Deep Deep Green
暗く深い森は大きな口を開けたまま、どこまでも沈んでいってしまいそうな闇だけが視界の先を埋めている。闇は食指を伸ばし、捕らえ、逃さない。世界の欠片を飲み込んで、森は成長する。少しずつ。少しずつ。
上下する肩に吸い寄せられる濃厚な緑にむせ返りそうになりながら、先の見えない未来に向けて足を進める男が一人。本来腰の位置にぶら下がっていなくてはならないはずの自分の剣を剣帯ごと引き抜いて杖代わりにしながら、それでも足を止められない理由はその表情にまで浮かび始めている。
彼は逃亡者だった。
彼を追ってきているものは、醜悪にして凶悪なモンスターでも、先日まで剣を交し合っていた敵国の兵士でもない。それは強迫観念。どんなに後ろを振り返ろうと、目に映るわけもない。
そもそも彼が軍に身を置こうと考えたのは、防衛の為であった。小さくとも、彼の回りに存在したささやかな日常を守りたかっただけだったのだ。その為に体を鍛え、剣術を覚え、厳しい訓練を耐え抜いて、この春から念願の防衛軍へと配属が決まったところだった。
彼の所属する小隊に命じられた初任務は、小さな反抗を示した敵国に制裁を加えて来いというものだった。入隊したばかりの新人に拒否する権利は当然無い。だが戦い自体を拒むつもりも無かった。今までの訓練で培った技術を試してみたいとさえ思っていた。問題はその矛先だ。敵国の兵力は、明らかにこちらに劣るものだった。整列した自分たちを含めた中隊を見て、逃げ出す者まで居る始末に不満さえ覚えた。それでも隊は進軍をやめない。見せしめだと上官は言った。消えた表情のまま。
命令には逆らえないと解ってはいても、命乞いをする敵兵に剣を振り下ろす事はついに出来なかった。葛藤は奇行を選んだ。彼はその場を逃げ出したのだ。
疲労を拭おうと大樹の根元に腰を下ろせば、緑色の闇に呆然とする敵兵と上官の姿、親切にしてくれた先輩兵士の顔が浮かんでは消えていく。もう戻る事は出来ない。敵前逃亡は、死罪だ。
記憶の残滓を振り払うかのように頭を振った後、男は大樹に身を委ねた。
「キャアァーっ!」
男の覚醒を促したのは、一筋の絹を裂くような悲鳴だった。
飛び起きて声の元に走り出す。それが正義感や使命感ではなく自らの汚名を返上せしめる何かを求めての事だと自覚はしていた。それでも速度を緩めたりしなかったのは、悲鳴に滲んでいた恐怖の気配と森の濃厚な酸素の所為だろう。木々に木霊する声の元探り当てると、その身に染み付いた訓練が頭を持ち上げた。己を木の陰に隠しながら、気配を断って近付く。男の顔は既に兵士のそれを取り戻していた。
はじめに目に飛び込んできたのは、森に覆われてなお鮮やかに映えるエメラルドグリーン。そこから伸びる枝のように細い手足は白く。それが一人の少女のものだと気付いた。こんな深い森の中には似つかわしくないと感じたが、彼女が話に聞くエルフや精霊の類だとしたら納得できる。だとしたら、手を出すのは危険かもしれない。伝え聞く話には、彼らが人に害をもたらすものも少なくないのだ。兵士はしばらく様子を見守る事にした。
「いやっ! は、放してっ!」
少女の足に巻きついていたのは、植物の太い蔓だった。彼女は両手でそれに囚われた足を引き抜こうとしている。それだけの事に必死になりすぎている、そう見えた瞬間、森が蠢いた。深緑の背景から浮き出たのは、少女の三倍の丈は有ろうかという巨大な植物。それも見た目で判断するならば食虫植物に見える。それは捕らえた獲物を飲み込もうと、葉の隙間に潜む瓢箪型の腹へとつながる大きな口を少女に見せ付けた。
悲鳴を飲み込み、必死に後退を試みる少女。しかし蔓はしっかりと巻きついたまま、更に彼女の体を這い上がってくる。緑の渦はすぐに太股までを飲み込んだ。獲物の体を引きずって自らの口に寄せようというのだろう、少女の体は次第に巨大植物に近付いていく。待ち受ける孔は嘲う様に歪む。傾けた口の端から粘液が滴ると、それが触れた地面からジュッという音と共に濁った色の煙が上がった。
「ひぃっ――ああっ!?」
恐怖を漏らせたのも一瞬だった。もう一本の蔓に彼女の細い腰が捕らえられ、少女の体は成す術なく宙へと持ち上げられたのだ。先程の溶解液の詰まった蜜壷が口を広げ獲物を待ち構えている。
だが緑の魔物は、獲物をすぐに放そうとはせず、更に数本の蔓を彼女の肢体に巻きつけ始めた。締め付けて弱らせたところで、自分の臓腑へと送り込むつもりなのだろう。
「あっ……や、だっ! ひぐっ!? く、苦し……ふぐぅっ!」
輪郭をなぞる触手が身に着けていた薄絹を押さえつけ、まだ脈動を繰り返す彼女のふくよかな双丘をわざと的を外したように締め付けていく。獲物を弄ぶかのように。
「ふわっ! あぐぅ……んぅっ!?」
悲鳴を上げ仲間を呼ばれるのを危惧してか、それとも水分を求める本能からか、蠢く蔓の一本が少女の口腔へと侵入する。押し広げられてしまうと歯での抵抗は許されない。舌もすぐに押さえ込まれ、蔓の先は喉の奥までも擽りはじめた。
「ふぅぐ……ん、んっ? んふぁふっ! ぐ……ぅん――――っ!」
蔓に力が加わる度に少女の口からは苦痛が漏れ、白だったその頬が、肌が花の色に染まる。更に葉の付いた細い蔓が少女の全身を嘗め回し、浮き出てくる玉の汗の一つ一つを掬い取っていく。
「ふぇっ!? あぅ……ひゃっ! あぐ、んっ? ふゎああ!?」
先程までとは明らかに違う湿った音色が森の木々に反射した。蔓葉の動きによる、苦痛とは別の刺激が彼女の敏感になった肌を襲ったのだ。己の耳にも届いたであろうその響きと、沸き立つ感覚をどうにかしようと少女は身をよじる。だが抵抗するほどに絞まっていく拘束具は、我が物顔で彼女の柔肌を蹂躙していく。少女の顔に浮かんでいた悲痛は、諦めに変わろうとしていた。絶望が雫となって、深い緑の瞳から流れて堕ちた。
その雫に心を動かされた者が居た。彼とてただ傍観していたわけではない。タイミングを見計らっていたのだ。けっして目の前に広がる光景に魅せられていた訳でも、少女の扇情的なかすれ声に聞き入っていたわけでもない。
しかしそのやや長すぎた見計らいも、少女の涙が煌くまでだった。男は一も二も無く飛び出した。姿勢は低く保ったまま、目標の懐までひた走る。幸い怪植物の興味はその腕の中にある獲物にのみ向けられているようで、男は難なくそこへたどり着き、蜜壷へとつながる一番太い幹に向かって、最下段から天空へ抜ける一閃を振り抜いた。そのまま飛び上がり、少女に巻きついていた蔓の数本をなぎ払う。そして着地と同時に上空から落ちてくる細い体をしっかりと両腕で捕らえると、安定を失い苦痛に揺れ動く怪植物を目に入れる事無く走り出し、少女の身が安全だと思われる位置にまで距離をとる事に成功した。
「ここに居てください」
「え、は、はい」
状況を把握しきれていない緑の少女を置いて、彼は再び巨大食虫植物へと赴いた。駆け出した戦士の足元を狙って蔓がそれとは思えないほどの速度で襲ってきた。今度は彼を認識してくれたようだ。但し、敵として。音を立ててしなる蔓の鞭を数回ステップでかわし、業をにやして飛んできた胴をなぎ払おうとする骨太な一撃を逆に足場に利用して跳ぶ。前へ。
先程彼が刻み付けた傷口が目の前にあった。既に回復を始めているそれを睨みつけながら、腰に構えた剣の刃を寝かせ、撃走の勢いそのままに振り抜く。訓練で教え込まれた足裁きは振り終わりの回転を抑えるものではない。視界が森を廻り。更なる加速を与えられた二撃目は半分ほど削られた傷跡と寸分違わぬ場所へと吸い込まれていった。
「あのあのっ、ありがとうございました剣士様!」
捕食に必要な消化器官を刈り取られると、巨大植物の残りの部分は闇の奥へと引っ込んでいった。それを見て、駆け寄ってきた少女が頭を下げる。
「け、剣士様? ま、まあいいか。怪我は有りませんか?」
既に兵士では無くただの剣を振るう者となった彼は剣士に違いなかったが、そう呼ばれるのはくすぐったく感じた。それにしてもそれは気の利かない質問だったと思われた。少女の身体には、捕縛されていた時に付けられた擦り傷や締め付けられた跡が痛々しく残っていたのだ。眉をしかめる剣士に向けて、少女は明るく微笑む。
「ああ、このくらい平気です。すぐに治っちゃうんです。こんなの。森の中に居る限り、わたし達は不死に近い再生力と生命力を持っていられるんです」
その言葉に、改めて少女の全身を観察すると、確かに赤くなっていた締め跡はすぐに薄くなり、小さな擦り傷は既に見えなくなっている。ただ彼女の大きく白みの少ない双眸は潤んでいて、頬はまだ紅潮したままだ。先が細く伸びた耳の方までも。
「そうか、君は人間じゃないんだな」
「はい、わたしはドライアードです。あ、ドライアードというのは木に宿る精霊でして、特に何をするでもなく居るので、気のせいかもとか言われているんですけど、実際に木の精は居るのです。えーと……ごめんなさい」
早口で捲くし立てた後、自分の放った言葉が場にそぐわないと感じたらしく、申し訳なさそうに目を伏せる。そのコロコロと表情の変わる様子が可笑しくて、思わず頬が緩むのを彼自身が止めることは出来なかった。
「ふふ……」
「わわ、お、可笑しいですか? 可笑しいですよね? えへへ」
「いや、そうだね。そういう事にしておこうか。うん、君が元気なのはわかったよ。けどじゃあ、向こうに悪い事をしたかな?」
緑の怪物の残骸へと視線を戻すと、それは自身の消化液で溶けて消えようとしている最中だった。消化器官を削られては、たとえ森の生命力をもってしても再生は難しいように見える。本気で同情する気にはならなかったが、やりすぎは反省する事にしたのだ。
「そんな事無いです。あれはあいつの一部にすぎませんし、あのままじゃわたし、あいつの栄養になっちゃうところだったんですから! ……だから、剣士様は命の恩人です。本当にありがとうございます」
再び深く頭を下げた少女を、剣士は困った表情で眺めていた。彼女を助けた一番の動機はやり場の無い彼自身への怒りであったし、それにもっと早いタイミングで彼女を助ける事も出来たはずだったのだ。
「頭を上げてください。そんな風にされるようなものじゃないんです、あれは……とにかく、君が無事でよかったよ。じゃあ、俺はこれで」
居たたまれない気持ちから、剣士は早々に話を切り上げると、その場を去ろうと踵を返す。この場に居ては益々自分の恥を上塗りしてしまう気がしてならなかったのだ。
「ま、待ってください!」
制止の声は簡単に振り払えるはずだった。だが彼の足は行き場を見失う。己の行き先を見つけられなかった。
「もっときちんとお礼がしたいんです! 今はお渡しできるものを持っていないので、どうかわたしの家まで来てください」
足を止める理由なら、すぐに見つけられたのに。
頭一つ分下から上目遣いで迫ってくる彼女の好意を断る事は彼には出来なかった。彼女に答えを委ねてしまえる自分が情けないとも思えた。だが少女に先導されて歩く森の道は、ずいぶんと気が楽に思える。まるで森に迎え入れられているような、そんな気さえしてくるのだ。
実際、異種族であり植物に近い存在であるはずの彼女からは、好意的なものしか感じられない。異性を家に招くという行為を彼女の種族がどういった意味合いで使っているのだろうか。そんな事を考えながら前を行く後姿を見ると、先程の陵辱的なシーンが浮かんできて、彼は思わず視線を空へ向けた。木漏れ日が目に痛い。
「ここがわたしのお家です。普通ですいませんですけど」
「え……と」
進められるままに彼女が指し示す場所に目をやると、そこには一本の立派な大樹がそびえていた。
「ここ?」
「はい。あがって頂けたら嬉しかったんですけど……無理でしょうか?」
「ああ、無理じゃないかな。人間には」
我が家に身を寄せる少女の手が幹の中に溶け込んでいる。そうやって中に入るのは、彼女達には普通の事なのだろう。改めて感じる種族の違いに、二人の困惑した表情が重なる。
「そう、ですか。ではこちらでお待ちください。取って置きの宝物をお渡しします!」
「宝物?」
「はい。わたしの……大事なものです」
残念そうな顔と意味深な言葉を残し少女が大樹の中に消えると、その残り香に翻弄される男が一人残された。湧き上がる色の付いた妄想を振り払うように周りの木々に目を向けると、そこここに顔を覗かせる緑の風貌や白い手足。ここには彼女の他にも多くのドライアードが棲んでいるようだ。目の合ったその中の一つに気まぐれに手を振ってみると、慌てて身を隠した木の中から遠慮がちに小さな手が振り返される。歓迎されていない訳ではない。むしろ興味本位の視線が増えて、剣士は所在無さ気に頬を掻いた。
「お待たせしました」
よほど急いだのか、照れから来るものなのか、上気した笑顔が至近に現れた。そして俯きがちに湧き出てくる百面相に添えられた白い手のひらが開くと、そこには小さな粒が顔を出す。
「これは?」
「はい、あ、あの……実です、わたしの。こ、こんな小さなものしか出来なくて、本当は恥ずかしいんですが、他に渡せる物もなくて。あ、外の世界では珍しい物だって聞いてます。だから――受け取ってもらえますか?」
彼女の恥ずかしがるポイントを正確に理解する事は出来なかったが、その気持ちは素直に嬉しいと感じられた。森中から緑の視線が集まる中、せめて丁重に扱おうと差し出した男の両手に、少女の想いが静かに乗せられる。
「へぇ、貴重なものなんだね?」
「は、はい。何でも何処ぞの王様が欲しがっているとかで、高額の賞金が出るとかなんとか聞きました。わたし達にとっても、数年に一度のものなのでたくさんお分けする訳にはいきませんが」
それは本当に貴重なものだと感じられた。だが改めて観察した茶色の一粒は、何の変哲も無い木の実にしか見えない。
「これにどんな魅力があるのか、聞いても良いかな?」
一国の王がこれの何処に思い入れたというのか。漏れ出した問いかけに、少女はそれまでの受け答えが嘘のようにためらった後、小さな声を取り出した。
「長寿の薬になるんです。強力な生命力が身に付くとかで。あの、でも――」
彼女の話が真実なら、人類のいや全ての生物にとっての夢が彼の手の上にある事になる。木の実と少女の顔を見比べながら、男は彼女が飲み込んだ言葉を待つ事にした。美味い話には裏がある。そして彼女が自分にだけそれを明かそうとしたのではないかと感じ取ったのだ。
「わたしは、できればあなたにそれを使って欲しいです。でも、でも――――」
少女の独白は再び止まってしまった。そこまでの発言は彼女の今までの行為から予想できるものでもあった。それ以上に口に出来ない秘密がこの実にあるのだ。
「良いよ。教えてくれなくても。君がそうしてほしいなら、俺はこの実を使おう。飲み込めば良いのかな?」
杯を煽る様に木の実に口を寄せる。それを遮ったのは、慌てた表情の白い手だった。
「だ、ダメです! いえ、飲み込めばいいのは合っているのですが。そうじゃなくて、聞いてください! 聞いて、それで飲み込むかどうか、あなたが判断してください。じゃないと……やっぱりこんなのフェアじゃありません!」
彼女の家の根元に二人で腰を下ろし気持ちを落ち着けると、彼女はポツリポツリと語り始めた。
ドライアードの実は、確かに他の生き物に長寿を与えてくれる。しかしそれは、そのもの自身としては終わりを意味するのだと。ドライアードの実は他の生物の体内で成長し、その者の体を作り変える魔法の実なのだと言うのだ。
「つまり、俺がこれを飲み込むと」
「はい。あなたの体はわたし達と同類に変化します。それ故の長寿。それ故の生命力です」
話を始めてから、彼女は男の方を見ない。黙って使わせようとした事に罪悪感を感じているのだろうか。
「本当はこの話は実を渡す時にはするなって言われてます。それは、わたし達が仲間を増やす唯一の方法だからです」
目を伏せたまま、かすれた声が森の木々をすり抜けていく。彼女の仲間たちの中にはこちらに聞き耳を立てている者も居るだろう。彼女たちですら、元は別の生き物だったかもしれないのだ。
「でも君は話してくれた」
「それは……わたしが臆病者だからです。同族となったあなたから責められるのが、それを理由に離れていかれるのが怖かったんです」
静まり返る森の中で、彼女のかすれ声だけが、質量を感じさせた。
「そうか」
「はい。だからその実はどうぞ持って行ってください。その方があなたは幸せに暮らせるはずなんです。人として。わたしにそのお手伝いをさせてください」
ようやく上げられた瞳は朱を帯びていて、彼女の緑を濁らせる。だがそれは彼の心の重石を一つ取り除くのに十分な効果を発揮した。
「じゃあ、頂こうかな?」
「はい、どうぞ……って、ええっ!?」
いつの間にか握り締めていたそれを喉の奥に落とし込む事に、彼は何の躊躇いも見せなかった。彼女が話してくれた内容が、人同士の争いに疲れた兵士にどれだけ魅力的に聞こえたのか、少女は知らなかったのだ。
これからよろしくと言って手を差し出す剣士を、ドライアードの森は笑顔で迎え入れた。
それ以来森の外で、彼の姿を見たものは居ない。もし軍の人間が彼を探そうとしたならば、まだ若い木の幹に不自然に絡みついた一振りの剣だけを見つけることが出来ただろう。
大きな闇を抱え込むというドライアードの森は、今日も少しずつ広がり続けているのだそうだ。
<了>