31話
どれくらいしただろうか。ようやく階段の先に山門が見え、どちらともなく落ちていた速度を上げた。仁王像が薄暗い網の向こうに見える山門を抜けると、ほどなくして見松庵と思しき建物が道長と幹也を迎えた。
ふたりはすこし上がった息を整えるように、ゆっくりと靴を脱ぎ、木戸を開けた。
戸を開けて、ふたりは少しばかり驚いた。寺の本堂だとばかり思っていたそこには、ただ畳の間が広がっているだけで、仏像もなにもなかったのだ。眼に入るのは古ぼけた畳と水墨で雲が描かれた襖ばかり。山門があったのは何故だか解らないが、庵というのだから家屋なのだと、いまさらながら納得する。
「……」
ふたりは思わず顔を見合わせた。意地になって登って来たからか、それもとあの僧侶の言葉のせいなのか、とにかくふたりは、満足出来るものを見て帰りたいと思った。道長が手近な襖に手をかけた。幹也もそれを止めはしない。からりと開け放たれた襖の向こうには、また同じような間が続いていた。ひとつ違うとすれば、その間には床の間が設けられていたくらいだ。何もない。
道長は、また、奥に続いているだろう別の襖に手をかけ、大きく開け放ち――ふたりは、息を飲んだ。
現れたのは、庭だった。
古い造りの、庭だ。たった1本、立派な松が視界を横切るようにゴツゴツとした幹を伸ばし、いくつかの大きな青味を帯びた灰色の石がどっしりと根付くように配されている。その石の周りは苔むしており、長い歴史を感じさせ、またその深い緑が石の色を引き立たせ、ずっしりと心地よい厳格さを漂わせていた。
しかし、ふたりが息を飲んだのは石や松のせいではなかった。ふたりがそうなるほどに眼を奪われたもの。
それは、たった一株、
きりりと咲く竜胆だった。
「…すげぇ……」
ぽつりともれた道長の言葉。眼が離せなかった。庭からすれば、埋もれてしまいそうなほど小さな竜胆の花。それなのに、立派な古い庭のたたずまいに負けず、むしろそれを引き立て役にするほどの存在感。
美しい、と。
素直にそう思った。
ふと、道長は幹也が何も言わないことに気が付いた。先ほどの竜胆の絨毯を見たときのことを思えば、むしろこちらの方が幹也の心を刺激しそうなものだ。それなのに、先ほどからひとこともない。一体どうしたのかと幹也を見下ろし――
道長は言葉を失った。
幹也は泣いていた。
静かに、とても綺麗にはらはらと涙を流していたのだ。
「幹、さん…?」
恐る恐る声をかければ、はっとしたように幹也は涙を拭い、道長を笑って見上げた。
「へへ、ゴメン。なんか、感動しちゃって」
「……」
「綺麗だね。すごく綺麗だ…」
道長は、幹也から眼が離せなかった。
「これを〝美しい〟って言うんだね…」
この、感情を、なんと言えばいいのだ。
綺麗に涙を流す幹也の横顔を見つめながら道長は思った。あの若い僧侶は、この見松庵で何を見るかは自分達の心のうちにあると、そう言った。
それならば
今、幹也がこの庭を見て美しいと涙を流したのは、幹也の心のうちにあるものがそれほどに美しいということなのだろうか。
そう考えた道長の胸中に溢れたのは、幹也への強烈な羨望だった。幹也のものの感じ方への切ないまでの、羨望。同じものを同じように見ているのに、こうも感じ方が違うのか。幹也がこれほど感動するものを見て、確かに自分も心動かされた。しかし、幹也の感じているものには遠く及ばない。
羨ましい。
いっそ妬ましいほどに。
ここまで、純粋に美しいものを美しいと感じられる幹也の心を。幹也の心のうちに秘められているのだろうその美しさを。ただひたすらに羨ましい。
幹也の側にいれば、それが少しでも解るようになるのだろうか。
もしもそうだというのなら、側にいたい。ずっと、幹也の側で、同じものを見ていたい。
そんな欲望を自覚した時、幹也が道長を見上げた。涙で濡れた眼が細くなる。
「連れて来てくれて、ほんとにありがとう」
道長の心臓が、大きく跳ねた。
:::
見松庵を後にしたふたりは、どちらともなく、帰路につくべく兼昌寺の大門を抜けた。会話らしい会話も無かったが、ふたりの間には静かで安らかな空気が流れていた。バスに乗り、エンジン音がふたりを揺らすと、兼昌寺の大門は次第に小さくなっていった。
道長の胸中はいろんなものが混ざり合っていた。それは分類も名付けも出来ない、複雑に絡み合った感情。時折隣に座る幹也の肩が触れる。その度に、その混ざりに混ざった感情が膨張した。
バスを乗り継ぎ、高速バスに乗ろうかという頃。道長は一度休憩を取ろうと、ふたりはトラックが何台も停まるような大きなコンビニに立ち寄った。
「幹さん便所どうする?」
「あ、行っとく」
「じゃあ、先行ってくれ」
「ん」
漂う空気は穏やかなのに、何気ない会話がぎこちない気がした。もっとも、そう思っているのは自分だけだろうと道長は自覚していた。暇つぶしに雑誌を手に取る。内容は全く頭に入って来なかった。
「道長くん、お先」
出て来た幹也が、道長に声をかける。短く返事をして、雑誌をもとのラックにもどした。
「僕、外で待ってるよ」
「おう」
道長に一声掛け、幹也は缶コーヒーを買って、店の外に出た。外は寒いのだが、先ほど見松庵の竜胆を見た興奮が冷めていないのか、温かい店内留まろうとは思わなかった。会計をすませて外に出る。車止めの縁石に腰掛け、手の中で温かい缶コーヒーをもむように転がしながら、ちびりちびりと飲んだ。ひどくそわそわする。体の奥がむずむずと喜びを訴え続けていた。
――嬉しい…
とうとう、我慢出来ずにへらりと笑ってしまった。端から見たら変な人だぞ、と自分に言い聞かせるも、どうにもならない。嬉しくて、嬉しくて仕方なかったのだ。
しかし、それは長く続かなかった。突然ふっと幹也に影がかかる。道長が出て来たのだろうと思って顔を上げた。
「おかえ…」
だが、顔を上げて幹也は凍り付いた。そこにいたのは、道長ではなく、目の前にはいかにもガラの悪そうな見知らぬ男がふたり。
「ちょっと面貸せよ」
低い男の声が幹也の鼓膜を殴る。微かな酒の匂いが鼻をかすめた。
――カツアゲ
その言葉が脳裏によぎった途端、声を掛けて来たのとは違う男が突然幹也の襟元を掴み、強い力で引きずられた。ずるずるとコンビニの脇の路地へと連れ込まれそうになる。路地に引きずり込まれれば、道長に見つけてもらえなくなると、幹也は震える膝を叱咤して必死で抵抗した。
――ヤバい!ここ1ヵ月、絡まれてなかったから油断してた…!
「さっさと来いコラ!」
幹也の背筋に汗が流れた。相手は酔っている上に相当機嫌が悪い。このふたりの狙いは恐らく殴ること。財布を差し出したところで、見逃してはくれないだろう。この手の連中はどんなに言葉を重ねても聞く耳を持たないことを、幹也は身を以て知っている。
恐怖に全身が震えた。
――誰か…!
祈った、その時だった。
「何してんだおまえら」
男の声がふたりの足を止めた。だが、胸ぐらを掴まれているため振り返れず、男の姿を見ることができない。
「ああ?誰だテメェ引っ込んでろ」
幹也を掴んでいるのとは違う男が、声を掛けて来た男に突っかかった。だが、その声はのらりくらりと、どこか挑発するように質問を続ける。
「カツアゲか?」
「ちげぇよ。失せろ」
「じゃリンチか?」
「っせぇつってんだろ!てめぇも殴られてぇのか!?」
「ぎゃっは!出来るもんならやってみろよ。ザコキャラが」
その声の主はあからさまに挑発する。途端に幹也に絡んで来たふたりは眼の色を変えて激昂した。
「ッのやろう!」
言うが早いか幹也を掴んでいた男が、ぶんと音をならして殴り掛かった。幹也は思わず目を瞑る。しかし、聞こえて来たのは人を殴った鈍い衝突音ではなく、こけて滑ったようなざざざっという音だった。恐る恐る眼を開けてみると、殴り掛かった男の地面に転がっている姿と、止めに入ってきた男のスマートフォンを耳に当てている後ろ姿が眼に入った。
「あ、おまわりさーん?カツアゲしてる奴ら見つけたんだよ。すぐ来てくんねぇ?場所はよぉ」
聞こえよがしに言う男に、絡んで来たふたりの顔が強張った。いかにも演技に聞こえるが、もしもこの電話が本当に警察に繋がっていたらと考えたのだろう。ふたりは目配せすると、ばたばたと走り去って行った。
「ハッ!ビビリ共め。カツアゲなんてダッセぇことしてんじゃねぇよばぁーか!」
けらけらと笑いながら、男はスマートフォンをジーンズの後ポケットに仕舞った。幹也は嵐なような展開に呆然としていたが、はっと気付くと、その男の背中に向かって深く頭を下げた。
「すみません!ありがとうございます!助かりました!本当にありがとうございます!!」
「いやいや、いーってこと……よ?」
不自然に言葉が切れたことを不思議に思った幹也が顔を上げた。染めているのだろう赤茶の髪を襟足だけ少し長めに整え、声からするといくらか幼く映る顔立ち。大きな目に、大きな口。そこには、ひどく驚いた様子で幹也を凝視する男がいた。
「――…」
その視線に、幹也も同じく視線をそらすことが出来なかった。吸い込まれそうなほどに見つめてくる男の目を、同じく1mmも逸らさずに見つめ返した。知っている。この、強い瞳を。でも、まさか。
しばらくして、男がゆっくりと、声を発した。
「おまえ…幹也、か?」
そう、問われた途端、電撃が走った。
確信する。
間違いない。
この人は――
「――正俊くん…!!」




