29話
「普通に考えたらさ、事情を正直に話せば良かったんじゃない?」
幹也もブルゾンをマフラーをクローゼットに納めて、ほっと一息ついた頃、ひどく疲れた笑顔で幹也がぼそりとそうつぶやいた。
「……そうかもな」
しばらく考えるようにして、ぶっきらぼうに返事をする道長。道長もあまりに必死で、冷静さを欠いていたのだろう。幹也を見ようとしないところをみると、自分の行動を反芻して恥ずかしがっているようにも見えなくもない。
ようやく温かい寝所を確保出来た安心感も伴って、ふっと肩の力が抜ける。
「ふふ」
茶を飲みながら、また先ほどのフロントでのやり取りを思い出して、思わず笑ってしまった幹也に、道長も幹也が何故笑っているのかを察したのだろう。のどを震わせるようにしてククッと笑うと、もうだめだった。
「ふふふふ」
「くくくく」
「ふははは!あはははは!」
「はーっはっはっはっはっ!」
笑った。
ふたりはおおいに笑った。転げ回って、涙を浮かべ、床やベッドやお互いの肩や背を叩き合い、足をバタつかせ、腹を抱え、ひーっひーっと声が出なくなるほど大笑いした。
こんなにすっからかんになるほど笑ったのはいつぶりだろう。ふたりしてベッドに仰向けに転がって涙を拭う頃には心地よい疲労感が胸を満たしていた。
「あーあ。笑った笑った」
「クッソ、腹イテぇ」
「ホントお腹痛い」
「なぁ、最初何思い出して笑った?」
「もう蒸し返さないで…!」
「いいだろ。言えよ」
「ふふっ。初めて名前呼んでくれたなって思ったんだよ」
「あ?そうか?」
「そうだよ。なのに、初めてがあんなのだったのがさ、もう可笑しくて」
「ミキチャン、メンゴ?」
「わー!やめてやめてまた笑う!」
ふざけながら道長も思い返す。確かに、そうかも知れない。知り合ってもう随分経つのに、まともに名前を呼んだことはない。フロントで〝ミキ〟と呼んだ。あれが初めてならば確かに笑える話だ。なおもクスクスと笑う幹也に、道長は笑みを浮かべながらも少し考える。
「…なぁ、なんて呼べばいい?」
「え?ああ、呼びやすいので呼んでくれたらいいよ。名字でも名前でも」
道長はしばらく天井を見つめた。名を呼ぶことなど常からしていることなのに、改まると妙に言葉が喉に引っかかった。相手が幹也だからなのだろうか。道長はええいままよ、と幹也の名を呼んだ。
「じゃあ〝幹さん〟」
声に出してみると、それは妙な高揚感とともに、しっくりと道長の中に根付いた。幹也も道長が自分を呼ぶ名を告げたことに満足したのだろう。べつに〝さん〟をつけなくていいと言いながらも、その顔はどこか嬉しそうだ。
「…一応、年上だしな」
「ふふ。変なの。タメ口なのに、そんなとこ気にするんだね」
「一応つっただろ」
「あはは、そっちのがひどいよ」
大笑いしたおかげだろう。ふたりの間にゆったりとした空気が流れた。しばらくして、幹也がよいしょっと上体を起し、ベッドに腰掛けて部屋を見渡し、しみじみと苦笑したような声音で「それにしてもラブホだねぇ…」と呟いた。
「さっき冷蔵庫の隣の棚みてびっくりしたよ」
「ああ、バイブとか?」
「うん…本物初めて見た…ほーんと、なんていうか…あははは…」
「意識すんなって。つか、たまに見かけるぜ、男同士で入ってくる奴ら」
「えッ!?」
何気なく、さらりと言った事実に――未成年の道長がラブホをよく利用しているという事実にも――幹也がひどく驚いた。そのことに道長の方が驚く。幹也はそういったことになんの偏見もないと思い込んでいたのだが、違ったのだろうか。
幹也は、しばらくそわそわと視線を彷徨わせて何事かを考えているようだった。そして、なにか含んだ目で道長を見た。
「…あの…」
「あ?」
「…み、道長くんはそれみてどう思う?」
「それ、って?野郎同士でラブホ?」
「そう」
「別に?いんじゃね?」
「……じゃあ、偏見とかはないんだ」
「まぁ、俺には関係ねぇしな」
「そっか…」
結局そう言ったきり、幹也はまたなにかを考えるように俯いてしまった。
結局、幹也はなにも言わず、そのままなんとなくふたりでベッドに腰掛けてテレビをつけた。しばらくして、テレビに飽きたのか幹也はふらりと立ち上がり、風呂を覗きに行くと、ひょっこりと頭だけ出した。
「道長くん、お風呂どうする?入る?」
「ああ、けど、あとでいい」
「わかった。せっかくだからお湯貯めるね」
幹也はそういうとすっと風呂場に消え、また戻って来てしばらくテレビを見た後「お先にお風呂いただきます」と冗談めかして丁寧に頭を下げ、風呂場に戻った。道長は民放のバラエティー番組をぼんやりと眺める。幹也がいなくなって広くなったベッドにこてんと体を横たえ、腕で頭を支えてまたぼんやりとテレビを眺めた。
力が抜ける。こんなに安心して開放感に浸れるのはなんだかひどく久々な気がした。寒空の下歩き続けたせいで、全身はひどく冷えているはずなのに、体の奥は温かくて、うとうとと心地よい微睡みが道長に覆い被さる。
「道長くん、起きて」
ふいに優しく肩を揺すられ、道長は瞼をあげた。瞼を数秒閉じただけのつもりが、寝てしまっていたのだろう。そこには苦笑した幹也がいて、バスローブを身にまとっていた。
「……?」
「お風呂、先にありがとう。道長くんはどうする?もう寝る?」
「…いや、入る」
目をこすりながら体を起こす。ぐぅっと伸びをして目を覚ました。
「湯船で寝ちゃダメだよ」
「おー」
くすくすと笑ってそう言った幹也に短く答え、道長はさっさと服を脱いで風呂場へと足を踏み入れた。眠ってしまったために頭がぼうっとしたまま、道長は手桶を使って湯をすくい取り、掛かり湯をした。ざばーっと湯が勢い良く道長の体に流れ落ちる。
「ッおわっ!?」
道長は思わず声を発してビクッと体を震わせた。それもそのはず。
身体にかけたそれは水だったのだ。
驚いて湯船に手を突っ込めば確かに湯と呼べる程度の温度はあるが、それでも温水プールより温かいという程度の温度だ。40度前後の湯を想像して掛かり湯をすれば、その体感温度はほぼ水。道長が飛び上がるのも無理はない。
――なんでこんなにぬるいんだよ!
「っのやろう…!」
もともと気の短い道長は、怒りに任せて風呂場を飛び出し、手近に合ったバスタオルで下半身を隠して、床が濡れるのも気にせず怒りの形相を携えて幹也の元に向かった。
だがしかし。
幹也はすでに眠っていた。それも、床に座り、ベッドに背を預けた状態で。だらりとさがった手元には未開封のペットボトルが転がっている。
文句のひとつでも言ってやろうと思ったのに、幹也は無防備にもぱっかーんと大口を開けて寝ている。ここまで堂々と眠られていては、とても起こして怒鳴る気にはなれなかった。
「…クソッ」
道長は、腰のバスタオルで素早く自分の体を拭くと、幹也をベッドに引きずり上げた。毒気を抜かれ、思わず溜め息が出る。あの温い湯はまた沸かそう。この恨みは覚えていれば明日晴らせばいい。道長はそう言い聞かせて再び風呂場に向かった。
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道長はふと夜中に目を覚ました。一瞬今いる場所が分からなかったが、幹也を巻き込んで兼昌寺に向かう途中のラブホテルだということを思い出した。ごろり、と寝返りを打てば、黒い塊。もちろん幹也だ。
風呂からあがり、さあ寝ようと思ったものの、男同士でベッドで寝るのもどうだろうと思い、道長は一度は備え付けのソファに体を横たえた。しかし、掛け布団は当然無く、しかもそのソファはスプリングがキイキイと耳障りな随分古いものだったので、とてもじゃないが眠れなかった。結局道長は、しかたなく幹也がすやすやと眠る横に潜り込んだのだ。
目が慣れてくると、真っ暗の部屋でも幹也の表情が何となく解るほどに見えて来た。相変わらず、深く眠っている幹也。ほんの少し開かれた口からは静かな寝息が聞こえる。
「……」
そういえば、と、道長はふと思い出す。幹也の寝顔を見るのは2度目だ。1度目はあの追いかけっこの後に保健室に連れて行った時。あのとき幹也は頭に包帯を巻き、痛々しい寝姿だった。
だが、今回は違う。本当に無防備な安心しきった寝顔が道長の前に晒されていた。それが、少し嬉しい。
しばらく幹也の寝顔を眺めていたが、ぞくりと道長に寒気が走った。道長と幹也の間に距離があるからだろう。ふたりの間に冷気が入り込み、寒い。もう少しなら近づいても構わないだろうと、道長が少し体を起こして、掛け布団を持ち上げ、ふと幹也のバスローブがはだけていることに気が付いた。
帯の結びが弱かったのだろう。帯が解けて半身が剥き出しになっている。これでは風邪をひくのではないだろうかと呆れた溜め息だ出た。
横向きに寝ている幹也をそっと動かして仰向けにする。前をあわせようと幹也のバスローブに手をかけたとき、暗がりに幹也の腹に何かがへばりついているように見えた。なんだろうと顔を近づけ、道長は息を飲んだ。
「…なん、だ、こりゃ……」
そこには目を背けたくなるようなひどい火傷の痕。右腹部からへその周辺を覆い、そして肋へかけてかなりの範囲で広がっていた。薄暗くはっきりしない視界でもそうと解るケロイド。ひどく引き攣れたそれは喧嘩ばかりでケガに慣れている道長でも目を見張った。
「……」
道長はそっとその火傷の痕に触れる。出来てから数年経っているのだろうそれ。その痕は単純に何か熱いものが触れただけで出来たものではないようだった。火傷の原因になるものが皮膚に触れた後、無理に衣服を引きはがしたのか、もしくは、さらに火傷を悪化させるなにかをしたか。
夕方に聞いた幹也の話を思い出す。幹也は施設にいたことは話したが、そこでの生活や脱走事件のことは、あまり詳しく話さなかった。ある年上の少年が、みんなを逃がしたとは言ったが、よく覚えていないのか説明は明瞭ではなかった。あのときは疑問を口にする前に話が先に進んだ為、そのまま聞いていたが――
道長ははっと息を呑んだ。あのあまりにもぬるい湯がはられた風呂。あれはまさか、ぬるい湯が好きなのではなく、熱い湯に入れないのではないのだろうか。
確証はない。だが、この仮説を道長は否定できなかった。
「……」
幹也の抱えるもの。それは、一度話に聞く程度では決して理解出来ない、根深いものなのかもしれない。そんなことを幹也は微塵も感じさせないが、完全に克服出来ているなら、施設について話すことをあんなに渋るだろうか。
すっきりとしない、喉に何かが引っかかったままのような気持ち悪さを感じながら、道長はそっと幹也の衣服を整え、静かに掛け布団をかけた。




