた。
――かくして、事件はいつも唐突に。
生活感溢れる掛け合いの後、残る備品の購入も済んだ二人は車で帰宅の途についた。ところが、商業施設を出て幾ばくも進まないうちに、「止めろ、響」と突然乾が停止を指示。
「ッ、了解」
疑問を差し挟む余地もなく、すぐさまそれに従って鈴浦はブレーキを踏み込み、緊急停車させる。完全に止まるのを待たず、荒っぽく扉を開けて飛び出した乾の後に、急いで脇に止め直した彼女も続く。
今更だが、運転手は鈴浦だ。最近ではすっかりお馴染みの女尊男卑に異を唱えよう、なんて歪んだ反骨心に溢れた意図があるわけではなく、単に乾が運転免許を持っていない、もとい取得できないのでいたしかたなく、である。
それはともかく、文字通り乾は嗅ぎつけていた。多少の距離があろうと関係ない、僅かな臭気は、進行方向左、南の方角から漂ってきていた。