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7.総統地下壕―四月三十日・午後三時~
バッケンシュタインは、無表情のまま、機器類の目盛りをチェックしたり、スイッチを入れたり切ったりしている。シェンクは、彼がこれほどまでに協力的なのはなぜだろうかと訝った。命を盾に脅しているのであれば、彼が必死になるのも解る。しかし、バッケンシュタインは、自分の命に頓着していないように見えた。それとも、そう見えるだけで、この仕事が終われば、〝解放〟という褒美が待っていることを期待しているのだろうか?
いや、それほど単純な男には見えない。
バッケンシュタインが素直に仕事をすればするほど、疑惑は深まる。シェンクは、ユダヤ人医師から、片時も眼を離すことなく、その行動を逐一見守った。
総統閣下が入室してから、わずか三十分ほどしか経っていない。魂を抽出し、固定するという、とてつもない作業にしては、あまりにもあっさりと作業は終了した。
バッケンシュタインが加圧器のふたを開け、中から小さな筒を取り出した。筒を覗くと、底のほうに、小さな黒い塊が見えた。
シェンクが手を伸ばそうとすると、バッケンシュタインは、それを制して、筒を四角い箱の中に納めた。バッケンシュタインが組み立てたその箱は、定着器だというのだが、どのような機能を有しているのかシェンクには解っていない。
怪しげな箱を凝視していると、五分ほどで、バッケンシュタインは箱のふたを開けた。そのまま箱の中に突っ込もうとした手を、シェンクは乱暴に掴んで止めた。バッケンシュタインは、何か言いたげにシェンクの眼を見詰めたが、すぐに眼を逸らすと、素直に手を引っ込めた。
シェンクは、慎重に手を入れると、筒の底にある小さな塊を掴んだ。
手を引き抜いて、目の前で開いてみる。
それは、薄紅色をした小さな石だった。
作業に携わった他の五人も、シェンクの手の中の石を見て、感嘆の溜息をついた。
石はほんのりと温かく、微かな光を帯びていた。その光は、総統閣下の体からしみ出てきた気体が放っていた神秘的な光とそっくりだった。この石は閣下の魂に間違いないと確信した。
シェンクは、石をギュッと握りしめた。それが合図だった。
ギュンシェがワルサーPPKを抜いて、バッケンシュタインの右のこめかみに押し当てた。
「約束だぞ、教授」
バッケンシュタインが、シェンクの眼を見詰めて言った。
シェンクはユダヤ人医師から眼を逸らした。次の瞬間、銃声が轟き、床に倒れる音がいやに大きく響いた。
シェンクは、あらかじめ用意してあった金属製の煙草ケースに薄紅色の石を収めて、ポケットに滑り込ませると、急いで総統閣下の遺体に駆け寄り、閣下を覆っているビニル袋を破いた。さらに、ハーゼ博士とシュトゥンプフエッガーに手伝ってもらって、総統閣下の衣服を脱がせる。
その間にボルマンとギュンシェが、バッケンシュタインを裸にしていた。アクスマンが、バッケンシュタインの顔と、腕に入れ墨された数字に硫酸をかけると、ボルマンとギュンシェは、バッケンシュタインの遺体に、今度は総統閣下の服を着せはじめた。
シェンクとハーゼ博士は、総統閣下の遺体を解体する作業に入った。
被災した市民の手術のために、仕方なく覚えてしまった手足の切り落としが、まさかこんなところで役に立つハメになるとは思いもよらなかった。まるでこの日のために市民の体を使って訓練してきたかのように、はじめてのときは一時間近くかかった切断が、コツを覚えた今では、ものの十分もあればできるようになっている。遺体の切断は、止血や消毒の手間がない分、さらに短い時間でできる。
ハーゼ博士と共に、シェンクは手際よく総統閣下の四肢と首を切り落としていった。その隣で、シュトゥンプフエッガーが、塩化ビニルの小袋に、切り落とした部位を入れては真空ポンプで空気を抜いてパッキングする作業を淡々と進めていた。
やがて、総統の服を着た男の遺体がひとつと、かつてアドルフ・ヒトラーと呼ばれ、総統として一国を指揮した男のパーツを詰め込んだトランクが三つ出来上がった。
すべての作業が終了すると、ボルマンが、扉の外を守っていたハインツ・リンゲ親衛隊中佐とローフス・ミシュ親衛隊曹長に、エヴァを連れてくるように命じた。
部屋に入ってきた総統の妻は、総統の服を着て倒れている男と、絨毯に染みついた大量の血液を見て息を飲んだ。状況を飲み込めずに戸惑っているエヴァに、ハーゼ博士が「遺言です」と言って、シアン化物のカプセルを差し出した。エヴァは、それが何を意味するか、すぐに理解したようだ。
「せっかく一緒になれたの。別れ別れにするなんて、残酷なことはしないでね」
エヴァは、そう言って微笑むと、毒のカプセルを噛み砕いた。
ハーゼ博士がエヴァの脈がないことを確認すると、ミシュがエヴァの遺体に毛布をかけて抱え上げ、ギュンシェとリンゲが、総統の服を着た男を血まみれの絨毯で包み、地下壕の外へ運び出した。
ふたりの遺体は、総統官邸の中庭で、ガソリンをかけられて焼却される手筈になっている。
部屋に残った者のうち、ボルマンが、親衛隊を呼び集め、トランクを運び出すよう命じた。シュトゥンプフエッガーとアクスマンは、その作業を監督するため、部屋を出て行った。
シェンクはポケットの中の煙草ケースを握りしめた。
総統閣下は、魂を守り抜くようにとシェンクに口頭で遺言していた。シュトゥンプフエッガーには肉体の保管を命じている。遺言の場に立ち合い、その実行の確認を任されたのがボルマンだった。
閣下は口には出さなかったが、医者であるふたりが、いつか魂を肉体に戻す術を見つけ出すことを期待していたのだろう。大臣や将軍をはじめ、数多いる側近の中で、シェンクとシュトゥンプフエッガーが選ばれた理由は、それ以外思い当たらない。
殉死を覚悟していたシェンクだったが、これで生きのびねばならない理由ができた。これから先、何があろうと、どんな目に遭おうと、必ず生き抜いて、総統閣下の魂を守り抜くと、決意を固めた。
「閣下をよろしく頼む」
ハーゼ博士が、シェンクに握手を求めてきた。
博士は、重い結核を患っており、自分の命が、そう長くはないことを知っている。
シェンクは、小さく微笑む博士の手を無言で握り返した。
「私は、このままここに残る」
ハーゼ博士の言葉に頷くと、シェンクは、踵を返して部屋を出た。