15話
幹也の悲しみようはひどかった。
幹也は泣いた。この小さな体のどこにそれほどの声を出す力があるのかと思うほどの声で、泣いて、泣いて、泣いて――ただ、ひたすら、泣き続けた。
ずっと一緒にいられると思っていたのに、何の前触れもなく正俊が消えてしまった。置いて行かれたこともだが、もう逢えないかもしれないことが、幼い幹也にはただただ、寂しくて、悲しくて、淋しい。声を上げて泣き、すすり上げて泣き、宥められ、涙を流しながら食事をとるものの、落ち着いたかと思えばまた正俊が居ないことを思い出して泣いた。
ようやく涙が枯れたのは太陽が西に傾く頃だった。その間ずっと雪江と晴海が入れ替わり立ち替わり側に居て抱き続けてくれていた。今から思えば「泣き止め」とも言わず、鼓膜が破れそうなほどに泣き喚く幹也を相手に我慢強く側に居てくれたものだと感心する。
やっと、正俊にも考えがあって出て行ったのだろうと、その点に思考が辿り着いた幹也は泣きはらして腫れ上がった瞼を力を入れて持ち上げ、背中をずっと撫でてくれていた晴海を見上げた。
「ばる、び…ざん」
「うん?」
喉がひどく痛んで声が出なかった。それでも幹也は問いかけた。
「…ど、じで、ばざどじくんは…い、っぢゃっ、だの……?」
晴海は、くっと言葉を詰まらせたようだった。そして一瞬店の方に視線をやった。幹也もつられてそちらに目をやったが、店にいるだろう雪江の姿は見えない。一体なんだったのかと晴海を見上げると、少し困ったような悲しげな微笑みを浮かべた晴海と目が合った。
「雪江さんには、ナイショだよ?」
「?」
どうして、と疑問に思ったが、泣き過ぎて酸欠でぼうっとする頭ではそこまで考えることはできず、とにかくナイショにしていれば理由が解るのだと、幹也はただ頷いた。晴海はひとつ深呼吸をすると、静かに理由を幹也に伝えた。
「正俊くんはね…雪江さんを好きになっちゃったんだって」
幹也は晴海が言った意味が良く解らなかった。好きなら、側にいたいものではないのだろうか?それが、どうして出て行く理由になるのか。鈍い頭痛がする頭に疑問がぐるぐると回った。
「ず、きに…なったどに、でで、行、っぢゃっだ、の?」
思わず言った幹也の言葉に、晴海は苦笑を深めた。
「…幹也も、そのうち解るよ」
今ならばその意味は良く解る。だが、その当時の幹也には晴海に告げられた正俊の行動の理由はよく解らなかった。それでも、納得しようとした。きっと正俊のことだから、自分には解らなくても重要な意味を持つ決断の理由なのだろうと。だが、正俊の意図が理解出来ないことが、また幹也を不安にさせ、悲しみを呼び起こした。
「…ばざどじ、ぐん……」
声に出すとまた、涙があふれた。声こそ上げなかったが、幹也はまたしくしくとすすり泣いた。そしてとうとう、泣き疲れ眠ってしまったのだった。
真夜中に目が覚めた。
目が腫れ上がっていて、視界が普段見えてる半分以下までに狭くなっていた。頭もぼーっとしてひどく重い。まぁ、あれだけ泣けば当然だろう。
その狭い視界で幹也はこてんと寝返りを打つ。部屋を眺めれば、隣には何もない空間が広がっていた。いつもなら、正俊の布団が並んでいるはずのその空間は、ただがらんとしていて、やはり正俊はもう居ないのだ思い知らされる。もう枯れたと思った涙はまた目の奥からせり上がって来た。
少しばかり冷静になった幹也の胸中を占めるものは、正俊がいなくなった寂しさとそして同じくらいの不安だった。今までは正俊がいたから、弱音も吐かず、心底不安にかられることも無く渡樫家で生活して来た。しかし、これからは違う。渡樫家の世話になることにすれば、たったひとりだ。それなら施設に行くのかと考えれば、そちらのほうが不安は大きく、渡樫夫婦とは離れ難かった。
助けて欲しい。正俊に側にいて欲しかった。
寄る辺のない不安に、頼りの兄貴分のいない寂しさに、目の奥からせり上がってくるものが溢れそうになった。その時だ。
ぼやけ出した視界の端に、きらりと光るものが目に飛び込んで来た。正俊の布団たたまれた布団の上で何かが光った気がした。なんだろう、と幹也は涙を腕で拭って目を凝らす。するとまたきらりと光る。見間違いではなかったようだ。幹也はもぞもぞと布団から這い出し、光るものに近づいた。
「…これ……」
拾い上げたその光るもの。それは正俊が常にしていたピアスだった。
気をつけなければ指の間からこぼれ落ちてしまいそうな小さなピアス。もういらないから、と捨てるつもりだったのだろうか。それとも、単純に忘れて行ったのか。ふとそこまで考えて、幹也はそのピアスをぎゅっと握りしめ、きょろきょろと周りを見渡した。
なにか、何かないだろうか。焦るような気持ちで見渡した部屋のなか、壁際に置かれた折りたたみ式の机の上に、綺麗だからあげようと晴海からもらった小さな缶の入れ物が目に留まった。幹也は右手にしっかりとピアスを握ると、飛びかかるようにしてその蓋を掴み、四苦八苦しながら足も使って蓋を開ける。そしてそっと握りしめていた正俊のピアスを入れれば、カツンと、確かな音がした。
しっかりと蓋をしながら、幹也は考えた。
――もしかしたら
もしかしたら正俊はそのピアスをわざと置いて行ってくれたのではないか。幹也はそう考えたのだ。
そして、それは限りなく、正しい気がしていた。幹也がこの渡樫家に留まれるように、いつかまた再会出来るように、正俊がしてくれた大きな思いやりに感じられた。幹也はぎゅっと缶を胸に抱く。
もしも自分の推測がただいいのならば、尚のこと、渡樫家の子供になりたいと、きちんと晴海と雪江に伝えなければ。
幹也はそうかたく心に誓うと、しっかりした足取りで布団に戻り、目を閉じた。
:::
翌日、幹也は朝からそわそわしていた。なにごとにも集中出来ず、目が常に泳いでいる。晴海と雪江はそれに気付いていたが、あえて触れずにいつも通り振る舞っていた。
だが、普段通りに振る舞いながら、ふたりは幹也を養子にすることを半ば諦めて、落胆していた。幹也が一番信頼している正俊が出て行ったことで、おそらく幹也の決断が速まっただろうことは簡単に想像出来た。加えてこれだけそわそわしているのだ、きっと出て行くと言いたいのに、言えないでいるに違いないとふたりは考えたていたのだ。
いつ、幹也がそれを言い出すか。決して表には出さないがふたりは内心ドキドキしながら仕事をしていた。そして、幹也は幹也で、いつ、胸の内を話そうかとドキドキしていたのだった。
常にどこか上の空でそわそわし続けていた幹也が動いたのは、夜だった。夕食を済ませ、雪江が台所で食器を片付けている。晴海はリビングでソファに座り、幹也を隣に座らせてテレビを見ていた。何人ものタレントや芸人が、変わった装置の中に入ってクイズに答えているのを、ふたりはただただ眺めていた。いや、正確には、幹也はテレビの方を見つめているだけで、思考はまったくそれに向かっておらず、完全にひとりの世界にいた。
だが、ようやく決心が固まったのだろう。テレビの中で若手芸人がピンポン!とボタンを押したとき、幹也が顔を強張らせたまま、小さな声で晴海を呼んだ。
「どうした?」
晴海はついにきた、と覚悟を決めると、テレビのクイズの答を待たず、平静を装ってテレビを消した。一方幹也は、途端に静かになって晴海の注意が完全に自分だけに注がれる状況になったことに焦っていた。だが、言わなければ。
でも、もしも拒絶されたら。正俊がいなくなったことで、幹也を引き取るつもりじゃなくなっていたら。ふと頭をよぎった考えに猛烈な不安にかられ、次の言葉がどうしても口から出て来なくなった。知らず知らず俯いてしまう。じわり、手に汗がにじみ、涙腺に熱が走る。幹也は溜らず拳を堅く握った。
一体どれくらいそうしていたか解らない。晴海も随分と待った。だが、いっこうに何も言わない、いや、言いたくても言えそうにない幹也の様子に、晴海はとうとう声をかけた。
「幹也…?」
晴海は静かに幹也を呼んだ。その声に幹也はビクリと肩を揺らした。
だが、同時に一昨日の晩、布団の中でニカッと太陽のように笑った正俊を思い出した。
――正俊くん
幹也は、ぎゅっと拳を握り直した。そして、おずおずと晴海を見上げる。
「……晴海さん」
声が震えた。声だけではない。気付けば期待とそれ以上の不安に全身が震えていた。目頭が熱くなる。胸が、喉が詰まって、息が苦しい。それでも、幹也は自分を奮い立たせ、まっすぐ晴海を見つめ、言葉を紡いだ。
「僕……ここで……ここの子になっても、いい…ですか?」
晴海が息を飲むのが解った。そして次の瞬間体が浮いた。晴海に抱きかかえられていたのだ。驚いて言葉もでないうちに晴海は幹也をきつく抱きしめ台所に飛んで行った。
「雪江さん!」
何事かと振り返った雪江に、晴海は抱きかかえていた幹也にもう一度同じことを言ってくれとせがんだ。幹也は、それに頷くと、先ほどよりもはっきりとした声でもう一度全く同じことを雪江に尋ねた。途端に雪江はくしゃりと顔を歪ませると水仕事で冷たくなった手で幹也の頬を包み込んだ。
「もちろん。もちろんよ。ありがとう。…本当に、ありがとう、私たちを選んでくれて。一緒に、いっぱいいっぱい幸せになろうね」
綺麗に泣きながら微笑んだ雪江に、幹也はやっと自分の申し出が受け入れられたのだと実感した。じわりと視界がぼやける。感情があふれて言葉が出なかった。何も言えずにいると雪江が幹也の頭を抱いた。視界が遮られ何も見えなくなったが、不安はなかった。
「今日から君は〝渡樫幹也〟だ」
晴海の低く優しい声が聞こえ、幹也の体を抱く力が増えた。頬を伝う涙が今までで一番熱い気がする。幹也は新しい父母にしがみつきながら、心の中でずっと礼を言っていた。
ありがとう、晴海さん、雪江さん。
ありがとう、正俊くん。どうか、一日でも早く、再会出来ますように、と。
:::
幹也は、腹部のケロイドを撫でながら、正俊のピアスを入れていた缶を見つめていた。
正俊のピアスは未だ幹也の手元にあった。あれ以来、正俊には8年、会えないままだ。ピアスは今、缶の中ではなく幹也がいつも首から下げている小さなポーチにお守り代わりに入っている。
しかし、音信不通というわけではなかった。幹也が〝渡樫幹也〟になって初めての正月、正俊から年賀状が届いたのだ。幹也が初めて自分のケータイを持ったとき、真っ先に電話をかけたのも正俊だ。今では時々メールのやりとりもしている。幹也と正俊の間には確かな繋がりがずっと築かれている。正俊に逢えないというのも、正俊が逢ってくれないという方が正確だ。照れくさくて逢えないのだそうだ。雪江と晴海には時々逢いに来ているというのだからなんという理不尽だろうか。
懐かしい思い出。辛い記憶ではある。しかし、それは幸せの始まりでもあった。幹也はもう一度ケロイドを撫でると、トレーナーを被り、一寝入りすると雪江に言ったことをすっかり忘れて、夕飯を作るべく1階へと降りて行った。
* * *
幹也が着替えを終えて、一階へ戻ったちょうどその頃、道長は自分の手で改造したビッグスクーターでホームである廃工場についたところだった。
地響きを起こすように唸るエンジンを止めれば、ケルベロスのメンバーがいっせいに道長に向かって大声で挨拶をし、頭を下げた。道長はそれに特に返事をする訳でもなく、まっすぐに廃工場の奥へと歩を進める。
「道長ぁー!やっとその気になりやがったか!」
建物に入るなり、メンバーをかきわけてやってきた大地が、嬉々とした顔で大きく手を広げて道長を迎えた。道長は想像通りの反応をした大地に薄く笑うにとどめたが、大地は道長のそんな態度で醒めるような興奮ではなかったらしい。強引に道長の肩に腕を回すとぐっと引き寄せて捲し立てた。
「テンションげた上がりだぜ!どうやる?佐宮叩くんだ、大戦争じゃねぇか!」
「大地うぜぇ。ケータから聞いてねぇのかよ」
道長は冷静にそういうと大地の腕を外し、廃工場に入ってすぐの大広間のようになっている部屋の、コの字型に据えられたソファの一番奥に腰を下ろした。
「遅かったな」
そう言ったのは道長の左手側のソファにすでに座っていたブラッズの総長、八瀬圭司だった。アロハシャツに黒の革パンツを身にまとい、ゆったりとソファに腰掛けていたが、長く黒い髪の奥で光る切れ長の目は道長の真意を探ろうとギラギラしていた。
八瀬の隣には、慶太郎に負けずとも劣らない巨躯を丸め、殺気にも似た気配を隠そうともしない、ブラッズ副総長の山形トビオが座っている。道長は彼らに軽く手を挙げるだけでそれを流し、大地と慶太郎を右手側のソファに座らせた。
道長は集まったケルベロスとブラッズの面々を一度ぐるりと見渡した。
幹部が座るソファを取り囲むようにメンバーが立っている為に不気味な黒い壁が出来ている。そしてその薄暗がりに浮かぶ無数の目。緊張に強張ったもの、にやにやと笑うもの、野心を抱く静かなもの、様々な目が道長に注がれていた。
道長はカチリとライターの音をさせ、タバコを一度ふかす。
シンと静まった廃工場。何十人もの人間が、道長がこれから言うことを聞き逃すまいと、息を殺している。悪くない空気だ。道長は、ゆっくりと口を開いた。
「今日から、ケルベロスは戦争に参加する」
はっきりと道長が言い放った一瞬の後、天井を突き破るような大歓声が廃工場に轟いた。




