17話
ひゅんひゅんと矢部の拳が風を切る音が、道長の耳に絶え間なく届く。廃工場内は大きな興奮に包まれていた。わぁわぁと騒ぐギャラリーの声が異常に遠くに聞こえる。道長は目の前の矢部の攻撃をただひたすら避けていた。もう、かれこれ5分はこうしている。
学ランを脱いでおけば良かったと、道長は矢部から距離をとって呼吸を整えながら思った。汗でシャツが肌に張り付き、それがさらに学ランに引っかかって動き辛い。だが、脱いでいる余裕など微塵もない。
殴っても全て避けられると諦めたのか矢部が突然突進して来た。完全な不意打ちに、腰にタックルされて流石の道長も床に倒された。マウントポジションを取られたら、ジ・エンド。
だが、道長は落ち着いていた。考えるよりも早く体が動く。反射的に動いた右足を思いっきり胸元に引き寄せ、そして矢部の腹にぶち込んだ。
「ぐあっ!」
予想だにしなかった道長の蹴り。まさかの柔軟性によって繰り出された攻撃をまともにくらった矢部は、文字通り後方へふっ飛んだ。それを道長は瞬時に追いかける。そして仰向けに転がった矢部の顔を跨ぐように立ち、矢部が目を開けて自分を見た瞬間、右足を引き上げ、容赦なく、――下ろした。
「――ッ!」
矢部を含む何人かの息を飲む音が聞こえた。しかし、続いて聞こえたのは矢部の鼻が折れる血生臭い音ではなく、コンクリートを蹴りつけたような、硬い音だけだった。矢部は恐る恐る、目を開く。
そうして見えたのは、己の顔を挟むようにしてすらりと伸びた長い足と、その先ににやりと笑う道長の顔。矢部の顔を踏みつけたと思われた道長の右足は、矢部の顔ではなく、その真横の床を踏みつけていたのだ。状況を把握した矢部が再び道長を見上げると目が合った。道長の笑みが深められ、ぐんと近づいた。道長が矢部の胸板に腰を下ろす。
「俺の、勝ちだ」
静かに、しかしはっきりと道長が宣言すれば、矢部は悔しそうに顔を歪め、周りからは落胆と歓喜の声が半分ずつ同時にわき起こった。ケルベロスのやまない歓声の中、道長はゆっくりと立ち上がり矢部の上から移動すると、矢部に手を差し伸べた。それを矢部は怪訝な顔で、道長の手と顔を交互に見比べる。だが、しばらく迷ったものの、矢部はゆっくりと手を伸ばした。
矢部が道長の手を取ろうとした、まさにその時だった。ケルベロスメンバーの歓声に混じって、ひときわ甲高い少年の声が響いた。
「弱っえぇクソ野郎が道長さんに触んじゃねぇよ!バーカ!」
途端に水を打ったように廃工場が静まり返る。怒りと、非難と、呆れが入り交じった、実に居心地の悪い沈黙が場を支配した。その原因を作った少年は何故このようになったのか理解出来ない様子ながら、自分が何かマズいことを言ったらしいことは理解したのだろう。顔を真っ青にして必死にきょろきょろと顔を動かしていた。
そんな中で道長が、ゆっくりと矢部を引き起こした。その顔には先ほどまで浮かんでいた楽しげな笑みはもうない。冷ややかな、無表情だけがあった。
「誰だ」
ただ、それだけの言葉ですっとケルベロス側の人垣が割れ、件の少年がぽつりと現れる。道長はそれを見るとコツコツと靴を鳴らして、少年の目の前に立ちはだかった。
痩せぎすの、性悪ギツネを思わせる顔立ちの少年。先ほどの発言からケルベロス側なのだろうが見たことのない顔だ。恐らくケルベロスのメンバーの誰かが後輩として連れて来たのだろう。何度かホームであるこの廃工場に出入りを繰り返し、幹部に顔を覚えられるようになってから、幹部の誰かとケンカをさせて、一発入れられたら正式にメンバーとして認められる、というのが今のケルベロスの入り方だ。
「あ、あの」
怖々発せられた少年の言葉の最後を待たず、ひゅんと道長の腕が鳴った。次の瞬間、少年が奥の壁に激突し床に落ちる。古く脆い廃工場がどぉんと鈍く鳴いた。
「んんんーッ!!んんんんーッ!!」
道長に鼻を潰され、少年が顔を血で染め上げ悲鳴をまき散らした。鼻を抑え、脚をバタバタと動かし、床をのたうち回る少年。道長はそれを冷ややかに見おろすと、うるさいと言わんばかりに顔をしかめて、容赦なくその少年の口を、鼻を押さえている手ごと踏みつけ、黙らせた。
「おい、コイツここに連れて来たの誰だ」
振り返って問いかけると、短い髪を明るい茶色に染めた眉毛のない少年が前に進み出た。
「俺ッス」
顔を強張らせながらも、しっかりと道長の側に立った少年は悔しさと反省を滲ませていた。道長は殴ろうと思って握っていた拳で、代わりに自分の前に立った少年の胸倉を掴み上げた。
「こんなクズ連れて来てんじゃねぇ…」
「ッす、ません」
「捨てて来い」
「ッス。すみませんッした」
茶髪の少年は道長にはっきりと謝罪をすると、キツネ顔の少年の襟首を掴んで廃工場から引きずり出した。恐怖と痛みに泣きわめく少年の声と彼を引きずるざりざりという音だけがしばらく廃工場に響いたが、大きな扉が閉まった音とともに、その耳障りな音もぷっつりと途絶えた。
そして、ふりかえった道長を見て、そこにあった道長の鋭い眼光に、ブラッズのメンバーが息を飲んだ。
「いいか」
道長が口を開く。ブラッズの誰もが、何を言うのかと固唾をのむ。
「矢部をバカにしたら俺が直々にボコる。それがブラッズのメンバーでもだ」
予想外の言葉に、八瀬や山形だけではなく、矢部本人も、目を見開いた。そうしてようやく理解した。これが、ケルベロスというチームなのか、と。そのチームのリーダーがこの道長なのか、と。
「矢部」
「!」
突然声をかけられ、矢部はびくりと道長を振り返った。
「戦争は、俺の方法でやる。文句はネェな?」
有無を言わせぬ眼光に、矢部は思わず頷いていた。だが、冷静になっても、反論する気は起きなかった。やれる、と思ったのだ。拳を交え、そして、今の言動。こいつならできるのでは、と思わされてしまった。これをカリスマと呼ぶのではないのか、なんて。
道長は矢部が頷いたのを見て納得したらしく、去り際にぽんと肩に手を置き「悪かった」と小さく告げた。それに矢部はまたも目を丸くしたのだが、道長はそれを気にもせず、悠々と大地の隣に、役目は終わったとばかりに腰掛けた。大地が視線で問いかければ、後の進行は任せたと道長は顎をくいっとしゃくってみせる。大地はやれやれといった様子で肩をあげたが、酒を呷るとまるで先ほどの騒動はなかったかのように楽しげにカツアゲ狩りの全貌を説明し始めた。
感心するばかりのカツアゲ狩りの詳細が大地によって語られた。裏付けがきっちりなされた作戦は現実味を帯びており、批判的な視線を向けていたブラッズのメンバーもいつしか大地の話を期待を込めて真剣に聞いていた。それは人を惹きつける大地の声と語りに時折笑いが起こるほど。
道長が行動で人を惹き付けるなら、大地は語りで人を惹き付けるタイプだ。しかしそれは決して行動で示すことができないという意味ではない。行動で示す以上に、口で語ることで周りのやる気を引き出し、煽り、その気にさせることに長けているのが大地だ。
道長がチームを背で引っ張り、大地が背を押す。そして慶太郎がふたりをサポートする。3代目ケルベロスはそうして成り立っていた。
慶太郎はそんな今の位置を誇らしく思っていた。大地の語るカツアゲ狩りの全貌を、優越感にも似た心地で聴いていた。
だが、聞きながら慶太郎がはたと気付いた。どうして、大地が説明出来るのだろうか、と。道長からの電話では、全面戦争をすることを自分が真っ先に聞いたはず。大地に伝えたときも初耳だという反応だった。道長が帰って来てから間もなく、この集会は始まった。大地と道長が具体案を打ち合わせるような時間などなかったはず。
慶太郎はカツアゲ狩りの説明があらかた終わったのを見計らって、こっそりと道長に耳打ちした。
「道長さん、一体いつ大地さんとこの作戦相談してたんッスか?」
「は?」
「カツアゲ狩りのやりかたッスよ。随分前からふたりで考えてたんッスか?」
そうなら少し寂しい。というのは心の中でこっそり呟く。仕方ない、ふたりは長年の戦友で、親友だ。あとから特攻隊長になった自分ではふたりの間には到底入り込めはしない。解っていても少し寂しいのだが、それを表に出すほど安いプライドではない。慶太郎は頭に浮かんだ疑問を素直に投げかけた。
「別に。ただ」
「ただ?」
「大地なら、俺の考えることは大体解ってるだろうし」
だから大地に説明させたんだ、とばかりに言い放った道長に慶太郎は言葉をなくした。いやいや有り得ないだろう、そんなツーカー。長年連れ添った老夫婦ならまだしも、たかが数年つるんでいるだけで、いくら親友とはいえ、そこまで解り合えるものなのだろうか。
しかし、現実に打ち合わせの時間はなく、決断をした道長ではなく大地が事の詳細を説明しており、それに道長は不満や訂正をいれるような事はしていない。道長が言っていることは、嘘ではないのだ。
驚きながら、慶太郎は先ほどの一幕を振り返る。本当にアクシデントだったにもかかわらず、そのアクシデントを利用して、道長と大地はこの相反していたふたつのチームをまとめあげてしまった。慶太郎はごくりと生唾を飲み込んだ。
――バケモンだ。この人たちは。
大地に煽られ盛り上がる廃工場のなかで、慶太郎はひとり畏怖と期待に震えていた。本当に、このふたりならやり遂げるかも知れない。初代ですら出来なかったことを。
恐らく、今この廃工場の中に、本気で県下統一しようと思っている者はほんの一握りだろう。市や地区ならまだしも、県、だ。いくら自分たちがいるのが神奈川という日本でも指折りの小さな県だとしても、簡単なことではない。しかし、出来るかも知れないと、慶太郎は確信に近い何かを感じていた。このふたりなら、出来るかも知れない、いや、きっと出来る――。
それにはもう一息、メンバーを本気にさせる必要がある。今のままでは、爆発力が足りない。それでは、いくら良いところまで行っても初代の二の舞だろう。慶太郎はギリ、と奥歯を噛み締めた。ほんの一握りでも、自分にもこのふたりのようなカリスマ性があれば。ここにいる2チームのメンバーを鼓舞するだけの力が自分にもあったなら。
悔しい、と慶太郎はきつく拳を握った。
それを、汲み取ったのか、はたまた偶然か、道長がふっと笑んだ。慶太郎は己の思考を見抜かれたようでドキリとする。同時に背中を何かが走り抜けた。道長は何かを言う気だ。一抹の不安。しかしそれを上回る期待に心臓がドッドッと高鳴った。
カツアゲ狩りの全貌を話し終えて、補足という名の世間話に花を咲かせていた大地に、道長が割って入った。これも補足だ、といって全員の注目を自分に向けさせ、道長ははっきりとゆったりと口を開いた。
「カツアゲ狩りで一番稼いだ奴には景品がある」
「へー!景品って一体なんですかー!」
大地が茶化して先を促す。それに便乗してケルベロスメンバーからも「どーせズリネタじゃないんスかー!」という声が上がりどっと沸いた。
だが、道長はそれに冷ややかな笑みを返した。大笑いしている大地や八瀬達は道長のその表情の変化には気付かなかったようだ。たったひとり、慶太郎を除いて。道長は笑い声が少し引いたのを見計らってはっきりと言い放った。
「景品は、俺のアシだ」
何度目だろうか。廃工場がぴたりと静まり返った。
道長のアシ。つまり、道長のバイク。道長によって改造されたビッグスクーター。これに慶太郎は驚愕した。八瀬や山形でさえも驚き、その場に硬直している。大地に至ってはあんぐりと口を開け、完全に言葉を失っていた。
「道長さん…ほ、本気ッスか」
やっとのことでそういった慶太郎の声を合図に、今度は大地が襲いかからんばかりの勢いで道長を責め立てた。
「み、ちなが!おまッ!と、とち狂ったんじゃねぇだろうな!?マジで言ってんのかよ!?おまえ、それ、おまえのアシって!!そりゃ初代から代々受け継いだモンだろうがッ!?しかもおまえそれわざわざカスタム屋でバイトしてまでカスタムやるくれぇ、めちゃくちゃ入れ込んでるんのに、おまえ、そんな、そんなもんを!」
「じゃなきゃ県下なんて言うかよ」
さらりと言い切った道長に、その場にいた全員がはっと息を飲んだ。矢部も、山形も、八瀬も、慶太郎も、そして大地も。
本気なのだと。たかがバイクで県下統一の道が近づくなら安いものだと、言外に含んでいることが容易に理解出来た。何よりも誰よりも、この道長が本気で県下制覇をするつもりなのだと、その少ない言葉で思い知らされた。
「派手に狩れ。金も手に入れて、佐宮も潰す。一番になったヤツには俺のアシもついてくる。こんな美味い話はねぇだろう。なあ?」
道長が語りかける。ゆっくりと、ひとりひとりの目を見ながら。
道長に視線を注いでいる男達は皆、その目に吸い込まれるような感覚とともに体の奥底から全身が震えるほどの興奮が沸き上がってくるのを自覚した。道長の目は如実に語っていたのだ。狩りの先、佐宮を潰したその先に見えるものを。安い言葉で挑発しているが、本当にこの男が伝えたいことはその先にあるのだと。
誰もが、この男について行けば、誰も見たことのないてっぺんの世界を見ることができるのだと確信した。
煽られる熱情。
かき立てられる本能。
己の何かが暴れだす。
願望が首をもたげた。
この男について行けば、てっぺんが、見れる。
耳が痛いほどの静寂にもかかわらず、廃工場を支配するのは肌が焼けるような興奮。その異様なまでの空気の中、道長だけが悠然と笑んだ。
「やるぞ」
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翌日、ケルベロスとブラッズにより、佐宮紅蓮連合会の縄張りで大規模なカツアゲ狩りが行われた。全面戦争を仕掛ける口実として。
当然のように誰もが道長達を指差して嘲笑った。
『ケルベロスが血迷った』
今拠点にしている地域では強いと言われようとも、所詮は初代率いるケルベロス以後、弱体化した負け犬チーム。それがよりにもよって県で1、2位を争う強さのヤクザがバックについているチームに喧嘩を売って一体何をするつもりなのか、と。
だが、カツアゲ狩りが始められてから、その嘲笑が青ざめるのに時間はかからなかった。理由は簡単だ。ケルベロスが、完膚なきまでに叩き潰したからである。
あの佐宮紅蓮連合会を
たった、3日で。




