闇夜に紛れる
全てを飲み込み終えた彼女は赤く染まった口元を無造作に袖で拭い、立ち上がる。
エルニーナ、エルニーナ、エルニーナ、エルニーナ、エルニーナ、エルニーナ、エルニーナエルニーナエルニーナエルニーナエルニーナエルニーナエルニーナエルニーナ………………
耳鳴りは次第に大きく、彼女を侵していった。エルニーナ、彼女を呼ぶ声はとても強く支配を繰り返そうとする。
ぐわんぐわんと世界が廻るようだった。
それが代償。
分かっていたことだ。しかしそれも耐えれば無くなる。
「私の、名前は、エルニーナ。」
エルニーナ、私たちの愛しい愛しいエルニーナ。
エルニーナ、お前は俺たちの自慢のエルニーナ。
エルニーナ、エルニーナ、エルニーナ。
エルニーナ。
───私はエルニーナだ。
洞窟の壁に凭れながら荒い息を吐き、血にまみれた手のひらを見つめる。
エルニーナ、生まれし子供は異常で世界からの祝福の音はなく。
エルニーナ、禁忌を犯し、異常は強く強く高まった。
もうすぐ夜が来る。何もかも寝静まり、邪悪が力を増して闇夜が支配する夜が来る。
前もって用意していた小さな麻袋に父と母の骸を抉ったナイフ、少しの果物、1冊の本を入れて背負う。
父と母の骸を一瞬眺め、エルニーナは教えの通り行動する。躊躇いはない。
ざわり、と仄暗い洞窟の影がゆらめいた。
「《闇よ、闇よ、喰らうがいい。そしてカタチ取るがいい。我が望むは、壊れる事を知らず、恐れるものを知らない我と共にあるカタチ》」
ザワザワザワザワと影が瞬く間に増えていく。伸びたり縮んだり、踊るかのごとく増えていく。じりじりと横たわる2つの生贄に近寄っていく光景は、嫌悪されるモノであろう。
エルニーナは闇に食われ、影に呑まれる2人の身体を瞬きすることなく何も考えずに見つめる。
感傷はない。
何も、感じない。
「……お母様、失敗のようよ。残念ね」
残念とは思ってない口ぶり。
約束の中のちょっとした女性の願いは叶うことなく、エルニーナは他人事のように「叶わなかったのね」と呟くのみだった。
母である女性は、エルニーナの心がないことを悲しみそして喜んだ。
愛しい子から愛されないのは悲しいが、エルニーナ自身の事を考えれば傷付かず、そして強くなれると思い、喜んだのだ。
しかし最期は、エルニーナに望んでしまった。
『約束よ、私たちが死んだら身体から心の臓を取り出して食らいなさい。私たちは魔力を使わず溜め込んだ。それはあなたが喰らえばあなたのチカラとなる。それはそれは強大なチカラが。ただでさえ、エルニーナは強いのよ?でも、馬鹿ね、私はあなたに傷ついて欲しくないの。だから強く賢くおなりなさい。』
母である彼女は震える声を振り絞り、エルニーナに伝えたい言葉を渡した。
エルニーナの瞳はアメジスト色で私に似てるのね、と父親と笑いあったのは思い出の1つ。髪色は父さんだなぁ、と嬉しそうに笑う彼は幸せそうで。
『あぁ、本当に愛しい子。世界があなたを望まずとも、私と夫はエルニーナ、あなたを望んだことを忘れないで。願わくば、あなたのもとにあなたを望む者たちが現れることを。』
持ち上がらない手で、触れようと動かすも届くのはエルニーナの手のみ。それでも生きているエルニーナの体温に自然と彼女は笑みを浮かべた。
望まれない結婚だった。
望まれない妊娠だった。
望まれない赤子だった。
そして決して望みのない命だった。
生きていることが奇跡なのだ、祝福されているのだと彼女は思う。
『心が、あなたに出来るかもしれない。そうなったら1から学んで欲しいわ。出来ることなら私たちを思い、心のどこかに留めておいて。……あなたなら大丈夫だと思うわ、エルニーナ。私たちに支配されない。エルニーナ、自分だけを強く持つのよ。』
望みの薄い賭けだった。
心は受け入れられない。
心は創れるものではない。
それでもひと欠片の望みでも縋り付きたかったのだ。
母親として何ができたのだろうか、彼女はずっとそれを思い続けてきた。せめて、この命と引換にエルニーナの異常が和らげば良いと願ったのだ。
惜しむらくは、《心》は複雑でそれでいて捉えきれない存在だった事だろう。
その事に気付くのは彼女の1部となってから数十年が経った時である。今はまだ、彼女に知るすべはない。
闇が彼らを完全に覆い尽くし、時折聞こえる、ベキッ、ヌチャリ、彼らを食べ尽くす不快な音だけが洞窟内に満ちていた。
エルニーナは喋ることもなく息を殺して、闇を、彼らを見続けた。
ゆらめき、踊る闇は影は止まることなく、2人の骸を蹂躙した。
クァッ クァッ
夜を告げる夜鳥が鳴いて。
照らす太陽は姿を隠した。
※※※※※※※※※※※※
「行きましょうか、お母様、お父様。」
誰となく囁いた言葉に、返ってくる言葉はないものの少女はワズカニ震える手の中にあるものに1つ頷くと颯爽と闇の中へ身を踊らせた。
身の丈の半分ほどの大きさの、深紅の剣刃は闇夜の中でも異常なほどに輝きを発し、その存在を主張していた。柄は真っ白く、複雑な紋様が施されている。
父と母の骸で出来た深紅の剣。
その刃は血と肉と臓器で、その柄は彼らの骨で出来ている。
闇と混ざり合い、望むカタチで出来たモノ。
多少の意志を持つそれは、父と母の身体から出来た父と母でない剣。
ソレとこれからエルニーナはともにずっと居る。剣が壊れない限り、エルニーナが壊れない限り。
剥き出しの剣を握り締め、耳朶を打つ僅かな耳鳴りに眉を顰める。
エルニーナ、エルニーナ…………
小さくなった響きでも甘言のように甘く切ない。通常の人ならば、引き摺られるだろう。その甘さに、優しさに暖かさに。
「私はエルニーナ。…………呪われたエルニーナ。」
闇に溶け込むようにして消えた彼女の後には、洞窟であった残骸と、濃厚な魔力の残滓のみであった。