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6.総統地下壕―四月三十日・午後二時半
部屋の中央にはソファーが置かれ、その上に、塩化ビニルのシートが置いてある。厚手の透明シートは、三方をヒートシールして袋状にしてあった。空気漏れがないか、何度も厳重にチェックした品だ。ソファーの手前にはテーブルがあり、そこには、チューブで繋がれた濾過器や加圧器や、放電装置や、冷却器などが置かれている。
このような状況下で、要求した品を短時間できっちりと揃えたナチス幹部たちの手際に、バッケンシュタインは感嘆せずにいられない。この頑固なまでの完璧主義こそが、まさしくドイツ人なのだ。
彼らの失敗は、その完璧主義を世界中に押しつけようとしたところにある。結局〝アーリア人種〟などというものは、理想に過ぎず、現実ではなかった。真にアーリア人の国を築こうするならば、ヒトラーも彼の側近たちも、だれひとり今ある椅子には座っていない。それでも無理やり完璧であろうとしたところから、欺瞞が始まり、歪みが生まれた。
今、バッケンシュタインの目の前に、その欺瞞の椅子に座った面々が揃っていた。
シェンクとギュンシェ、そしてヒトラー。その他の人物も、わざわざバッケンシュタインのために名乗るようなことはなかったが、会話を聞いているうちに、彼らの名前も自然と知れた。
厳つい顔付きで、仕立てのよい軍服に将軍の印を付けた、恰幅のよい男はボルマン。態度にも顔付きにも権力を使うことに慣れた人間特有の傲慢さがにじみ出ている。
細面でやや気弱そうな中佐はシュトゥンプフエッガー。どうやら医者であるらしい。
隻腕の若い男はアクスマン。知的でありながら野性味のある顔付きをしている。立派な勲章を付けているところを見ると、軍功のある有能な士官だったに違いない。
腕に赤十字の腕章を付けた小柄な老人はハーゼ博士。いかにも医師らしい落ち着きと知性あふれる瞳をしている。ときどきひどく咳き込むのは結核を患っているためらしい。
今、彼らに指示を与えているのは、他でもない、ユダヤ人であるバッケンシュタインだった。そのことに、黒い満足感を覚えながら、彼は作業を進めた。
ヒトラーに、ビニル袋の中に入るよう指示する。ナチスの総統は、ユダヤ人の言葉に素直に従って、ソファーの上に四つん這いになると、袋の中に潜り込んだ。シェンクがそれを手助けする。
ヒトラーが袋の中に入って仰向けに寝ると、バッケンシュタインは、ギュンシェとシュトゥンプフエッガーに、出来るだけ空気が少なくなるようにして、袋の口を閉じるよう命じた。
「麻酔を使うなどして……その……閣下に眠っていただくわけではないのかね?」
シュトゥンプフエッガーが、不安そうな顔で訊いてきた。
「もっとも大切なのは、瞬間を見極めることだ。その瞬間を見落としては、何もかも無駄になってしまう。対象が眠っていては、その見極めが難しくなる」
冷たく返答したバッケンシュタインに、シェンクが怒りのこもった眼を向けた。
「あなたは、自分の娘のときも、同じようにやったのか?」
その質問が、バッケンシュタインの心をどれほど突き刺すものか、判っていてわざと問うているのだろうか。お前は怒れるような立場なのかと聞き返したいところだったが、口には出さなかった。下手な口論で、貴重なチャンスが潰れてはかなわない。
「娘を愛していなかったのか?」
なんという短絡的な思考なのだろう。この男は、人間というものを理解していない。
「心の底から愛していた。自分自身よりも、この世の何よりも」
感情を抑えて淡々と答えると、シェンクは、無気味なものを見るような眼でバッケンシュタインを見た。いくら説明したところで、自分がどんな気持ちで娘の魂を抽出したか、この男は永遠に解りはしないだろうと思う。
「作業を続けてよろしいかね?」
平静を装って問うと、シェンクは口を閉じて頷いた。
「では、続けよう」
ギュンシェとシュトゥンプフエッガーが、空気を押し出した。袋の口を閉じるとき、バッケンシュタインは、チューブを袋の口に挿入し、テープで厳重にシールした。
袋の中で、ヒトラーが不安気に身じろぎする。
その姿に内心ほくそ笑みながら、真空ポンプを動かすよう命じた。
アクスマンが、電動式のポンプのスイッチを入れた。モーターの唸りと共に、ポンプが作動し、袋の中に残っていた空気が一気に吸い出される。
塩化ビニルのシートが、ヒトラーの体に密着する。顔面にもシートはぴったりと張り付き、ヒトラーは苦しそうにもがいた。だが、体を締め付けるシートが動きを妨げている。
眼を見開き、空気を吸おうと喘ぐ。叫ぼうとしたようだが、声にはならない。舌が脹れ、眼球が飛び出しそうだ。恐ろしい形相なのだが、ぴったりと張り付いた透明シートのせいで、どこか滑稽ですらある。その姿に、バッケンシュタインは満足した。
シェンクがこちらの顔を盗み見ている。薄ら笑いを浮かべているのを期待したのだろうが、そんな期待には応えてやる必要はない。冷徹の仮面を被り、心を隠す。真理を探究する科学者の顔付きで、静かに復讐を遂行する。
苦悶を浮かべていたヒトラーだったが、顎がわずかに震え、弛緩する。
「とめろ!」
間髪を入れずアクスマンに命じ、チューブの根もとを太いクリップで留めた。
モーター音が止んだ静寂の中、全員の視線がヒトラーの上に集まった。
「あ……」
最初に呟きを漏らしたのはハーゼだった。
「何だ……?」
ボルマンが不審気に眼を懲らす。
「これが……?」
シュトゥンプフエッガーが瞳を輝かす。
密着していたシートが、体からはがれ、浮き上がってきているのだ。
袋はみるみる脹らみ、ヒトラーの体の回りに薄い空気の層が出来上がった。
袋の中の気体は、微かに燐光のような光を発し、その光で、ヒトラーを包むビニル袋全体が淡く光っていた。
バッケンシュタインは、魂の抽出に成功したことを知り、ホッとした。正直、成功するかどうかは運次第だった。死の瞬間を見極めるのが難しい。吸引を止めるのが早すぎれば、袋に空気が残って魂と混ざってしまう。魂は、空気に触れると急速に変質してしまう。逆に止めるのが数秒でも遅ければ、この気体も一緒に吸い出されてしまっていただろう。
全員が黙って光る気体を見詰めていた。神秘を見たものだけが味わう畏敬の念。彼らの感動が空気を通じて伝わってくるような気がした。
魂の輝きに見蕩れる側近たちを尻目に、バッケンシュタインはひとり淡々と作業を続けた。クリップの外側でチューブを切断し、机の上に並んだ機器から続くチューブを繋げ、テープでがっちりと留める。そして、袋の脹らみ具合を手で押して確認すると、チューブを留めていたクリップを外した。
みなの溜息と共に、ヒトラーの魂は、チューブを伝って機器類のほうへ吸い込まれていった。
ボルマンが無言のまま敬礼をした。他の面々もそれに倣った。