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8.その後
五月一日に日付が変わる頃、マルティン・ボルマンとルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー、そして、アルトゥール・アクスマンの三人は、総統地下壕を脱出した。
しかし、赤軍によるあまりに激しい攻撃の中で、アクスマンは他のふたりとはぐれてしまう。生きのびたアクスマンは、一九四五年十二月、連合軍に逮捕され、ナチ戦犯として裁判にかけられ、三年三ヶ月の刑を受けたあと、戦後はセールスマンなどをして暮らし、一九九六年ベルリンで没した。
ボルマンと、シュトゥンプフエッガーは、砲撃の中で行方知れずとなった。総統官邸から北に数キロのヴァイデンダム橋でふたりの遺体を目撃したという報告もあったが、当時、遺体は見つからず仕舞いだった。一九七二年になって、ヴァイデンダム橋からほど遠くない工事現場で、二体の人骨が発見され、鑑定の結果ボルマンとシュトゥンプフエッガーの遺体だと確認された。だが、その鑑定結果を疑う人も多い。アルゼンチンに逃亡していた元親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンなどは、「ボルマンは南米で生きている」と証言しているが、真偽のほどは定かではない。
三人が持ち出したトランクに関しては、一切記録がない。アクスマンも死ぬまで、ついに一度もその行方について語ったことはなかった。
ヴェルナー・ハーゼ博士は、五月六日、旧地下壕にいるところを赤軍に捕らえられ、捕虜となった。六月にナチ戦犯として裁判にかけられ投獄されたが、一九五〇年十一月、モスクワのブトリュカ刑務所内の病院で、結核のため死亡した。
オットー・ギュンシェも、五月一日深夜、ボルマンたちとは別グループで、総統地下壕を脱出したが、翌二日、赤軍に捕らえられた。彼は、ヒトラーの最期を見届けた者として、何度も繰り返し尋問を受けたが、ついに真実を語ることはなかった。懲役刑を受けたあとは、西ドイツで会社員として暮らし、二〇〇三年、八十六歳で死去している。
そして、エルンスト=ギュンター・シェンクは、五月二日、ベルリンが陥落すると共に赤軍に降伏し、捕虜となったが、一九五五年解放されてドイツ連邦共和国に帰国した。その後、長い人生を生きのびて、一九九八年十二月二十一日、ドイツ国内で九十四年の生涯に幕を閉じた。最期の瞬間、彼の脳裏に去来したものが何なのか、知る者はだれもいない。
ヒトラーの妻エヴァとヒトラーの服を着た男の遺骸は、五月二日になって赤軍に発見され、ヒトラーとその妻のものであると鑑定された。
遺骸はその後転々と所在を変え、最終的には宣伝省大臣ヨーゼフ・ゲッベルス夫妻とその六人の子供たちと共に葬られた。ネオナチの聖地となることへの懸念から、墓所は厳重に秘されていたが、一九七〇年、KGBのチームによって掘り起こされ、一〇体の骨は焼いて灰にされ、エルベ川に撒かれた。