三十一話 あの雄々しきクジラへ
うららかな午後、僕は公園のベンチでマーケットから買ってきた古本をめくっていた。
クジラについて書かれた本である。僕は余りクジラに詳しくはなかったので、この際調べなおすことにしたのだ。
「その姿雄々しく、物によっては外洋に浮かぶ陸のごときなり、好戦的でかつフライにすると比較的美味しく……ん!?」
この本、散発的に調理法が書かれているので良く分からない。書き手何も考えてないなこれ!
「もし」
「クジラ肉は硬いので、薄切りがベスト。パノミー粉、タマゴにくぐらせてパノミーのパン粉で……貧乏料理だなこれ」
「もしもし」
「煮物にするときは一口大にカットしてから」
「もしもしもし!」
「うるっさいな! こちとら現実逃避してるんだよ! 分かってるよ、ろくでもないことなんだろう!?」
僕が振り向くと、そこには胴体があった。
「どうもすいません。あ、上です」
見上げると、遥か上に頭があった。さしもの僕も絶句するしかない。
ギルマンに詳しい僕でも流石にこの形態は初めてお目にかかる。細長い体を持った彼はそう、太刀魚のギルマンであった。上に長い。
「こんにちは、ギルマンのターチウォと言います」
遥か上、五メートル強の身長から見下されていると、ちょっと心臓に悪い。
「あ、はい。ウィリックって言います」
「お噂はかねがね、何でもギルマンのお悩み相談のプロなのだとか」
「おいちょっと待てやコラ」
僕は、負けないように凄みを利かせて、上を睨む。……距離的に動じてる気がしない。
「一体どこからそんな噂が」
「皆さん言ってらっしゃいますよ」
ちくしょう、誰だろうそんなことを言っているのは。心当たりが多すぎて特定が出来ない。
いやだなぁ、僕の一生このままギルマンにまみれて暮らすことになるのだろうか。どこで間違ってしまったのか。
「思い悩んでいる所申し訳ないですが、私の悩みを聞いて欲しいのです」
「……ターチウォさんは、旅人ですよね。一体どういう悩みがあるっていうんです?」
「よく私が旅人だとわかりましたね」
「分からいでか」
こんな生き物、街中で見かけたら一生忘れない。
「流石です。その明晰な頭脳で私の悩みも解決してくれると嬉しいのです」
「値段と内容によります」
毒を食らわば皿までだ。こうなったらせめて飯の種にしてしまおう。
「私、実はクジラになりたいのです」
「……は?」
僕はその言葉を理解するのにたっぷり数分の時を必要とした。
クジラ、海の王者……になりきれなかったものと評するのが正しい。島ほどもある巨体と、津波を起こす能力は凄まじいが、どうやってもローレライに勝てなかった歴史を持つのだ。
好戦的で、弱肉強食の掟に厳しい。
だが、その雄々しい姿は大海原の象徴として愛されている。
余談であるが、ローレライはよくこれを人間に押し付けるため、肉の代用品として結構食卓に上がる。筋が多いが、きちんと食べればそれなりに美味しい。
「ク、クジラになりたいんですか。そうですか、夢は大事ですね、頑張ってください」
僕はそう言うと本を小脇に抱えて立ち去ろうとする。
「待って下さい」
そう言うと、にゅっと体をくねらせて、巻き取るようにターチウォさんが回り込んだ。便利だなその身体!
「どうか、どうかお願いします! ウィリックさんが最後の望みなんです!」
「神様にでも祈ってろ!! 僕だってそんなわけの分からない要求どうしようもないよ!」
公園で太刀魚とキャットファイトをすることしばし、折れたのは僕の方だった。殴ってないとはいえ、この太刀魚強い。よほど必死なのだろう。
「そもそも、僕のこと誰から聞いたんです、マジで」
せめて後で殴ってやらないと気がすまない。
「病院でカウンセリングを受けたら、お薦めされました」
「さ、サ・バーンッ!! あいつ、自分の患者手に負えないからって押し付けやがった!! あのやろうタダじゃおかねぇ!!」
僕は拳を握り締め、その場を離れる。
「勢いに任せて逃げないでください、私をクジラにしてくださいってば」
しかし追いすがるターチウォさん。くっそ、しぶといな。
「僕は童話の魔法使いじゃないんだよ! そんなぽんぽんお金持ちやお姫様の量産なんかできるかっ!!」
「お金持ちやお姫様になれなくてもいいのでクジラにしてください」
「……こ、この太刀魚!!」
ここまで自己中心的だといっそ憧れる。こんなふうに人生生きられたらどれだけ楽だったことか。
いや、こいつが生きてるのは紛れも無くギルマン生だろうけど。
「……ともかく、僕だって慈善事業じゃないんですよ。何か礼でも渡せるっていうんならともかく」
「んじゃあこれあげます」
小箱を取り出しパカっと開けて見せたのは、色とりどりの宝石だった。
「まぁ、考えうる限りのことって言うと、ここしか無いでしょうね」
僕は本をパタンと閉じて言った。いつか僕は強欲で死ぬかもしれないと思うが、棚に上げておこう。
「本に書いてあるおとぎ話では、金魚は大渦を越えてクジラになったそうです。暴論ですが大渦を乗り越えればギルマンだってクジラになれると信じましょう」
はっきり言っておとぎ話である、絶対に成功しない。だが、これで諦めてもらうとしよう。問題はクジラになるかどうかでなく、当人が納得するかどうかだ。
「大渦なんて、都合よく出ますかね」
「だからその辺は、魔法使いに頼む」
僕がやってきたのは、身近な魔法使いローレライのジャスティーナさんのお宅だ。お隣ともいう。向かいにもローレライは住んでいるのだが向こうが勝手に敵視しているので交渉は難しいだろう。
「にゃー」
「珍しいローレライですね、毛むくじゃらだ」
「それはローレライじゃなくて猫です。……ギルマンにしては、猫を怖がりませんね」
擦り寄ってくる白猫を、ターチウォさんが抱え上げる。……高い所怖くないだろうか猫。
ギルマンは、種族的に猫を嫌う。そりゃ、稚魚の時は天敵の一つだ、怖くもなろう。
「クジラになる男が……ねねね、ねこくらい」
「無理はしなくて良いんですよ。脚、ガクガックじゃないですか。猫を落とさないでくださいね、その高さから落ちたらさすがに怖い」
僕はターチウォさんから猫を受け取ると、家の奥に声をかけた。
「ジャスティーナさん、いらっしゃいますかー?」
「はい、ウィリックさん、そちらから来ていただけるなんて。早速デートへ出かけましょう」
「いえ、今日はそういう話じゃないんです。あ、猫お返ししますね。珍しいものを飼ってるんですね。ギルマン除けですか?」
ジャスティーナさんはギルマンに付きまとわれている。まぁ、彼には悪いがギルマン除けを飼ったとしても不思議ではないだろう。
「いえ、ネズミ捕りですの。どうもこの家ネズミが酷くって」
「さぞ良い食べ物が置いてあるんでしょうね。レンガや漆喰だと、穴開けてきますよ連中」
「不便ね、人間の家」
猫を撫でながら僕は答える。隣で食べ物屋だが、うちのレストランにはネズミは出ないのだ。連中は分かっている。
「ですけど、この猫ネズミ捕りには多分役に立ちませんよ。大人しいですし、これ、ペット慣れしてます」
ローレライが飼うということで、大人しいのを選んじゃったのだろう。ペット屋の店主に罪はない。
「ネズミ捕りの罠でも買いましょう。後で選んであげますよ、その前に用件いいですか?」
「ええ、もちろん構いませんよ。ウィリックさんのお願いですもの」
反応は予測しつつも、横の銀色胴体を指で示しつつ。
「隣の彼、ギルマンの話なんですが」
とまで話し、たっぷり三十秒間を置く。ジャスティーナさんは、上を眺めて硬直していた。……当然の反応だと思う。
「……何かの置物かと思った」
「ですよねー。……で、大雑把な話は置いておいて、魔法で大渦を出して欲しいんですけど」
「……? 構わないけど、んじゃあ、出かけるのね。召使いを呼ばなきゃ」
おや、お弁当の心配でもされたのだろうかと首を傾げる。
「別に遠出はしませんよ?」
「その猫の召使いなの、専用に雇ったんですのよ」
「……お前、召使い付きなのか」
ふと、猫の生活も悪くないなと思った。
「この辺ならいいでしょう」
さすがに港で大渦はまずいと判断して、僕らは崖の所まで来ていた。
「ほいっと」
ジャスティーナさんが指を鳴らすと、突然、唸りを上げた大渦が姿を現す。これは凄い、近隣にご迷惑がかからないかちょっと心配になるくらいだ。
「じゃあ、ターチウォさん飛び込みましょう」
「……だ、だけど」
背中を押すが、流石に体高五メートルの魚は重い。
「今更だけども無いでしょう! 泳いでみたら行けるかもしれませんよ!」
「わ、私……実はカナヅチで」
「おい、待て、待てやギルマン」
結局ターチウォさんは、スイミングスクールでバタ足を始めるところからスタートするのだった。
僕はこのまま変なギルマンにまみれて過ごすのだろうか、ああ嫌だ。
なお、貰った宝石は妙に柔らかく。取扱説明書に『ネコイラズ』と書かれていた。
結局この宝石……ネコイラズはジャスティーナさんのところで活躍している。
僕は三日立ち直れなかった。